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川柳的逍遥 人の世の一家言
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通過するカメレオンなら雨上がり  蟹口和枝


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    豊臣秀次像

≪画面下部に描かれているのは、時計回りで、

秀次のもとに殉死した玄隆西堂、山本主殿(19歳)、雀部淡路守、

山田三十郎(19歳)、不破万作(17歳)である≫

「秀次の悲劇」

文禄元年(1592)3月26日、

秀吉はかねてより、計画していた大陸侵攻のため、

肥前名護屋城に入るが、

同行した淀殿が、第二子を懐胎する。

大坂城に戻った淀殿は、

文禄2年8月3日、再び男児を出産した。

狂喜した秀吉は、今度の子には、鶴松の幼名「捨」とは反対の

「拾(ひろい)」と名づけた。

翌年、秀吉は、伏見城築城工事現場から、

「おひろいさま」宛てに自筆で手紙を送っている。

水で酔えるのも血液型のせい  井上一筒

「先日は工事現場まで見送ってくれてありがとう。

 でも、あの時は、まわりにたくさんの人がいたので、

 あなたの口を思いっきり吸うことが出来ず、

  たいへん残念でした。

 未だにそのことが、心残りでなりません。

  まもなくそちらへ行って、今度は誰に気兼ねすることもなく、

  そなたの口を吸います。

  油断してお母さん(淀殿)に口を吸われないよう、

  くれぐれも気をつけてください」

と述べている。

秀吉の溺愛ぶりがよく分かる。

梅雨空を剥がすと好きが溢れ出す  和田洋子

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淀殿が第二子・拾(秀頼)を産んだことで、

関白太閤の関係は、きわめて微妙なものとなった。

文禄2年(1593)9月20日、

秀吉は新たに築いた伏見城へ移り、

10月1日、拾と秀次の娘との婚約を、秀次側に申し入れた。

翌年の正月には、諸大名を動員し、

伏見城の外郭内に、

それぞれ屋敷を営むように命じた。

企みを図りかねてる風の向き  太田芙美代

秀吉の拾への溺愛により、

豊臣家中の空気は、少しづつ変わっていく。

秀次も、不穏な空気を察知したのか、江に、

「関白を返上した方がいいのではないか」

と聞いてくる。

それに対して、江は、

「気にしなくてもいいのではないか」

と答えた。

それが、悲劇の始まりだった。

開幕ベルだったのか河馬のしゃっくり  森田律子

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ところで、秀吉が、指月山伏見城の工事を始めたのは、

経済開発としての意味もあったが、同時に

「京都を関白・秀次の勝手にはさせない」

という意思表示でもあった。

自らの本拠地であり、

拾と茶々も、この伏見城に呼び寄せた。

政や軍事に関する求心力は、

秀次から離れ、
秀吉と拾の身辺へと移動していく。

絵の具からサッカーボールへ乗り替える  岩根彰子

そして、秀吉は、秀次との折り合いを何とかつけようと、

努力をする一方で、

秀次との対決に備える根回しに、

京都で有名大名の邸宅を、盛んに訪問し加えて、

また、御所で能を上演するなど、朝廷との交流も積極的に行い、

また諸大名に、伏見に屋敷を建てさせたりした。

そのころから、秀次の生活は乱れ始めた。

政は放ったらかしで、狩りに熱中し、

酒びたりになった。

引き出しの中からそっと波の音  高橋謡子

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    秀次自刃の間

≪高野山金剛峯寺にある柳の間≫

そんなとき、秀次に謀叛の疑いが起こった。

三成は、「謀叛の企てなどはない」 

という誓紙を書かせたが、

それですべてが、終わったわけではなかった。

点す部屋消す部屋風の階のぼる  田中博造

当時の状況を、ルイス・フロイスは、

「関白は、優れた才能を有し、気前のよい人で多くの資質を備え、

 機敏・怜悧、かつ稀にみる賢明さの持ち主であり、

 特に親切であった」 

と絶賛する一方、

「拾の誕生で、秀吉との関係は『破壊』された。

  なお秀吉は、(秀次に対して)関白の座を拾に譲るよう,

 画策し始め、城内においてだけでなく、城外においても、

  『今に関白殿が太閤様に殺される』

  という噂は、日一日と弘まるばかりであった」

と、伝えている。

カラオケとカンオケの因数分解  黒田忠昭


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        秀次の墓(瑞泉寺)

≪秀次の首は、30余人の妻子ととも、にここに葬られ、

    かっては、「秀勝悪逆塚」が建っていたというが、

    今は瑞泉寺が手厚く弔っている≫

フロイスの言う、その噂は、まさに現実のものとなる。

江は後悔したが、時すでに遅かった。

秀次は、秀吉に直接の弁解も出来ないまま、

文禄4年7月8日、秀次は「高野山に追放」された。

その後、秀吉は前田玄以をして、

朝廷に、「関白の追放」を奏上し、

15日には、福島正則を高野山に派遣して、

「切腹」を命じた。

その一か月後の、8月2日には、

彼の妻・妾・子女30余名が、
京都・三条河原で虐殺され、

聚楽第も破却の憂き目を見た。

≪余談ー秀頼を産んだことで間接的に、秀次を自刃させた淀殿は、

  夢枕に秀次が立つのを見たという≫

こうして、豊臣政権は、

伏見城の秀吉のもとに、一元化された。

昼の月ぬるい男を消去する  たむらあきこ

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大河ドラマ・第28回-「秀忠に嫁げ」  あらすじ

秀吉(岸谷五朗)は、京の南・伏見に築いた新たな城に移った。

「その城は権力の中心は自分である」

と改めて示すかのような、立派なものだった。

そうなると、穏やかにおられないのが、

秀吉から関白の血を継いだ、秀次(北村有起哉)だ。

聡明な彼は、拾が生まれた今、

自分は邪魔者であると理解している。

自らの立場の危うさに不安を募らせ、

関白の仕事にも身が入らない。

風が止む木の葉一まい置いてある  佐藤美はる

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秀吉の拾への溺愛ぶりを、知っている江(上野樹里)も、

秀次の身の上を、案じていた。

なんといっても秀次は、亡き秀勝に、

「好きになってほしい」 と頼まれた義兄なのだ。

江は、家康(北大路欣也)から、

「関白としてほころびを見せないことが大事」

と助言をもらったこともあり、

秀次の乱れた暮らしぶりを、改めさせようとする。

だが事態は、彼女が考えているよりはるかに、

深刻だった。

いかなごとクロスワードを埋めている  赤松ますみ

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秀吉から、「秀次を排除したい」という思いを、

それとなく伝えられた三成(萩原聖人)が、

すでに、秀次を失脚させるべく動いていたのだ。

数ヶ月後、秀次は謀叛を企てたとされ、

突然三成らに拘束される。

江は、罪をでっち上げて、秀次を追い込む三成をなじり、

「すぐに秀吉と話をさせてほしい」

と申し入れるが、三成は承知しない。

芯が腐っている住民票は枯れていく  壷内半酔

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逆に、「秀次が切腹の処分を受け入れたことこそ、

     企てが存在していた証拠だ」

と開き直り、

「彼に会うことも、まかりならん」 

と取り付く島もなかった。

切腹と聞き、とにかく秀次に会おうと決意した江は、

素早く三成の脇差を抜き、

自らの喉に突きつけていい放つ。

「死ぬなど怖くはない。秀次様に会わせよ」

その断固とした態度に、三成はたじろぐ・・・。

ご機嫌は斜め蛇口が閉まらない  谷垣郁郎

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一方、家康は、拾の誕生によって、

豊臣政権がどう変わるのか見極めるため、

秀忠(向井理)を従えて京に来ていた。

そしてすぐに、秀次失脚は遠くないと悟る。

家康は、江のもとに立ち寄った際、

秀次の今後について意見を求められ、

「真面目に政務に励むことこそ肝要」

と答えたものの、

そのぐらいで、情勢は変わらないとわかっていた。

消しゴムという味方ならいてくれる  杉本克子

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江の前から離れると、

秀忠は、彼女に気休めを言った家康を非難する。

だが、家康はそれには答えずに、

「ワシは江戸に帰るので、お前は残って様子を知らせよ」

と命ずる。

そして、秀吉と秀次の間に、

「事が起きたときは、迷わず秀吉に味方するよう」

申しつけるのだ。

猜疑心ばかり生まれる言葉尻  籠島恵子

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