川柳的逍遥 人の世の一家言
≪小西行長の軍に取り囲まれる東菜城。 東菜城は、その進路上にあったため、釜山城に次いで攻撃を受けることになった≫ 「朝鮮出兵」 朝鮮出兵の緒戦において、渡海した兵力は15万8千余人だった。 軍は9陣に編成され、 秀勝は殿(しんがり)の9陣を、細川忠興軍3千5百とともに任され、 まず壱岐に在陣した。 先鋒の小西行長と加藤清正は、釜山に上陸すると、 朝鮮側の攻撃をほとんど受けず、 競うように漢城(ソウル)をめざし、わずか20日で無血入城する。 破竹の日本軍は、北上し6月15日、 平壌(ピョンアン)をも制圧した。 しかし、朝鮮側も義兵が蹶起し、ゲリラ戦で日本軍を攪乱し、 海には名将・李舜臣(イ・スンシン)が現れ、 釜山の西南西にある巨済島(コジェド)の周辺海域で、 藤堂高虎、脇坂安治が率いる水軍を、次々に破り、 日本の制海権が危うくなる事態となった。 文禄2年(1593)、釜山海を進む日本水軍。 秀吉は日本水軍の非力を悟ると、”巨済島”に城を築いて、 陸伝いに、朝鮮水軍を討つことを決めた。 当時、日本の将兵は異国の水が合わず、 また気候にも、なじめなかった。 夏まではよかったが、 薄皮を剥いで尻尾を切り忘れ 谷垣郁郎 羽柴秀勝も病んで、陣中に臥す。 病状は重く、戦地だけに大した治療もできぬまま、 病状は悪化、ついに9月9日、24歳の若さで没した。 戦場での不名誉な病死、 しかも、お江から「稚児(やや)ができた」との、 秀勝の無念は、やるかたなかった。 この時、ちょうど黒田如水(官兵衛)が釜山に来ていた。 秀勝の死の後始末を如水がし、 秀勝の兵は、周辺諸城の諸大名に分散して、 再配属された。 そして、秀勝の遺体は海を渡り、京都に戻った。 秀勝の遺体の帰還と、 お江が娘・完子(さだこ)を産んだのはどちらが先か、 それを知る史料はない。 しかし涙の中で、 お江は完子を、秀勝の生まれ変わりだと信じた。 ≪お江は姑・ともと京都亀山の地に葬る。 ともは、そこに善正寺を建立したが、 後に彼女自身が、京都市街の岡崎に移した。 いま善正寺に秀勝の墓は現存する≫ 貼り付けたままの笑顔が続く夜 平尾正人 お江は聚楽第の秀勝屋敷を去って、大坂城に戻った。 そして名護屋での姉・淀殿の妊娠を知る。 大坂城に戻って姉は、秀頼を産んだ。 お江は秀勝に死なれ、徳川秀忠に嫁ぐ間の3年間、 大坂城で過ごした。 お江は、わが娘をあやし、 ひとつ違いで生まれた秀頼と、遊ばせるなどしながら、 子育ての喜びを姉・淀殿と、大坂城で共有したのである。 青い鳥のあくびにつきあっている 桂晶月 PR |
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