ロンパリ!考える椅子
川柳的逍遥 人の世の一家言
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秀吉とは
乱調のタクトに冬が舞い降りる 桑原すず代
醍醐花見図屏風
秀吉が死の直前に催した京都の醍醐寺の花見を描いている。
醍醐の花見ー2
秀吉
(右)
の左横が北の政所、その横で赤と茶の幟を持つのが淀と竜子
「秀吉とは」
慶長3年3月、心労の多かった
秀吉
は、気晴らしにと花見を計画した。
醍醐寺で行われたその花見に招かれたのは、
豊臣家の女たちとその侍女、
大名の女房衆だけという、
異様なものだった。
醍醐の花見で能を舞う秀吉その中で、秀吉は、思い切り楽しんだ。
これは慶長の大地震によって亡くなった、多くの女性たちを弔うだけでなく、
秀吉自身が元気な様を、大勢に見せつけ、最期が近いことを感じさせまい、
とした目的もあったとされる。
しかし、その醍醐の花見から2ヶ月もしない5月5日、
秀吉は、伏見城で病床の人となる。
「太閤秀吉が伏見城で病床についた」
と
家康
から江戸城に報せが入ったのは、
それから2ヶ月後のことだった。
途中下車してみませんか屋台骨 田口和代
がいき
秀吉の病名は、咳気だ。
咳気とは、咳き込むことだが、肺炎また肺癌と考えられる、重い病気だった。
病床の秀吉は、自分の死後、豊臣家と
秀頼
の将来が不安で仕方なく、
新しい政治体制として、
「五大老と五奉行の制度」
を定めた。
五大老は
家康
を筆頭に、
前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家
。
政治をとりしきる集団指導制ではあるが、顔ぶれを見れば、
家康に牛耳られてしまうことは必定だった。
そこで秀吉は、大老をチェックする
「奉行制度」
も作った。
石田三成
を筆頭に、
前田玄以、浅野長政、増田長盛、長塚正家
の五人が、
あらかじめ細目を決め、五大老にあげる仕組みだ。
「よしよし」
秀吉は病床で安堵した。
味方だと言うが斜めに構えてる 籠島恵子
秀吉の遺言状
(慶長三年八月四日)
『秀よりの事なり立ち候やうに、此かきつけしゆへしんにたのみ申候。
なに事も、此ほかは、おもひのこす事、なく候。かしく。
いへやす
(徳川家康)
ちくせん
(前田利家)
てるもと
(毛利輝元)
かけかつ
(上杉景勝)
秀いへ
(宇喜多秀家)
、
返々、秀より
(秀頼)
事たのみ申候。
五人のしゅ、たのみ申候。いさい、五人の物に申しわたし候。
なごりおしく候』
7月半ば頃になると秀吉は再起し難いことを悟り、
秀頼と豊臣家の将来を、
いろいろと憂慮し、大名たちを集めて
「11か条に及ぶ遺言」
を述べた。
「第一条」
は、家康に対して、秀頼を家康の孫・千姫の婿にしたのだから、
その孫婿・秀頼を取り立ててほしいと、五大老の前で何度も懇願した。
「第二条」
は、若い頃から付き合いのある利家に対して、
「秀頼の守り役として面倒を見てもらいたい」
と、咳き込みながら語った。
「第三条」
は、
「親の家康殿が年をとられ、いずれ秀忠の時代が来たら、
家康公と同様に、秀頼の面倒を見てもらいたい」
と秀忠に頼んだ。
嗄れた耳は明日を培養中 河村啓子
五大老の花押
五大老と五奉行は、それぞれ記請文を認めて、その命令に背かないことを
紙に誓い、これに
「花押」
を書き、血判を押した。
「なごりおしく候。秀頼をよろしく頼む」
家康に最期の言葉を残して、息絶えた。
8月18日、享年62歳。
天下人である
太閤秀吉
といえども、最期は、このような姿をさらす。
それを見守った五大老と五奉行の胸には、それぞれの明日が去来した。
「秀吉辞世の句」
”露と落ち露と消えにし我が身かな なにはのことは夢のまた夢”
あの世からこの世の夢が見えますか 小永井毬
ポルトガル人の宣教師、
ルイス・フロイス
はその著書・『日本史』に、
秀吉に会見した際の印象として
「身長が低く、また醜悪な容貌の持主で、片手には六本の指があった」
と記している。
因みに秀吉の身長は140㌢くらいだったとか。
あだ名
「猿」
の由来は顔ではない?
秀吉の容貌については、猿に似ていたとよくいわれる。
しかし、
有吉弘行
ばりにあだ名をつける名人だった主君の
信長
は、
秀吉を
「禿鼠」
と呼びこそすれ、
「猿」
と呼んだ確証は実のところない。
(余談ーフロイスは慶長2年7月8日に死去した。享年65歳)
通過するカメレオンなら雨上がり 蟹口和枝
秀吉は天下人となったのち、自らの神格化のため、
母なかは懐に太陽が入って受胎する夢を見て、
ひえさんのうごんげん
自分を日吉山王権現の申し子として生んだという
「日輪受胎説」
を流布させた。
ここから「猿」というあだ名も、相貌が似ていたからというよりは、
日吉神社の神獣が猿であることに由来する、とも考えられている。
私という欠片を入れてシチュー鍋 雨森茂樹
[3回]
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y2016/07/30 09:00 z
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