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川柳的逍遥 人の世の一家言
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整いましたと神さまから返事  桑原伸吉



慶長伏見地震を題材にした歌舞伎「地震加藤」の錦絵
(加藤とは清正のこと)


「秀吉と地震」

火山国である日本では、歴史上、大きな地震が多発しており、

秀吉は、マグニチュード7を超える2度の大地震に遭遇し、

時の権力者としてのその復興に携わっている。

最大震度6、マグニチュードおよそ7・8ともいわれる

「天正地震」が起きたのは、天正13年(1585)11月29日である。

天正13年といえば、7月には秀吉が関白に就任し、

8月には、四国・飛騨・越中を平定し、勢いは収まらずそのまま、

10月になると、10万の兵をもって徳川攻略への進軍を始め、

ほぼ、天下を目の前に引き寄せた年でもある。


蓮華座をほぐせば辛子明太子  井上一筒

天正の大地震は、現在の岐阜県揖斐郡あたりが震源地と伝えられ、

死者の数は数千人に達したという。

地震が起きたとき秀吉は近江の坂本にいたが、

運よく建物の崩壊や圧死を免れて、すぐさま大坂城に戻ったという。

しかし琵琶湖を挟んで坂本の対岸にある、秀吉の元居城・長浜城は崩壊。

当時城主だった山内一豊の娘が建物の下敷きになって亡くなっている。

秀吉は災害からの速やかな復興は、為政者の支配力を示すと同時に、

民衆の信頼を得る機会でもあると考え、

地震後すぐに被災地域の再建を指示したという。

火の国でムンクの叫び聞く余震  藤村とうそん 

とにかく現代を思い起こさせるような、天正の時代は地震が頻発している。

天正地震から4年後の天正17年(1589)には駿河・遠江で地震が発生。

多くの民家が破損した。

天正18年には、千葉県最南部にあたる安房では、

土地が2メートルほど隆起し、
潮が引いて3キロの干潟が形成された。

こうした不吉な事態を嫌って年号は、天正19年に「文禄」に改められる。

そしてこの年、北条を滅ぼし、秀吉は「天下統一」を成し遂げた。

クレヨンの黒で日の丸描いている  杉山ひさゆき

これらの地震の6年後の文禄5年(1596)7月13日、

連動した可能性を持つ3つの地震が、僅か5日の間に西日本を襲ってくる。

「慶長伊予地震」、「慶長豊後地震」、「慶長伏見地震」である。

慶長豊後地震は豊後(大分県)で死者800人以上を出し、

別府湾にあった2つの島が海中に没し、

高さ10メートル近い津波が押し寄せたと伝わる。

慶長伏見地震は京都の伏見にある有馬-高槻断層帯などを震源とし、

最大震度6マグニチュードおおよそ7・3と推定されている。

内陸型地震で、京都と堺で千人を上回る死者を出したとされ、

伏見城の天守閣は大破、京都の大覚寺、天龍寺も倒壊している。

震度7地響き立ててきた悪魔  荻野浩子


庶民出揃って鯰退治している絵

秀吉が「ナマズの仕業だ!」と発言したせいで
「ナマズ」が、
地震の原因という迷信が広まった。

この時秀吉は伏見城にいたが、北東の高台である木幡山に避難している。

そして、ここでも又、不吉を嫌い年号は文禄から「慶長」に改められた。

そして、秀吉は、これらの経験を基に、城近辺の地質調査を行い、

地盤が強固と考えられた高台に新しい伏見城を再建。

復興工事には多くの人員が動員されて景気回復の足がかりとなった。

そのうえ、その賃金は被災者の生活を再建する資金になったという。

宣教師・ルイス・フロイスが本国への報告書で、

「数ヶ月もしないうち、地震は人々の話題にのぼらなくなった」

と伝えている。

そこからも、復興の速さがうかがい知れる。


(日本の住まいは、多く紙と木を材料としているため、

   災害に遭いやすい反面、
災害復興を容易にしたとも考えられる)


レンコンの節は物怖じなどしない  美馬りゅうこ

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