坊さんが音痴で成仏せぬお経 上田 仁
祐天和尚・累ケ淵怪談(北斎画)
「北斎百物語」 夏はやっぱり怪談話
「百物語」とは、百の物語を画題として、幽霊・妖怪を描いた化物絵。
当初は百の化物絵として、北斎に依頼したものと思われるが、
今日確認されるものは、下記の5図のみである。
「お岩さん」
「東海道四谷怪談」のお岩さん。夫・伊右衛門に惨殺されたため、幽霊
となって復讐を果たすという怪談の定番である。歌舞伎などの舞台では、
恐怖感を煽るため、お岩さんの美しい顔の半分は、毒によって爛れ、目
は腫れ上がり、髪は乱れ、恨めし気な表情で闇に浮かぶが、北斎の描く
お岩さんは、目はたれ目に大きく開き、後頭部の髪が提灯というユーモ
ラスな絵にしている。
ウイッグを捨て駆け出してゆく夕日 河村啓子
「皿屋敷」
番町皿屋敷、お菊の幽霊である。ある大名の腰元・お菊は、家宝の皿を
割ったために手討ちにされ、古井戸に投げ込まれる。実は濡れ衣だった。
怨念を抱いたお菊の霊が古井戸から出てきて、夜な夜な皿を1枚2枚…
と陰に籠った声で数えるという話である。北斎が描くと、幽霊のお菊は、
胴体は蛇でろころ首に仕立て、皿が巻き付いている。お菊の横顔は怨念
など認められず、口元の煙は、溜息を吸い込んでいるようである。
人の世はモヤモヤモヤの繰り返し 喜田准一
「笑ひはんにや」
般若とは「嫉妬や恨みの篭る女の顔」とある。女の怨霊である。子ども
の生首を手づかみし、般若顔の女が食べている。血がべっとりついた口
元、何が可笑しくて笑っているのか。人間の子どもをさらっては食べる
鬼子母神の姿と重なる。鬼子母神は後に改心して善神になるが、この鬼
女はまだまだ改心しそうもない。鼻の穴を大きく開き、口は子どもの顔
を一飲み出来るほど大きい。左の人差指は子どもを指さし「これはうま
いぞ」と言っているようだ。子供の顔が蒼ざめている。
生きているものはいつでも湿ってる 居谷真理子
「小はだ小平二」
小平治は江戸の歌舞伎役者である。ようやく小平次が得たのは、顔が幽
霊に似ているとの理由で幽霊役だった。彼はこれを役者人生最後の機会
と思い、死人の顔を研究して役作りに努めた。苦労の甲斐あって小平次
のつとめる幽霊は評判を呼び、ほかの役はともかくも幽霊だけはうまい
ということで、「幽霊小平次」と渾名され人気も出はじめた。そんな小
平治を尻目に女房のお塚は、鼓打ちの安達左九郎と密通していた。二人
には小平治が邪魔になり、旅興行先で左九郎は、「釣りでもどうか」と
小平治を誘い安積沼へ行くと、そこで沼に突き落とし殺してしまう。
絵は藻の茂る沼の通路から死んだはずの小平治が顔をだすという、実際
にあった恐い恐いお話し。
悔しさをこんなに溜めてゴミ袋 美馬りゅうこ
「しうねん」
戒名の「茂問爺無嘘信士」。茂問爺は後の画号・百々爺のもじり。北斎
のウイットである。ところどころに隠し絵を散りばめて、戒名の上の梵
字は女の横顔のようだ。また、卍は北斎が信仰する妙見の印であり、こ
れも北斎の晩年の画号でもある。水の溢れた卍の茶碗にひらりと一枚の
葉っぱ。これは自身の命を表現したものだろうか。白い画紙と北斎大好
物の甘いお菓子が三方に載り、それを大蛇が取り巻いて、生きている自
分を弔っているのだ。「しうねん」とは何に対しての「執念」なのか、
その結論は、自分の長寿へのしうねんなのかもしれない。
マフラーのように大蛇を巻きつける 青砥たかこ
新板浮絵 化物屋敷百物語
『百物語』とは明和~安永、天明、寛政、文化、文政まで流行した「会
談会」のことで、人々が集まり、次々と怪談話をする灯明や蝋燭を百本
灯して、一つの話が終わるたびに一つずつ消していく、最後の一つを消
した途端、あたりが真っ暗になって、何かが起こるという趣向である。
煩悩を捨てると柿は甘くなる 笠嶋恵美子
天明6年(1786)~寛政元年(1789)北斎が勝川春朗を名乗っ
ていた頃、西村永寿堂から大判錦絵「新版浮絵 化物屋敷百物語」を刊
行していた。これはちょうど最後の話が終わり、蝋燭が吹き消された時、
話に登場した化物や妖怪たちがどっと現われ、居合わせた人々がこれに
びっくりして逃げ惑う場面を描いている。
銅版画風透視法を意識した奥行きのある屋敷や邸内を背景に、一つ目小
僧やろくろ首の化物も登場している。女の化物の長い髪の毛やろくろ首
の鱗の鋭い細線が異様で、気味悪さが満ちている。
見たくないでも見たくなる蛇の穴 藤井寿代
北斎、歌舞伎役者と大喧嘩 「葛飾北斎伝ゟ」
文化7年(1810)頃、俳優・尾上梅幸の技芸世に名高し。最も幽霊
に扮するに巧にして、殊に賞せらる。梅幸かつて北斎を招き、「幽霊を
描かしめ、その図果たして真に迫らば、これにならい、扮装をなし、愈
々、其の芸を巧みにせんとす」。北斎来たらず。梅幸一日輿(駕籠)に
のり、北斎の家を訪う。其の家もとより貧しければ、茶、煙草盆の設け
もなく、室内荒れはてゝ、かつて掃除せしことなければ、不潔いはんか
たなし、梅幸このありさまに驚き、再び戸外に出でて輿丁(駕籠かき)
を呼び、輿中の毛氈を出だし、これを室内に敷かしめ、さて室に入りて
座し、一礼を述べんとせしが…、
沈黙がカリフラワーになっている 岩田多佳子
北斎、其の挙動の不敬に亘れるを憤り、机によりて顧みず、梅幸もまた
憤然、一語を交えずして立ちさりたり。北斎意をまげ、世に媚びること
なき此のごとし。されど平常は、謙遜辞譲(譲り合う心)にして、門に
は、百姓八右衛門と書きたる名刺を貼り、室には、おじぎ無用、みやげ
無用の壁書をかかぐ。
※ 尾上梅幸=文化文政から幕末にかけて活躍した名優・三世・尾上菊
五郎が文化中期のころにこの芸名を用いた。容姿がよく、どんな役をも
こなし、特に怪談もの早変わりものに長じた。
低気圧テトラポットに八つ当たり 中川喜代子
清水氏の話
後に梅幸不敬の罪を謝す。夫(それ)より相交わること甚だ深し。かつ
て梅幸が一世一代の演劇、『東海道四谷怪談』を演ぜし時、北斎の来り
て一覧せんを請う。頃しも夏時北斎夜々其の用いるところの蚊帳を売り、
金二朱を得て、これを懐にし、劇場に赴き、一覧の後、かの二朱を紙に
包み、梅幸に与え、本所石原の家に帰りたり。そもそも本所の地は、卑
湿にして、蚊多し、夏夜蚊帳の設けなければ、寝ること能わず。北斎蚊
帳を売りて後、夜々蚊に刺さるれども、晏然(あんぜん=落ち着いている
様)筆を採りて業をなすこと、平常の如し。友人某これをこれを聞き、
蚊帳を購いて、与えたり。
匕首の流儀は俺様の流儀 居谷真理子
法懸松成田利剣(鶴屋南北)
『東海道四谷怪談』
「仕掛け物」についての鶴屋南北の考案もまた非凡で、文政8年(18
25)に書き下ろした『東海道四谷怪談』では、蛇山の庵室に提灯から
お岩の幽霊が抜け出てくる工夫や、敵役がお岩に襟をつかまれて仏壇の
中に消えるという工夫を見せたばかりでなく、穏亡堀(おんぼうぼり)
では、一枚の戸板の裏表に打ちつけられたお岩と小仏小平の幽霊を早替
わりで見せ、さらに水門から、もう一役、佐藤与茂七の美男の姿で現れ
るという、鮮やかな演出を創造した。
薬師如来の駆け出しそうな裾捌き 岩根彰子
謎帯一寸徳兵衛(鶴屋南北)
尾上菊五郎は、この芝居がよほど得意だったとみえ、翌年、大坂の角の
芝居に『いろは仮名四谷怪談』という外題で、上方向きに直した脚本で
上演、江戸に帰るや、次の年の中村座で再演している。以後、江戸で五
回演じた。エピソードがある。「伊右衛門が団十郎、お岩と小平と与茂
七が菊五郎で、団・菊の顔合わせだったが、庵室の場で、伊右衛門に赤
ん坊と見えて、仕掛けで石地蔵に変る小道具を手渡し、「イヒヒヒ」と
笑うとき、あまり怖いので、団十郎が毎日顔をそむけた。菊五郎は《じ
っとこっちを見てくれなくちゃ、情が移らねえじゃないか》と言ったの
だが、どうしても正視ができなかった」という。
そこにいるあなたの声が聞こえない 河村啓子
尾上菊五郎のお岩
また三演のときは、伊右衛門を二代目関三十郎が演じたが、庵室のお岩
の恐ろしさに、とうとう開演中、病気になったともいわれ、秋山長兵衛
に扮した坂東善次は「とても目をあいてみていられなかった」と、述懐
している。『四谷怪談』はいまでも上演の時に、出演俳優が、四谷左門
町のお岩稲荷に参詣するのが例で、それを怠ると、「病人がでる」とい
われる。戦後三越劇場で中村もしほ(後の17代勘三郎)が四谷怪談を
上演した時、劇場の入口に祀られていたお岩の祭壇を拝まずに出入りし
ていた。宅悦の役の中村七三郎がまもなく死んだりして、芝居の世界の
人々を震えあがらせたという話もある。
終章は三原色で描くつもり 瀬戸れい子
[3回]