川柳的逍遥 人の世の一家言
腹決める酒だ心がほろ苦い 碓氷祥昭 「司馬遼太郎氏が語る日露戦争の成り行き」 『満州に居すわったロシアは、北部朝鮮にまで手をのばしている。 当然ながら日本の国家的利害と衝突する。 ・・・・・〈中略〉・・・・・ 日本は、朝鮮半島を防衛上のクッションとして、考えているだけではなく、 李王朝の朝鮮国を、できれば市場にしたいとおもっていた。 他の列強が、中国をそれにしたように、日本は朝鮮をそのようにしようとした。 笑止なことに、維新後30余年では、まだまだ工業力は幼稚の段階であり、 売りつけるべき商品もないにひとしいというのに、 やり方だけはヨーロッパのまねを、つまり、手習いを朝鮮においてしようとした。 そのまねをしてゆけば、やがては強国になるだろうと考えていた。 自然、19世紀末、20世紀初頭の文明段階のなかでは、 朝鮮は、日本の生命線ということになるのである』―「司馬遼太郎氏-坂の上の雲」 半分に聞いてもでかい夢を吐く 嶋澤喜八郎 「なぜ日露戦争は避けられなかったのか・・・?」 ロシアは、満州の独占的支配をはかろうとして、清に対し、 「ロシアの合意なしに、満州の港や市を、外国に開放しないこと」 「ロシアが占領中に獲得した満州の権利は、撤兵後も有効とすること」 など、7ヵ条の要求を突きつけている。 当然、清はロシアのこの要求を拒否したが、 朝鮮から、さらに満州へと進出することをねらっていた 「日本の政府の考え方」 と、 衝突するのは、ごく自然の成り行きであった。 ただ、日清戦争以来、急速に海軍の増強をはかってきた軍部も、 ロシアと戦争に踏み切るだけの自信はなく、 軍事力が増強されるまでは、交渉によって、 何とかロシアの満州・朝鮮への進出を、くいとめようと考えた。 たとえば、明治36年(1903)8月、駐露公使・栗野慎一郎は、 「日本は韓国に、ロシアは満州の鉄道経営に、それぞれ特殊利益をもち、 これを保護するための出兵権を、お互いに認めること」 「ロシアは、日本が朝鮮の鉄道を、延長させて満州の鉄道につなげるのを、妨げないこと」 「ロシアは、日本が朝鮮政府に対し、援助と助言の専権をもつことを、認めること」 などの内容を含む6か条の この日本提案に対するロシア側の回答は、 「北緯39度以北を、中立地帯とすること」 などを要求するものであり、結局、この「日露協商」は決裂してしまった。 「朝鮮を思うままに、支配下に置こう」 と考えていた日本政府の思案は、はずれる結果となり、 あとは、「大人しく引き下がるか」「ロシアと一戦まじえるか」、 の2つに1つの選択となったのである。 その後、政府は日露開戦の道を選ぶわけであるが、 決断の一番大きな要因というか背景は、 さきに締結していた「日英同盟」であった。 九条も腹をくくって鐘を聴く 井上一筒 ところで、日露開戦に至る経過の中で、一番気になることは、 政府がこうしたロシアとの交渉を、 「国民に秘密にして進めていた」 「交渉しても、はじめから日本の要求通りの答えは、得られないだろう」 と判断していたことも理由の1つだろうが、 日英同盟を結んでる以上、 「ロシアとの交渉は、公にせず進める」 そして結果、これが、ロシアとの開戦をあおる動きにつながった。 ロシアが、北清事変で出兵させた兵を明治36年4月に、 「第2次撤兵の期限がきても、撤兵させていない」 という状況が、新聞によって公表される。 すると、それを知った国民は、 ロシアへの不信感を抱くようになり、あげくの果ては、 「満州からロシアを追い出せ」 日本とロシアの軍事力を、冷静に比較してみる前に、 しかも、ここで注目しなければならないのは、 そうした国民の大合唱が、 むしろ、マスコミによって形成された側面があることだ。 明治36年に結成された対・露同志会や、戸水寛人ら、 東京帝国大学の7人の教授たちが、意見書を出し、 主戦論を唱えたことを新聞が大々的に報じ、 国民の意識を、開戦の方向にもっていく作用を果たした点は重要だ。 手のひらをそっと返してまわしもの 内藤光枝 当時の新聞をみると、社説の中で、 ”ロシアと戦うべし”との論調で、読者をあおったものもあり、 一般の記事でも、開戦を要求するグループの集会の模様を、 そうした動きの中で、はじめ非戦論を唱えていた”萬朝報”ですら、 ついには開戦を主張するようになり、 マスコミは一斉に、熱狂的な論調でロシアに対する敵愾心を、あおったのである。 新聞だけではなく、雑誌も主戦論を展開していき、 戦争反対を唱えるのは「国賊的扱い」をうける状況が、 つくりあげられていった。 鬼退治本当の鬼は桃太郎 山田こいし PR |
最新記事
(11/21)
(11/14)
(11/07)
(10/31)
(10/24)
カテゴリー
プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開
|