川柳的逍遥 人の世の一家言
小早川秀秋さんお電話ですよ 湊 圭伍
大垣城 (大阪市立博物館蔵)
大垣城=石田三成はこの城を拠点にするつもりだった。
家康が恐れた長期戦を狙ったのである。
「家康勝利の秘密に迫る」
関ケ原の戦いの年、1600年(慶長5)に入ってから、家康は諸大名
あてに大量の手紙を書いた。とくに決戦直前の7月から9月にかけての
3カ月間だけで1800通を越えている。
この徹底した手紙作戦のおかげで、家康シンパの大名を次々に獲得し、
三成の動きは一挙手一投足が家康に筒抜けであった。 挙兵の際に「人質をとったこと」や「大名の家族がすでに何人か脱出」
していることなどまで、家康は詳細な情報を握っていたのだ。 そして集めた情報は、巧みに利用した。
関ヶ原の戦いの直前、これらの情報をすべて明らかにしたうえで三成と
自分のどちらに味方するかを諸大名に選ばせた「小山評定」である。 その点、三成は、作戦のほとんどを自分の頭のなかだけで、完結させて
しまい、いざその段になってから、事前の相談のないことを他の大名に 攻められることもあったという。 物差しの目盛り大きくして暮らす 前岡由美子
「豊臣へこころざしあるものは、大坂に帰られよ。家康はそれを恨みに
思わぬ…」これは小山評定で打った家康の一世一代の大バクチだった。 決断を迫られる大名たち、もし誰かが「軍を返す」と言い出せば、三成
憎しの思いだけで、ここまで従ってきた武将たちが、我さきに帰ってし まうことにかねない。しかしそのとき、 「これは豊臣への謀反ではない。三成の討伐である!」
と叫んだ者がいた。 武断派の福島正則だった。
静まり返っていた場内は、次の瞬間、堰をきったように三成への非難の
大合唱となった。こうなると異議を唱える雰囲気ではなくなり、列した 大名たちは皆、家康への忠誠を誓ったのだった。 実はこれは、狡猾な家康が、前もって福島正則に口火を切るよう根回し
をしてあったものだった。 人間を引き取りますと気になるチラシ 木戸利枝
家康ー東軍の大勝利。
日本史新聞ゟ
正味七時間の激闘 勝敗分けた小早川の裏切り 激 突
【関ケ原=一六〇〇】 秀吉の死後、その覇権を争って緊張が続いていた石田三成のグループと
徳川家康陣営。いずれ、合戦での決意は避けられないと見られていたが、 遂に両陣営が関ケ原で大激突、壮絶な戦いを展開した。 ●布陣 午前五時
関ケ原が合戦場となったのは、家康が、大垣城に籠城する西軍を野戦に
引き出すために三成の佐和山城を攻撃。続いて、大坂城を攻める気配を 見せたためだ。三成は、十四日深夜、慌てて大垣城を出て関ケ原盆地の 西北端に陣取った。 ●激突 午前八時
午前五時頃ー、東西四キロ、南北二キロの狭隘な関ケ原に西軍八万五千、
東軍七万五千、合計十六万もの大軍が集まった。 午前八時前、両軍が相対峙する最前線に向かって移動する一団があった。
赤備えの井伊軍団三十騎、井伊直政が選抜した精鋭だ。 福島正則の前に出ると、西軍島津隊に発砲した。
●乱戦 午前九時
銃声が鳴り響いたとき、関ケ原には、濃霧が立ち込め、お互いに陣形や
兵力も明確には把握できず、細かい作戦は決められていなかった。 とにかく、目前の敵を叩くだけ。 そのとき、攻撃目標となったのが西軍の石田隊だ。
東軍諸将は我先に襲いかかり、石田隊も大筒で応戦。
怯んだ隙に切り込んだ。
●変化 午前十二時
一進一退を重ねる両軍を見下ろす松尾山に陣取る小早川秀秋。
とうとう裏切りの下知を下す、「目指すは大谷刑部の陣なるぞ」
一万五千の大軍が、松尾山を下り西軍の脇腹に突進した。
ここですとオハグロトンボ右を指す 上坊幹子 ●決着 午後一時
大谷吉継は、少しも慌てず、待機させていた兵に迎撃させ押し返す。
ところが、その味方のなかから脇坂・朽木・小川・赤座の四隊が裏切る。
大谷隊が壊滅すると情勢は一変。 隣の小西隊が浮足立ち、宇喜多隊も混乱の極に達し、支離滅裂となる。 ●終局 午後四時
初戦より傍観していた島津隊は東西両軍に義理も利害もない。
戦場を離脱する決意を固め、敵中突破をはかる。
戦場に残るは東軍だけであった。 ●家康大坂城に入る 【大坂=一六〇〇年九月末】
関ケ原合戦には勝ったが、大坂城の毛利輝元が、秀頼母子と共に健在で
ある限り、家康は安心できなかった。 そこで輝元の大坂城退去をはかる一方、中央政府軍の統帥権者として、
自ら大坂城西の丸に入城する。 これによって、秀頼母子とは気まずい関係になるが、関ヶ原の勝利者と
いう家康の立場と力に相応しい形を与えられた。 シャッターを下ろす時計をかけあがる 高橋 蘭
三成はこの城を拠点にするつもりだった。 家康が恐れた長期戦を狙ったのである。 「戦争は作戦通りにはいかない。誤算がつきもである」
誤算は、勝った徳川家康にも敗れた石田三成にもあった。
家康の誤算はなんといっても三男・秀忠軍の遅参だ。
秀忠は三河時代以来の譜代の家臣らと中山道を上った。
つまり、徳川軍の首領部隊を率いていたのである。
その結果、予備部隊を率いて東海道を上った家康は、主力抜きで決戦に
臨まなければならなかった。 家康が関ケ原の決戦場に投入した軍事勢力の半分は、亡き豊臣秀吉に恩
義を感じている大名たちの部隊だ。 「家康のために戦う」気迫は譜代よりも劣る。
いざとなれば3万の旗本を督戦隊とし、前面に展開する豊臣恩顧の大名
たちを戦闘に駆り立てることも考慮したに違いない。 約束はあじさい色の気がするわ 岡谷 樹
だが家康は、西軍の総大将・毛利輝元軍を分断する手を打っていた。
吉川広家と小早川秀秋を味方に引き入れたのだ。
しかし、内応の誓詞を交わしていても万全ではない。
勝負の流れによっては、合戦途中から2人とも西軍に加担する可能性も
残っている。家康がもっとも恐れていたのは、このことだったし、事実、 それが現実のものになりそうになった。 あらすじの通りに進んでいる不安 青木敏子
合戦前日
14日午後、杭瀬川の戦いでは西軍が圧勝し、士気を持ち直す。 14日昼前、赤坂へ進む家康。 西軍は家康の動きをまったく知らず、突然の出現に動転した。 一方、三成はほとんど1人で動き回って、輝元をはじめ9万余の兵力を
動員した。参加した大名たちの思惑はそれぞれ異なり、意思統一もなか ったとはいえ、大兵力である。 家康が驚倒したのは当然だろう。 これも家康の誤算だった。
そして三成は三段階の迎撃案を考えていた。
1,三河と尾張の境で迎え撃つ。
2,岐阜と大垣の線で迎え撃つ。
3,関ケ原に最終陣地をつくり、大垣に籠城、長期戦にする。
だが2案は、岐阜城が陥落して消滅。
3案を予定していたときに思わぬことが生じた。
9月14日の午後、小早川秀秋が松尾山に布陣したのだ。
松尾山には三成が、長期戦に備えて密かに修築していた松尾新城がある。
三成は、ここには南雲山に布陣した毛利秀元・吉川広家らか西軍総大将 の毛利輝元に入ってもらうつもりだった。 その要の城に大垣入城要請を拒んだ、西軍の中でももっとも信頼できな
い小早川秀秋が、城番の伊藤盛正を追い出して入城したのだ。 人参を抜くとき無無と声がする 斉尾くにこ
15日正午頃、西につくか東につくか、小早川秀秋の心は揺れていた。
だが家康に鉄砲で威嚇された秀秋は、ついに東軍へ寝返り、大谷隊の
攻撃に踏み切る。 これで三成の戦略は大きく崩れる。
この日9月2日以来、関ケ原西端の山中村に布陣している大谷吉継から
「松尾山の秀秋の動きが不審だ。全軍関ケ原に集結し、家康を迎撃しよ
う」との手紙を受け取っている。 南雲山の広家の動向も怪しいし、それに動揺したのか安国寺恵瓊も戦意 に欠けている。 さらにいえば、立花宗茂らの別動隊も、大津城攻略にかかったまま関ケ
原に到着していないうえ、毛利輝元は大坂城から動かない。
私とナマケモノとはいい勝負 下林正夫
15日午後1時過ぎ、東軍の猛攻撃で炎上する西軍の陣。
上から石田、島津、小西の陣所。左上には切腹する武士がいる。
このような状況下に入手したのが、東軍の「佐和山城攻略」の情報だ。
こうなれば、東軍よりも早く、最終戦城予定地の関ケ原の要地を確保 するしかない。 ここで支えることができれば、長期戦に持ち込める。
それならまだ勝利の目は残っている。
こう判断した三成は、暗闘の雨のなか、大垣城の主力を関ケ原へ転身
させたのである。 しかし、三成の目論見は、翌15日、秀秋の裏切りと広家の中立で脆
くも崩れ、西軍は大敗する。 民族のガチンコの音骨の音 峯島 妙 PR |
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