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川柳的逍遥 人の世の一家言
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品格は骨になっても生きている   通利一遍






   父・浅井長政とお市の方・三姉妹の別れの場面




「淀殿のイメージ」
豊臣秀吉の側室であり、その子秀頼の母として知られる淀殿は、悪女で
あり、豊臣家を滅亡に至らしめた愚かな存在として描かれることが多い。
しかし、それは後世つくられた虚像である。
淀殿はどうして後世、これほどまでに貶められてしまったのか。 
淀殿は本当に悪女であったのか。
そして、淀殿が自らの命と引き換えにしてまで守ろうとしたものは、
果たしてなんであったのか。
そのベールの下には、天下人の思い人になり、その子を生んだがゆえに
時代の矢面に立たされ、心ならずも、大坂城を仕切る立場になり孤軍奮
闘した女性の姿が見えてくる。




幸せは行きつ戻りつ鬼ごっこ  津田照子





        淀 殿





家康ー茶々そして鎧を纏う淀殿の悲劇-①




「淀殿の名前」
1569年(永禄12)茶々は、近江国小谷城で誕生した。
名前は茶々またはお茶、後年、従五位下を賜ったときには、菊子という
公式名を名乗っている。
1588年(天正16)頃、秀吉の側室になり、翌天正17年には、長男の
捨(鶴松)を出産。大喜びした秀吉は、茶々のために、山城淀城を築城
して与えたので、以後、淀の方と呼ばれるようになる。
また、住む場所により、二の丸殿、西の丸殿、淀殿などと呼ばれ、秀頼
の母としてお袋様と呼ばれた。
秀吉の死後、落飾して大広院、または大康院という名もあり。
淀君という呼名は、生存中ではなく江戸時代以降の呼び名である。





「後世、貶められた淀殿像」





秀吉の時代、大坂城の北側の一角に「山里曲輪」という美しい庭園があ
った。その場所は、「大坂夏の陣に敗れた淀殿が自害して果てた現場」
でもある。現在は、自刃の場所を示す石碑が建っているが、それを知る
人も訪れる人もあまり多くなく、巨大な石垣の下でひっそりとしている。
この様子がまさに、淀殿に対する後世の評価を物語っているようにも思
われる。概して秀吉の人気に対し、淀殿というのは評判が悪い。
淀殿を淀君という呼び方について――実は、淀君という言い方こそ江戸
時代になり、淀殿を貶めるために、少し軽蔑のニュアンスが込められ、
あえて流布された呼び方であった。




石投げて闇の深さを測っている  笠嶋恵美子




「秀吉の側室となる」
茶々と呼ばれた淀殿の少女時代は、正に乱世の過酷な現実を味わう日々
であった。
1573年(天正元)8月28日、小谷城に居を構える父・浅井長政
織田家、浅井家との同盟の約束である「朝倉家との不戦」を破ったため、
織田信長に攻め滅ぼされ、まだ五歳だった茶々は、母・お市の方に連れ
られて、命からがら城を落ち延びることとなった。
その9年後、母は茶々をともない越前の武将・柴田勝家と再婚。
しかし、それから1年も経たない間に、勝家は、羽柴秀吉に敗れて北ノ
庄城は燃え落ち、お市も運命をともにする。
父に続いて母も失った茶々は、この時15歳。
燃え盛る炎のなか、二度目の落城を経験することになる。
からくも城を抜け出した茶々の身柄を引き取ったのは、母の仇ともいう
べき秀吉だった。茶々は、やがてその男の側室となる。




噛んだあとほのかに苦い薬指  西澤葉火






              淀殿VS寧々




「正室・寧々と茶々の対立」
秀吉の側室・茶々は、近江の浅井氏の出身ということで、秀吉傘下の家
臣のうち、近江出身の石田三成、片桐且元らの勢力のシンボル的存在と
され、秀吉正室・寧々の子飼いの尾張出身者たち、武断派の加藤清正、
福島正則らとの対立を生むことになる。
秀吉の奥向きを差配する正室はおね、秀吉が駆け出しのころから支えて
きた糟糠の妻だった。 正室のおねと20歳も若い側室の茶々の2人の確
執を、世間は好奇の目で見た。
『太閤記』には、次のような逸話が載せられている。
『ある時、おねは珍しい黒百合の花を献上された。おねが茶会を開いて、
 世に一輪しかないというその花を茶々に見せた三日後、今度は茶々が
 おねを招いた。そして、その席には無数の黒百合の花が、いとも無造
 作に活け散らかしてあったのだった。
 それを見たおねは、顔色を変えてその場を立ち去った』という。




振り幅の広い女のヘチマ水  山本早苗




1588年(天正18)年秋、茶々は妊娠する。
長い間、男子に恵まれなかった秀吉には、それは大変な喜びであった。
茶々は淀に城を与えられ、これ以後、淀殿と呼ばれるようになる。
最初の子は幼くして亡くなったが、1593年(文禄2)淀殿は2人目
の男子・拾(のちの秀頼)を生んだ。
そして、世継ぎの母となった淀殿は、正室のおねを差しおいて、天下人
秀吉の寵愛を一身に受ける身となった。




おもしろくなってきました裏メニュー  田口和代






          病床の秀吉




ところが――
秀頼誕生のわずか5年後、淀殿の唯一の後ろ楯だった秀吉が、死の床に
ついてしまう。
「秀頼のことお頼み申し候。このこと以外に思い残すことはなく候」
秀吉は、秀頼の行く末を呉々も頼む、と言い残して世を去ってしまった。
これ以後、淀殿の運命は、瞬く間に暗転していく・・・。
     
                      つづく


泥濘を這って解った水の味  新家完司






     お 初




【淀殿の関り】 ここからはお市の方の二女・三女のこと。
二女のは、1570年(永禄13)小谷城で誕生。
18歳のとき、秀吉の計らいにより、浅井家の主筋にあたり、父長政
姉の子で従兄でもある京極忠高と結婚。
忠高は、1590(天正18)「小田原征伐」の功により、近江八幡山城
2万千石、1595には(文禄4)には近江大津城6万石へと加増され、
羽柴を許され豊臣姓もという出世ぶり。
しかし、妹・竜子が、秀吉側室の松の丸殿であることや、初との結婚に
よる出世とされて「蛍大名」と陰口をたたかれた、が、1600年(慶
長5)「関ケ原の戦い」では、三成側に就くと思わせて大津城に籠城し
て東軍に転じるなど、西軍を足止めする功績を残し家康から、若狭小浜
8万5千石を与えられている。




家系図に割り込むボクの知らぬこと  山本昌乃




初は夫の死後、剃髪して常高院と名乗る。
「大坂冬の陣」では、大坂城に入って姉・茶々らと妹・の婚家・徳川
家との和議に尽力をする。
夫・京極高次との間に子供はなかったけれど、妹のお江の4女・初姫
もらって嫡子・忠高と結婚させたり、他にも、血縁関係や家臣の子女の
養育にあたったり、「大坂夏の陣」の後、秀頼の娘で後の天秀尼の助命
を姪の千姫と共に、家康に嘆願したと言われる、世話好きな人柄がみえる。
三姉妹のうち一番長生きで、1633年(寛永10)64歳で死去。
蛍大名武士は、戦場による武功によって加増されてなんぼ、主筋との
結婚や姉や妹が側室になり、後継ぎを産んだことで加増されたり大名に
なった人を、女の尻の光で出世したと言う意で、蛍大名と蔑称された。
京極高次は5代将軍・綱吉の母・桂昌院の実家である本庄家も将軍の母
の実家というだけで小大名になれた、先例がある。



白髪染めやめたら皺が魅力的   居谷真理子





 
      お 江



お市の3女・は、1573年(天正元)小谷城で誕生という説と、
お市の方が小谷城脱出後に岐阜で出産した説がある。
名前は小督(おごう)、江与。亡くなった後に従一位を追贈され、達子
(さとこ)という名もある。
江は、3度の結婚経験があり、最初は秀吉によって、信長の次男で江の
従兄の織田信雄の家臣の佐治一成と政略結婚。
しかし、信雄と秀吉が「小牧長久手の合戦」で、敵同士となったために
離婚。
その後、天正14年~文禄元年(1586-1592)までの間の時期に、秀吉
の姉の息子で秀次の兄・羽柴秀勝と結婚。
一女・完子(さだこ)が生まれたが、秀勝が、1592年(文禄元)に
「朝鮮の役」で病没。




便箋のあと一枚の間柄  みつ木もも花




そして3度目は、文禄4年(1595年)、家康の3男で6歳年下の17歳
秀忠と結婚、長女・千姫を頭に2男5女を儲けた。
お江の長女・千姫と長姉・茶々の息子・豊臣秀頼は、秀吉の遺言で結婚、
また、江の長男・家光は3代将軍となり、徳川歴代将軍の中で唯一正室
から生まれた将軍であった。
1626年(寛永3)9月、江戸城西の丸で死去。享年54だった。




ご破算の想いのはずが発火する  清水すみれ






       北庄城址の三姉妹




「戦国一の美貌の母の子、浅井三姉妹は美人だったか」
茶々は、大柄で華やかな印象、秀吉があれほど入れ込むのだから美人だ
ったのだろう。千姫が愛した男前の秀頼は母似でもある。
は、地味な存在ながらもお世話好きで、父・長政に似て優しくて温和
な人柄だったことが伺われる。美人というより可愛かったのだろう。
は、3度目の夫・秀忠は7つ下でも、嫉妬深い山の神だった。
秀忠が腰元に笑顔を向けただけで江がヒステリーを起こしたというほど。
その恐怖感に実直で誠実な人柄の秀忠は、17歳で江と結婚後は、側室
もおかず、唯一、保科正之という婚外子が生まれたものの、江の存命中は、
対面もせず隠し通していたという。
それほど江は、よそ見をさせぬ程、抜きんでた美人だったのかもしれない。




心臓に異常はないが気は弱い  松田蟻日路

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茶助
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