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川柳的逍遥 人の世の一家言
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砂走り2、3日は喪に服す  酒井かがり




          日本史新聞 秀吉死すの報





【伏見=一五九八年八月】
再度の朝鮮侵攻が、義兵軍の反撃などによって泥沼に陥り、餓死する兵
も出て、厭戦気分が広がった頃、秀吉は伏見城で死の床についていた。
だが、朝鮮戦争の決着もつけず秀吉の様態は悪化。そのまま他界した。
行年六十三。
息を引き取る寸前まで…食うや食わずの境遇から成り上がり、悲運に倒
れた信長のあとを継いで、天下統一を成し遂げた秀吉の唯一の心残りは、
まだ6歳にしかならない秀頼のことばかり。
一国の運命を預かる天下人の末路としてはスケールの小さな話で、再び、
天下の行方が混沌としてきた。



人間に生まれたことが深すぎる  市井美春





秀吉の辞世  (大坂城天守閣蔵)
つゆとおちつゆときへにしわかみかな なにわのことはゆめの又ゆめ


「…返々秀より事頼み申候、五人のしゆ(衆)たのみ申べく候。
 いさい五人の物に申し渡し候、…なごりおしく候、
 しん(真)たのみ申、なに事も此ほかにわおもひのこす事なく候…」
                  八月五日  秀吉花押
いへやす ちくせん てるもと、かけかつ、秀いへまいる」


これは、五大老にあてた有名な秀吉の遺言状である。
幼い秀頼を案じる気持ちが伝わってくるようだ。
「五人のしゆ」は五大老、「五人の物」は五奉行のこと。
宛名のうち、「いへやす」徳川家康「ちくせんは」前田利家、
「てるもと」毛利輝元「かけかつ」上杉景勝「秀いへ」
宇喜多秀家五――大老の面々である。
この遺言状を書いてからおよそ半月後の1598年(慶長3)8月18
日、秀吉は家康たちに後事を託して没した。
朝鮮ではまだ、加藤清正ら10万の日本軍が戦塵のなかにあった。



天秤座に預ける老いの残高  靏田寿子




        朝 鮮 戦 争





【差し込みニュース】 〔名将・李舜臣、流れ弾に倒れる〕
秀吉の死から3カ月後の慶長3年11月19日、秀吉の野望を挫いた
朝鮮の名将・李舜臣が流れ弾にあたって壮烈な死を遂げた。
そのとき日本軍は、引きあげ命令に従って帰還の最中。
小西行長軍が、明と朝鮮連合軍に包囲されて孤立したとき、島津義弘
救援に向かった。七時間にわたる激戦ののち、島津軍は、大敗北を喫し
ながらも、辛うじて小西軍を救出することに成功した。
李舜臣が銃弾を受けたのはこのときである。
朝鮮軍の士気は落ち、小西・島津軍は退去になんとか成功、日本軍は、
朝鮮からの撤退を完了した。



茜雲から届いたやせた手紙  赤松蛍子



家康ー秀吉死す




                             伏見桃山城 (再建)
関ヶ原のとき、伏見城はまっさきに西軍の目標となり、守将・鳥居元忠
は壮絶な戦死を遂げ、城も焼かれた。 焼失した伏見城は、1602年
(慶長7年)頃、家康によって再建され、1619年(元和5)に廃城
とされた。



「利家、家康の二頭政治始まる」
1599年(慶長4)元旦、諸大名は伏見城に出頭し、新主秀頼に年賀
の礼を行った。前田利家は、病中ながらも傳役(ぶえき)として無理を
おし出席、秀頼を抱いて着席した。そして、10日、秀吉の遺言通り、
家康が伏見城に利家が秀頼に扈従(こしょう)し、大坂城に入る。
以後、秀頼の傅役として大坂城の実質的主となる。
                       (言経・利家夜話)
一方の家康は、秀吉が伏見城で死んだ後、この城の主となり、五大老の
筆頭の一角として政務を執る。
だが、お守役の前田利家に付き添われた秀頼が、大坂城に入ってから、
伏見に残った家康との「二頭政治」となり、対立・反目が始まる。



重い荷は二人で担ぐことにする  津田照子





                          幻 の 伏 見 城





「徳川家康、誓約違背事件」 新聞記事ゟ
―――ところで慶長4(1599)年に転機が訪れる。
正月元日、豊臣秀頼は伏見城で歳首の賀を受け、すぐに大坂城に移った。
傳役・前田利家も秀頼と共に大坂城に移ったため、伏見城は、空き家に
なってしまった。 この伏見城に目をつけた家康。
図々しく住み着いてしまったのであるが、その途端、勢威を強め不遜な
態度に出るようになった。
今井宗益を介して、六男忠輝伊達政宗の女を娶ろうとした際、縁故の
女を養女とし、福島正則嗣子忠勝蜂須賀家政の子至鎮と婚姻させた。
明らかに私婚を禁止した「太閤法度違反」だ。
しかし、力づくの政治に共鳴する者が出てきた。
これによって、大坂の豊臣派と伏見の徳川派が、明らかに色分けされて
しまうかもしれない―――。



やさしさの対角線にテロリスト  佐藤正昭



秀吉が亡くなって半年もたたないのに、家康は太閤の法律に触れる露骨
な婚姻作戦をはじめるなど、まるで自分が天下人であるかのような傍若
無人のふるまいに出たのだった。
利家はこれに反発し、諸大名が、家康・利家の両屋敷に集結する騒ぎと
なった。利家には、毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家の3大老や5奉行
石田三成、武断派の細川忠興・浅野幸長・加藤清正・加藤嘉明らが味
方し一触即発の危機ともなった。
が、2月2日に利家を含む4大老・5奉行の9人と家康とが誓紙を交換、
さらに利家が家康のもとを訪問し、家康は利家の勧めで、三成の屋敷が
ある伏見城・治部少輔(三成)曲輪直下にある自身の屋敷から、対岸の
向島城へ移ることで和解をした。



すんなりといかない時の小休止  吉岡 民





「太閤五妻洛東遊観之図」 (喜多川歌麿)
醍醐の花見。秀吉を取り巻く女性は「淀殿」「松の丸殿」「お古伊の方」



「醍醐の花見ー1598年3月15日」 新聞記事ゟ
『花見の好きな太閤秀吉がいつもに増して豪華な醍醐の花見を催した。
しかし厳重な警護のなかで行われたため、参加者の間から疑問と不満の
声があがっている。
醍醐の花見が行われたとき、五十町四方山々には構やもがりが回され、
至る所に警護所が置かれ、弓・槍・鉄砲を打ち揃えた御小姓が徘徊する
ありさま。いくら趣向を凝らした店棚が用意されても、心から楽しめる
ものではなかった』



黄砂だと知らず見ていたおぼろ月  藤原紘一



慶長3年(1598)3月15日の「醍醐の花見」に、体調の思わしくない
まま、妻のまつと陪席すると、利家は4月20日に、嫡子・利長に家督
を譲り隠居、湯治のため草津に赴いた。
だが、病んだ身体はなかなか快方には向かわず、自宅療養を続けた。
尚も、利家の病状が悪化、家康が病気見舞いのため利家邸を訪問した時、
利家は「抜き身の太刀を布団の下に忍ばせていた」というエピソードが
残っている。 (『浅川聞書』)
1599年(慶長4年閏)3月3日、利家は大坂の自邸で病没した。
享年62歳。 
利家の死後、待っていたかのように家康は加賀征伐に着手する。
利長は母の芳春院(まつ)が人質になる条件を受け入れ、加賀征伐は
回避された。



香典を辞退するなと書いて死ぬ  ふじのひろし





    高台院 (寧 々)





【その後】ー①
豊臣秀吉の死を契機に出家して「高台院」となった正室「ねね」とは
対照的に、淀殿は出家せず、豊臣秀頼の後見人として政治に介入。
豊臣氏の家政の実権を握った。





    しっかり者の石田三成





【その後】ー②   豊臣七将襲撃事件
豊臣家最大の守護神・前田利家が死んだことを機に、利家の死の翌3月
4日、加藤清正黒田長政は、福島正則加藤嘉明ら5人の武断派の大
名と語らって、三成を襲う計画を立てた、
彼らは「朝鮮の役」での武功が評価されなかったのは、偏にに石田三成
のせいだと深く恨んでいたのである。
これを知った三成は、こともあろうに彼にとっては不倶戴天の敵、徳川
家康の屋敷に逃げ込み、助けを求めた。
家康は両者の仲裁に立ち、三成に一時的な引退をすすめた。
三成は家康の二男の結城秀康に瀬田まで警護されて佐和山城に帰った。
これは三成には大チョンボであり、家康には、決定的なポイント稼ぎに
なった事件だった。
人々はもう「天下人」と呼ぶのであった。



虫下し飲んだらぶらりしませんか  榊 陽子

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