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川柳的逍遥 人の世の一家言
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まだ二回しか死んだ事ありません  中村幸夫



唐入り=朝鮮渡海の陣 太閤秀吉、日本全国に出動命令
天下統一を成し遂げた秀吉は、いといよ唐入り明国平定に乗り出した。
職諸藩に出動命令が発せられ、海詠の夫馬や渡船の学識、米穀蓄蔵が準備される。
一方、朝鮮平定が当面の課題として示された。
諸国諸将は続々と備前名護屋に参集。玄界灘を渡り、朝鮮半島に上陸している。 
日本史新聞。



「朝鮮出兵」とは、天下人となった秀吉が、全国の大名を大量動員し、1592年
から1598年にかけて2度(文禄・慶長の役)にわたって、朝鮮国への侵略を企
てた戦いである。
初めよければ終りは惨憺。2度目の戦いの最中で秀吉は病没し、戦いは終わっ
たが豊臣政権は間もなく倒れ、朝鮮の国土は荒廃し、明もまた間もなく、清に
よって滅ぼされる。
 
 


囃したらノンアルコールでも踊る  原 洋志


「江戸城のちょっと歴史」
「家康が江戸に入る123年も前に前に江戸の地で土木事業を興し、江戸城を
築いた武将がいる。
扇谷上杉家の家宰で名将の呼び声も高い太田道灌である。
道灌は、古河公方側の有力武将であった房総の千葉氏を抑えるため、まず江戸
氏の領地であった武蔵国豊嶋郡に平城を築いた。
 城は、鎌倉時代に建てられた「江戸館跡」に築かれ、1457年(康正2)
に完成したと言われている。それが「最初の江戸城」である。
道灌時代の江戸城は、自然地形と河川が防御の要となっていた。
東側は平川と日比谷入江、北側は千鳥ヶ淵から神田川へ流れている流路、
南側の桜田濠、外側には四谷・麹町台地を削った流れがそれにあたる。
また道灌は、江戸城に近い湊を維持しつつ、さらなる繁栄を図るために、
平川の河筋を東側に付け替える工事を行っている。


 
 
千年杉一刀彫として生きる  和田洋子



旧平川は神田川から切り離され、江戸城内の台地の斜面から湧き出ていた水を
流すだけの短い川とした。
その後、江戸城は北条氏が支配することになるが、北条の時代は、ほとんど手
入れも修理もしておらず、家康が入府する頃には、「荒れ放題」
「石垣で築いたところは一カ所もなく、竹木が茂り、城内には、北条氏時代の
侍屋敷が残り、当座の宿泊には役だったが雨漏りがし、畳や敷物も腐っている。
玄関は土間で、舟板を2段並べ、上がり段にしていた」
と、ひどい有様だったらしい。
あまりの惨状に家臣の本多正信が、「せめて玄関回りだけでも立て直しては」
と、すすめたが、家康は笑って受け流したという。
自分たちが住むところを快適にするよりも、新領土の整備を優先したのだ。
 
 



いくつかの窓は希望であるらしい  中野六助



 
江戸図
『長禄年中江戸図』
 道灌が江戸城を築いた当時の江戸の様子を描いたとされる絵図


 
家康ー江戸を建てるー②




 
20230719_084050 - コピー (2)
                                                 石を運ぶ船
 
 
 

1580(天正18)8月18日、江戸に入って17日後、家康は早くも城下
町の普請を開始した。 山を切り崩して整地をし、余った土を湿地の埋め立てに
使うという、一石二鳥ともいうべき方法で工事は進められた。
江戸の町を造るにあたって、家康には手本があった。
秀吉がつくった大坂の町である。当時、海に通じる運河が縦横に町を走る大坂
は、経済の中心地として繁栄していた。
<江戸は大坂と同じく海に近い。この利点を活かすがよろしかろう>
そういう秀吉のすすめを、家康は忠実に実行に移したのである。
こうして、湿地帯に水路がつくられ、のちの江戸の町の原形が徐々に形づくられ
ていった。
 



大自然生きとし生けるもの包む  宇都満知子



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              石を運ぶ人夫
 
 



城下町の普請―― いわばハードウェアの構築を進める一方、家康は関東の政治
体制を整えるという、ソフトの整備も抜かりなく推し進めた。
そのやり方は、これまでの統治者だった北条氏の方法のよいところは、臆せず、
採り入れるというものであった。
土地の石高を調べる検地のやり方も、秀吉が推し進める過酷なものではなく、
これまで北条氏が行っていた手法を、積極的に踏襲した。
広い関東平野を効率的に治めるために、北条氏は、陸上交通を重視し、馬によ
って情報を伝え物資を運ぶという、伝馬制のシステムを確立していたのだ。
家康はこの仕組みを採り入れ、さらに整備を進めた。
そしてその責任者に、北条氏の時代の担当者をそのまま、引きつづき任命した
のである。
 
 



俯瞰してふと見えてくる捜し物  上坊幹子



それだけではない
家康は、今まで敵だった北条氏の家臣たちを次々に召し抱えた。
「われ、素知らぬ体をし、よく使いしかば、みな股肱となり、勇功をあらわ
 したり」
(家臣の過去は問わず、よく用いれば、みな仲間となり功績をあげるように
 なるというものである)
家康の関東支配は順調に滑り出した。
関東に行けば、「家康は、領国経営に失敗するかもしれない」と、いうのが
秀吉の目論見だったとすれば、その当てはすっかり外れることになってしま
ったのである。秀吉の当て外れはそれだけではなかった。
家康を関東に送った秀吉は「鎌倉の鶴岡八幡宮を修復せよ」と命令していた。
莫大な費用のかかる修築によって「家康の経済力を削ぐ」という秀吉の狙い
である。 家康は、この秀吉の命令も忠実に実行に移した。



なめこ汁つるん明日も生きてやる  真鍋心平太



家康・お勝の方


しかし、この時、家康は胸中に遠大な目標を秘めていたのである。
修築の前に家康が贈った寄進状の末尾に記された署名に、家康は自らのことを
「源朝臣」と、記したのである。
「自分は源頼朝と同じ源氏の流れをくむ武士である」
と、宣言しているのである。
鶴岡八幡宮は、鎌倉の地に幕府を開いた源頼朝とゆかりの深い神社である。
鎌倉幕府の歴史を記した『吾妻鏡』が、愛読書だった家康は、当然のこと、
それを知っており、修築にあたって自分は、
「古えの頼朝公の跡を継ぐ存在である」と、仄めかしたのである。
 



 
まだ夢がいっぱいつまる予定表  靏田寿子



家康もまた、この関東を基盤とし、頼朝の故知に習って、秀吉に対抗する勢力
を徐々に打ち立て、ひいては、頼朝のように将軍となって幕府を開こうという
遠大な目標を抱いていたとも考えられるのである。
こうして関東を拠点として整備しつつあった家康は、秀吉が配下の武将たちに
命じて朝鮮半島に兵を送った時も、国内に留まって力を蓄えることができた。
 



 
びり乍ら今も懸命走ってる  津田照子

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