川柳的逍遥 人の世の一家言
金出した分は口かて出しまっせ 藤原一志
徳川15代勢揃い 中央家康から時計回りに(家康右横)2代秀忠→6代家宣→9代家重→
11代家斉→10代家治→7代家継→8代吉宗→4代家綱→5代綱吉→ 15代慶喜→14代家茂→12代家慶→13代家定 秀忠の治世は、1616年(元和2)家康が没してから、病気のために
1623年(元和9)に息子の家光に将軍職を譲るまで7年と短い。
その間に入内した和子が産んだ興子内親王(のちの明正天皇)が女性の
身で、異例の即位を行い、秀忠は、天皇の外祖父にのしあがっている、 など、この7年間で幕府を盤石なものにする仕事を成している。 ここに徳川15代将軍の、政治力・知力・外交力・カリスマ性を評価
基準に採点し「最強の将軍は誰」と、ランキングした本がある。 一位は家康、二位は吉宗と慶喜、三位は秀忠。5位以降は、家光、家宣、
綱吉と続いている。
秀忠が家康生存中におけるいろいろな失敗を払拭し、3位に挙げられた
のは徳川一族を含む諸大名を次々と改易し将軍の権威を不動にし、幕府 の長期政権への礎を確かなものにしたことなどが評価される。 悔し涙流した数で強くなる 柳川平太
徳川秀忠 家康ー永井路子、秀忠の凄を読み解く。
秀忠は法を守り、組織を守るためにはかなり冷酷なこともやっている。
弟の松平忠輝や松平忠直といった一門の改易がそれである。
わが子家光の前途を守るためともいえるが、同族会社の安定の為には、
時にはこうした荒療治も必要なのだ。
長い目でみれば、これも幕府を長持ちさせる秘訣である。
また秀忠は、キリシタンを大量に処刑したり、外国貿易に制限を加えた
りしている。 次の三代家光の時に行われた「鎖国・島原の合戦」は、いわば秀忠路線
の総仕上げともいえるのだ。 こうしてみると、秀忠の政治姿勢はかなり厳しい。
それでいながら、彼自身、冷酷な政治家というイメージを与えていない
のはなぜか。それは彼らしい細かい配慮を常に怠っていないからだった と思われる。
大丈夫大人のキミが決めたこと 大久保真澄
たとえば、彼が江戸城近郊に鷹狩りに行ったときなど、必ず獲物を佐竹
義宜に贈っている。 それは東国の名門である外様大名に対するゼスチャーではないか。 また九州の有力大名には、時折、自筆の手紙を書き送っている、
鳥とか手紙とか、考えてみれば、それをやったところで、秀忠の身代が
へこむわけでも何でもない。 領土などをやる代わりに、こんなことで義理を果たす。
なかなかの気配りであり、要領もいいのだ。
忖度を散りばめ薬の盛り合わせ 通利一遍
徳川和子(東福門院) 「episode」 前代未聞を演出
秀忠の本領を遺憾なく発揮したのは、娘の和子の入内問題である。
彼女を後水尾天皇の許に輿入れさせるという内約は、すでに家康在世時
代に交わされていたのだが、「大坂の陣」に続く家康の死によって実現 の運びにいたらなかった。 秀忠は父の死、東照宮造営などが一段落すると上洛して、天皇に銀子千
枚を献じたほか女院、天皇の生母、関白、宮家などにもふんだんに銀を ばらまいた。 和子入内のための懐柔策である。 が、 その直後、後陽成天皇が世を去ったので、この時も入内は延期になった。
がらくたと言いつつ戻す元の棚 津田照子
その数年後、秀忠は再び上洛する。
それまでに和子の輿入れの準備は着々進行していた。
ある公家の日記に、「和子や侍女たちの衣装が作られていた」とあるの
をみてもそれがわかる。 ところが、秀忠の上洛中、突如、 「女御サマノ御供ノ衆ノキヌ調マジキ由」
という命令が伝えられる。
この公家はびっくり仰天するが、どうやら支払の方は、幕府が引き受ける
と知って胸を撫でおろす。 では、なぜ衣装の調整は中止されたのか。
秀忠が「今度の縁談はやめにしよう」と言い出したのだ。 理由はひとつ、後水尾天皇が、側近に仕えるおようという侍女に、去年と
今年にわたって子供を産ませたからである。 たんこぶを三つ上皇に送信 井上一筒
「うちの娘の輿入れの矢先、そういうことをさせるとは、不謹慎極まる。
そんなところに嫁にはやれぬ」
と秀忠は開き直ったのだ。
その強硬な態度に、驚き慌てた後水尾天皇の書簡が残っている。
「さだめて我等行跡、秀忠公心にあひ候わぬ故とすいりゃう申し候。
さように候へば、入内遅々候事、公家、武家共以て、面目しかるべか らざる事に候条…」 <自分の行跡が、秀忠の癇に障ったのだろう>と言い、
「自分は弟もたくさんいるから、それを即位させ、自分は出家する」 とまで言っている。 後水尾としても、多少ふてくされ
「出家するぞ、それでいいな」
と、凄んでいるが、何と言っても面目を失うのは、不行跡を天下に公表
される後水尾である。 和解するまで天使のラッパお蔵入り 山口ろっぱ
後水尾天皇 天皇ともあろうものが、将軍から縁談を破棄されるなど前代未聞である。
結局、後水尾は譲位を思い止まり、和子入内は先約通りになるのだが、 秀忠はこのとき、凄みを利かせた強硬な条件を持ち出す。
「こうした宮中の風紀紊乱は、周囲の公家たちの不行跡にある」
として、数人の公家の配流や出仕停止を要求したのだ。
その中には、もちろん、おようの実家である四辻家の季継(としつぐ)
も入っている。 つまり、天皇個人の不行跡ではなく、公家たちに責任転嫁したわけだが
このときも秀忠が、根拠としたのは「公家法度の違反」であった。
落ち込んだ穴から今日も出られない 勝又恭子 「法度の前では、天皇も公家も例外は許されない」
ということを彼は天下に公表したのだ。結局、和子入内は、
その後に行われるのだが、ここでも後水尾は抵抗を見せる。
「先に処罰された公家を赦免すること、それが行われなければ、
入内させない」
幕府はこれを受け付けなかった。
「すべては将軍姫君の御入内後ということにいたしましょう」
その方針通り、公家たちが許されたのは和子の入内が実現した
後であった。家康も「公家法度」を作って宮廷の動きに枠をはめたが、
秀忠はこれを楯に、具体的に宮廷勢力を捻じ伏せたのである。
どの色を塗れど違憲は許されぬ 稲垣のぶ久
それにしても……この大業は秀忠にして成し得ることである。
もし家康だったら、女にはかなりだらしない彼は、かくまで正面切って
後水尾から一本とることは出来なかったに違いない。
秀忠は自分の身辺の「御清潔」を売物にした。
しかし、秀忠とて木石ではない。
実をいうと二度ほど側近の侍女に子を産ませているのだ。
前の一人は早逝したようだが、後の男の子は保科氏に預けられて
ひそかに養育された。
これが後に会津藩主になる保科正之であるが、秀忠は正室のお江を
憚って、彼女の生前は、この脇腹の子と対面しなかったという。
それで彼については恐妻家というレッテルを貼られているのだが、
真相はむしろ<御清潔ムードの秀忠>というイメージに傷がつくのを
恐れたからではないだろうか。
それにしても、側室腹の子が二人というのはいかにも少ない。
歴代将軍の中では謹直な方であることは確かである。
しかしこれは、彼が噴き上げる欲望を抑え込んでストイックに生きた
、というのではなさそうだ。
マナーモードにしてから人間に戻る 谷口 義
もしかすると、秀忠は政治がメシよりも好きだったのではないだろうか
そういえば、和子の事件の折でも、上洛中に実に秀忠はさまざまの手を
打っている。
一つはキリシタンを処刑している。
これはキリシタン弾圧の見せしめである。
あるいは天台宗の僧を招いて論議を行わせている。
天台宗の教義を聞くとは殊勝だが、これは宗教工作の一つである。
朝廷が比叡山と歴史的な密接なつながりを持ち、その宗教的権威を
利用したのと同じ狙いを抱いてのことであろう。
その趣旨に沿って東叡山寛永寺が江戸に建立されるのは、秀忠の死後で
あるが、構想はすでに彼の時代に始っていたと思われる。 また朝廷工作の一貫として、九条忠栄が関白に再任されているが
この忠栄は、秀忠の妻・お江が先夫・羽柴秀勝との間に設けた
女の子の夫である。
この娘はお江が秀忠と結婚するにあたって、淀殿の手許にひきとられ
成人して忠栄の妻となったのだ。
秀忠は公家の処罰に先立ち、お江ゆかりの忠栄を起用した。
まさに彼の手にかかっては廃りものはない、という感じである。
四股を踏む切り取り線の真ん中で 菊池 京
興子内親王(のちの明正天皇) 「紫衣事件」
当時、名門の寺院の住持になるには、勅許を得る必要があった。
勅許があって後、はじめて紫の衣を着ることが許されるのであるが幕府
はこの制度にも歯止めをかけ、勅許を得る前に幕府の承認を得なければ ならない、という「法度」を作っていた。
ところが、後水尾時代、法度を無視して勅許を願い、紫衣を着る僧が現
れたというので幕府はこれに文句をつけ、元和以降の勅許を無効とした
ーこれが「紫衣事件」である。
秀忠はここでも「法度」を持ちだす姿勢を貫いている。
しかも後水尾の勅許を取り消させたのだから、天皇の勅許よりも「法度」
が優先するという考え方であり、あきらかに後水尾への挑発である。
アンダーライン生きた証を残さねば 古久保和子
この事件は大波瀾を巻き起こした。
有名な沢庵宗彭(そうほう)が出羽に流されたのもその一つである。
しかし、幕府の狙いは宗教界を統制するだけでなく、もう一つの狙いが
あった。 後水尾が怒って「退位するぞ」というのを待っていたのだ。
そうすれば、ただちに高仁即位ーという計画だったが、これは見事に外
れた。 肝心の高仁が早逝してしまったのである。 (秀忠の娘・和子は、興子の前に後水尾との間に、高仁という息子を設
けていた。秀忠はこの皇子を即位させるべく、後水尾にかなりの圧力を かけていたのだ) 全方位矢が向いている光の字 村上蝸風
これを機に、逆転攻勢に出たのは後水尾である。
幕府の手詰まりを見越して「退位する」と言い出したのだ。
「興子内親王を即位させれば文句あるまい」
というのが、その言い分である。
奈良時代の称徳女帝を最後に歴史から姿を消していた女帝の出現に秀忠
は難色を示すが、後水尾はかまわず退位を強行してしまう。 実は、後水尾の狙いは院政の開始にあった。
当時の興子は七歳未満の童女である。
政治が行えないのがわかり切っている。
だから上皇として後水尾が実権を握り、平安末期の「院政」を復活させよ
うという計画だったのだ。 事実後水尾は、幕府に相談もなしに、院の別当を任命したりして着々その
準備を進めはじめた。 くすぶった不満が出口探してる 相田みちる
秀忠と家光は、ここで素早い対抗策に出る。
興子の即位を認めた上で、後水尾の待遇については、「万事後陽成院の
通り」とした。 院領は三千石、大名にも及ばない少額である。 これでは膨大な院の所領をふまえた平安末期のような院政をおこなえる
わけがない。 一方では、興子の周辺に眼を光らせ、何事も幕府の許可なしに公家たち
が独断で行えないように厳重な枠をはめてしまった。 期待せざる興子の即位であったにもかかわらず、この時点で幕府の朝廷
に対する統制は強化されている。 損して得を取った秀忠は、やはりしたたかというほかはない。
まさに虚々実々の駆け引きだ。
これだけ見ると、後水尾の抵抗もなかなかしぶといが、しかし、その過
程で、実は、秀忠は家康の成し得なかったこと、いや初代の征夷大将軍・ 源頼朝以来の重要な課題を一気に解決しているのだ。 スゴイッと言われて凄くなってきた 下谷憲子
公家を抑え込む秀忠 「狙いあやまたず」
画期的な課題の解決ー武家の官位の叙任、昇進についての権利をすべて
幕府が掌握してしまったことだ。 逆にいえば、朝廷は公家の官位についてだけしかタッチできなくなった。 権限の大幅縮小である。 これまでは、たとえば秀吉が関白になったときは、公家社会の序列の中
に組み込まれる形をとった。 もちろん、秀吉自身の権力にものをいわせての割り込みであり、家康が
征夷大将軍になったのも、内大臣になったのもすべて同じ形である。 しかし、秀吉も家康も天下の実力者ではあるが、形だけは公家秩序の中
に入った、ということになる。 つまり、官位の任免は、天皇を頂点とする公家的な序列に一本化されて
いたのだ。 結論を髪のにおいが惑わせる 宮井元伸
それが今度は、公家は公家、武家は武家の二本立てになった。
武家は、公家社会の序列や定員制に関係なく、幕府の権限で任命できる
ことになったのである。 例を現代にとってみよう。 春秋に行われる大量叙勲ーーこれは政府が内定し、天皇が勲一等なり何
なりを授ける、という形をとる。 ともかく叙勲は国家、すなわち政府の手で一本化されている。
それが、たとえば労働者には労働団体が、政府に断りなしに、独自に同
じ勲一等を授けられる、ということになったらどうであろう。 幕府がこれを打ち出したのは、いわばこういうことなのだ。
政府がかりに誰かを勲四等にしたい、と思っているところを労働団体が
さっさと勲一等を授けてしまったら、政府のお値打ちはガタ落ちだ。 A4でなくても僕に陽が昇る 三浦蒼鬼
日本の歴史はじまって以来、天皇と朝廷が握り続けていたこの権利は、
大きく制限される。
もちろん形の上では従来通り、朝廷から任命される形をとるが、幕府は 割り込み制をやめて独立性をとったのだ。 これは朝廷の権威・権力を制限するとともに、もう一つの意味がある。
たとえば、朝廷が有力な西国大名に官位を与えて、何かを企もうとする
ことは、もう不可能になったのだ。
その意味で、これは幕府の有力大名への牽制球でもあり、福島正則の改
易と表裏一体をなす政策であった。
このあたりに、秀忠の政策の凄みがある。
週末になると赤鉛筆が減る 中村幸彦
たしかに幕府は一応の安定期に入った。
その次に行うべきは、心の許せない外様大名と朝廷に睨みを、きかせる
こと、それ以外はない。 わが娘の入内という、見かけは平安朝を復活させるような大時代な行為
の蔭で、秀忠は<狙いあやまたず>この両者を押さえ込んだのである。 その意味で秀忠は優れた政策マンである。
にもかかわらず、秀忠が正当な評価を得ていないのはなぜか。
それは、誰にも気づかれず、こっそりと大仕事をやってのけることこそ
秀忠のナンバー2的精神の真髄なのだから、はじめは父家康を、ついで
は息子の家光を表面に押し出して、でき得る限り最小の名声で我慢する。 これこそ秀忠の望むところだったのだ。
音も匂いも位置もあの日のままの部屋 藤本鈴菜
「ナンバー2」は名声をほしがってはいけない。これは鉄則である。
ー名もなく、したたか、狡猾にー秀忠はその見本のような存在だった。
<あるいは、有名にならなくては何の生き甲斐があるか、という向きも
あるかもしれない> が、こういう目立ちたがりやには、ナンバー2はつとまらない。
ましてナンバー1を出し抜いて檜舞台で踊ってみたいといようなタイプ
は失格である。 ーじゃあ、何を生き甲斐にー
歴史というものは、史上の有名人ではなく、秀忠のようなナンバー2に
甘んじられる人間によって作られ、動かされていくのである。
そして秀忠が、「幕藩体制固め」という大仕事をやりぬけたのも、ナン
バー2時代の我慢と、その間に事態を見極め、あらかじめ独自の組織作 りを行い、緻密な現状分析を怠らなかったためなのである。 戦場に角を失くしたカタツムリ 湊 圭伍 PR |
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