川柳的逍遥 人の世の一家言
おい不死身 右が二重になってるで 酒井かがり
「東京開化名勝ノ[内]」 (東京中央図書館所蔵) 家康から精神的解放され快活な秀忠。左・本多正純。 生まれながらにしてナンバー2を予約されたような人物がいる。
個人会社的な色彩の強い企業体の二代目・三代目がそれにあたる。
ナンバー2、いや3,4,5…だって至難のこのごろ、羨ましいような
話だが、しかし、ある意味では、最も危険にさらされているのは彼らか
もしれない。 現代よく見られる同族会社の内紛は、それをよく示している。 <ー創業時代の苦労を知らない坊ちゃん育ち…だ…>
と言われることが多い。二代目の辛いところはそのあたりにある。
うまくいってもともと、少しでも失敗すれば、やはり器ではないの何の
とたちまち袋叩きに遭う…。 と、始まる「はじめは駄馬の如く」を執筆をされた永井路子さんが令和
5年1月27日、老衰で死去された。97歳だった。 記憶とや鍋にいっぱい羊雲 山本早苗
「歴史をさわがせた女たち」や「一豊の妻」など女性の視点から描いた
歴史小説やエッセイを数多く執筆。「北条政子」や「毛利元就の妻」な どは、それぞれNHK大河ドラマの原作になった。 「炎環」65年直木賞、「永輪」82年女流文学賞、菊池寛賞、そして
「雲と風と」88年吉川栄治賞と数々の賞を受けている。 「言葉ってものは用心しなきゃいけない。美しい言葉の裏に何が隠れて
いるか。そこまで見なければ、歴史ものはかけない」 「これは私の遺言状」と笑いながら熱のこもった口調で話していた姿が、
心に残っている。 亡き人の宴だろうか茜雲 佐藤 瞳
秀忠と家康 やっぱり親子 家康ー2代将軍・徳川秀忠
ー創業時代の苦労を知らない坊ちゃん育ち…?
歴史上にも、こうした「幸運」に泣いた人物が何人かいた。
その一人として、徳川秀忠をとりあげてみたい。
いうまでもなく家康の息子、徳川幕府の「二代将軍」である。
実をいうと彼は生まれついてのナンバー2ではない。
何故なら彼は家康の三男坊、そのままの地位でいれば、とうてい将軍の
座は廻ってくるはずがなかった。 ところが、長兄の信康は悲運の最期を遂げた。
まだ家康にさほど力がなかった頃、信長の娘・督姫と結婚させられたが、
さまざまの経緯があって、信長のために自刃させられてしまった。 <政略結婚の悲劇であるが、これは信長が信康の才幹を見抜き、
生かしておいては、将来の憂いになると思って殺してしまった>
とも言われているが、真偽のほどは、とにかく、そう思われても当然な
くらい、信康は優秀な若者だった。 洗濯場霊安室の横にある 富山やよい
次兄の秀康も早死にした。
秀康は秀吉の養子となり、中世以来の名門結城氏を継いでいる。
これも秀吉と家康との政治的な取引で、いわば家康が秀吉に息子をむし
りとられたようなところがある。 しぜん秀忠が徳川家の後継に決まった形になったが、勇猛な武人タイプ
の秀康に比べると秀忠はどうも冴えない。
<こいつではなぁー> 家康も秀忠を後継にすることには、
内心不安を感じたのではないだろうか。
大人しくて、正直なのが取得といえば取得だが、しかし、戦国乱世では
むしろこんな取得は最大の欠点であるからだ。
誤作動のまんま冷や汗かいている 山本昌乃
お 江 与
もっとも秀忠にとっても、後継の座は決して、有難いものではなかった かもしれない。そう決まると、秀吉お声がかりで、八つも年上の女を妻 にしなければならなかったのだから…。 彼女の名は、おごう。お江、小督などとも書く。
淀殿の妹、つまり、信長の妹のお市が近江の浅井長政に嫁いで設けた三
人娘の末妹だ。 このときおごうは23歳、すでに二度の結婚歴がある。 一度は生別、二度目は死別。
いずれも秀吉の決めた縁談で、二度目の夫は秀吉の甥の秀勝だった。
秀勝が朝鮮半島出兵の折に病死したので、その間に生まれた女の子を姉
の淀に托して、秀忠と結婚することになったのである。
マジシャンの指の先から日が昇る 笠嶋恵美子
17歳の秀忠はもちろん初婚、選りに選って年上の古女房をあてがわれ
るとは…。 嬉しくもなんともなかったろうが、おとなしくこの古女房 を受け入れた。その後も浮気らしい浮気もせず、2人の間には多くの子 女が生れた。 思えばこれが、ナンバー2としての我慢の第一歩である。
手を振って笑ったような猫だった 森 茂俊
胸を張って失敗をする秀忠
その後、秀忠は取り返しのつかない大失敗をしてしまう。 秀吉の死後に起った「関ヶ原の合戦」に後れをとってしまったのだ。
このとき、家康は東海道を進んだが、、秀忠は中山道を進んだ。
ところがその行く手に、真田昌幸の守る上田城があった。
昌幸は音に聞こえた戦さ上手である。
秀忠はその城を攻めあぐね、やっと関ケ原に着いたときは、戦いはすで
に終わっていた。 「何たるドジ、マヌケ!」
家康が怒るのも無理はない。
天下分け目の戦いに間にあわなかったのだから。
「面目次第もござりませぬ」
秀忠は平謝りに謝るばかりである。
「父上だって途中で抵抗されたら、うまく関ケ原で戦えたかどうか」
などとは言えない。ましてや
「父君だってお若いころは、三方ヶ原の戦いにお負けになったではあり
ませんか」 などと言ってしまえばおしまいである。
緊張の糸はそんなに伸ばせない 上坊幹子
しかしこのことは、秀忠にはかなりこたえたらしい。
のちに大坂冬の陣の折りには、
「今度こそは、関ヶ原の二の舞はしないぞ」
とばかり、先鋒の伊達政宗を追い越さんばかりの猛スピードで、息せき
切って大阪に駆けつけた。 が、そのために、またもや家康から大目玉を喰う。 「隊伍を乱して慌てて駆けつけるとは、何ごとか。それで大将がつとま
ると思うか」 なるほど、この時は、秀忠の本隊だけが先行してしまって、彼の率いる
大部隊はこれに追いつけなかった。 総指揮官としては、確かに手落ちである。
重ね重ねの大失点、大失策。
正直すぎてはったりがきかない。秀忠らしい生き方が丸出しである。
屋根裏に埃被っている兜 但見石花菜
このとき秀忠はすでに父の譲りをうけて将軍の座についている。
名目的にはナンバー1であるはずの彼が、作戦=つまりそのころの中心
課題で落第点をつけられるとは、まったくの形なしではないか。 「もう俺がナンバー1なんだ。隠居は黙っていてもらおうじゃないか」
こう言いたいところである。あるいは
「文句があるなら、そっと伝えてくれりゃいいのに。あれじゃ、こっち
の面目丸潰れだ。今後、下の者への示しがきかなくなる」 というようなことにまで発展しかねない。
では、秀忠はどうしたか、じっと堪えて家康に頭を下げた。
思えば秀忠は、ナンバー2にとって慰めの星である。
彼は決して凡庸な二代目ではない。
こうして我慢しながら、彼は彼なりの生き方で、じわじわ独自の世界を
築き上げていたのである。 ほんのりと海馬の裏が赤くなる 蟹口和枝
これはこれは忝い賜りもの…
「一方美人」 episode 家康が駿府に引退してからのことだ。
あるとき、秀忠がご機嫌伺いに罷り出ると、
「よく参った。ゆるりと休んでゆくがよい」
家康は手回しよく、側の女房の中から目鼻立ちの整ったのを選んで、
秀忠の許に菓子を届けさせた。 <独り寝は寂しかろうから…>
女好きの家康らしい粋な計らいである。 ところが秀忠は
「大御所様からのお使い」
と聞くと、恭しく招じ入れ、彼女を上座に据えて、
「これはこれは忝い(かたじけない)賜りもの」
四角張って菓子をおし頂いた。
が、会話はそこまで、一向にその先へと進展しない。
意を含められてきた若い女房ももじもじしている。
と、秀忠は訝しそうに言った。
「はて大御所さまからの菓子も頂戴つかまつった。
もうお役目も終ったはず。ほかに何か大御所さまよりの御伝言でも」 凡人と呼ばれ気楽なシャボン玉 下林正夫
「いえ、あのー…」
「あ、左様か。もう伝言もないか。ご苦労であった。では、お見送り
つかまつろう」 あくまでも大御所さま御名代として、丁重に扱い、彼女を送り返して
しまった…さすがの家康も、 「そこだけは真似られぬ。梯子をかけても俺はあいつには及びもつかぬ」
と、言ったという。
何とも融通のきかぬ石部金吉!
家康ならずとも、こんな真似はできるか、「阿保くさ!」と言いたいと
ころだが、実は、ここにセールスポイントの秘密があるのだ。 家康は知っての通りの多妻主義。
それも後家やら素性の知れない庶民の女など、手あたりしだい、
という趣がある。
ごめんねと金平糖を五つほど 指方宏子
秀忠②へ つづく
【永井路子ー作品プロフィール】
1925年(大正14)東京生まれ。東京女子大学国語専攻部卒業後、 小学館勤務を経て文筆業に入る。64年(昭和39)『炎環』で直木賞、 82年『氷輪』で女流文学賞、84年菊池寛賞、88年『雲と風と』他 一連の歴史小説で吉川英治文学賞、2009年(平成21)『岩倉具視』 で毎日芸術賞。 著書に『絵巻』『北条政子』『つわものの賦』『この世をば』『茜さす』 『山霧』『元就、そして女たち』などのほか、『永井路子歴史小説全集』 がある。 PR |
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