川柳的逍遥 人の世の一家言
二代目の振る舞い方は方は鷹だけど 新海信二
女性を遠ざけてみる秀忠 家康は1603年(慶長8)に征夷大将軍となってからたったの2年で 将軍職を嫡子・秀忠に譲った。どうしてなのか?
「関ケ原の戦い」の後、豊臣家は領地を削減されて約60万石の一大名
となったが、秀頼を主君と仰ぐ大名は少なからずいた。 早期に将軍職を自らの嫡子に継承することで、家康は、日本の統治者が
徳川家であることを天下に示そうとしたのである。 1611年には、二条城で「三カ条の法度」を発し、諸大名に幕府法へ
の遵守を誓わせて、幕府が最高権力機関であることを示した。 1615年には「大坂の陣」によって豊臣家を滅ぼした家康は、諸大名
を伏見城に集め、「徳川秀忠の命」という形で、諸大名統制のための全 13ヶ条の法令を発布した。 いわゆる「武家諸法度」である。 秀忠は、凡庸な2代目とされ、家臣の人望やカリスマ性はなかったが、
知力・政治力は家康も認めるところであり、幕府の礎づくりを任せた形
である。 豹変して、秀忠は家康の期待に応えて、強権政治を行った。 色落ちしてはならぬと武家諸法度 酒井かがり
甘える女性にご満悦の家康 家康ー永井路子さんが語る秀忠 「親父殿も女に目がなかったが、息子も…というのは芸がなさすぎる」
秀忠はどうやらこれの逆手を使ったらしい。
どうやら、こうしたマジメ人間秀忠の話は、彼自身の演出によるところ
も多いらしい。 (秀忠の)マジメ人間が定着したころ、家康が 「ああ、律儀でも困ったものだ。世の中律儀だけではいかぬからな」
と、側近の本田正信に洩らしたという。正信が秀忠に
「ですから、たまにはウソを仰ったほうがいいのでは」
と、すすめると秀忠は大マジメに答えた。
「父君の空言なら買う者もあろうが、俺のウソなど誰が買うものか」
が、これで見る限り、秀忠は全くのクソマジメ人間ではなく、なかなか
ユーモアに富んだ人物ではなかったか。
ともあれ、秀忠は密かに父と違う自分を印象づけるのに成功した。
快晴の笑いを放つメロンパン 川畑まゆみ
女性には興味のない家光
秀忠はあまり趣味のない男だが、「鼓」を打つことだけは好きだった。 が、家康が死ぬと、その楽しみもぴたりとやめてしまった。
側近が見かねて
「何もそこまでなさらぬとも…お道楽とてなさらぬ上様、せめて鼓ぐら
いのお楽しみはお続けになったら」 というと、彼はきっぱり答えた。
「いや、これまで自分は大御所さまの蔭に隠れていたから、何をしよう
とも世間の注目をあびなかった。しかしこれからは違う、世の耳目は 自分に集まる。自分が鼓好きとわかれば、ゴマを擂ろうとして、天下 の者みな鼓打ちになってしまうだろう」 よく読めば、彼がかなり意識して、家康の蔭に隠れていたことがわかる。
またそれが彼のゼスチャーだったということを人々に分からせるために
彼は鼓という絶妙な小道具を使ったのである。
海老反りで小股掬いをしのぎ切る 宮井元伸
しかも秀忠の言葉は、意味深長でもある。
鼓を愛すれば大名もこの真似をする。
いやそれだけではない。 鼓打ちが政治的にチョロチョロしはじめる。
秀吉が「茶」が好きだったのにつけこんで、茶堂の利休が政治的に暗躍
したこともある. 秀吉もはじめは茶を政治に利用しようとした。 ここでは身分の違う者が、かなり自由に顔をあわせることができる。
たとえば、武士と町人が政治がらみの密談をするには、絶好のチャンス
であり、事実、利休やそれ以前の茶人たちも、こうしたフィクサー役に はうってつけだった。こうして利休は私設官房長官的存在になってゆく。 が、秀吉が博多商人と接触し、次の膨張策を考え出したとき…、
利休は<小うるさい存在>になってしまったのだ。 誰もいなくなるあさってのニュース 森田律子
「今まではオヤジ(家康)に従っていた、が、もうこれからの俺はこれ
までの俺ではないぞ」 こうして、秀忠は、二代目将軍として腕を揮い始める。
そして、その一つ一つが、実は、徳川幕藩体制を固めるための重要施策
ばかりだった。 この秀忠時代こそ幕府の基礎を固めた時代ともいえる。 もし彼が、世評のように凡庸な二代目だったら、たちまちに徳川政権は
崩壊してしまったろう。 しかもそれらの施策は、実は秀忠がナンバー2時代に温めてきたもので
あり、それが実現できたのは、彼の握った人脈のお蔭である。 二度とない今生きていく骨密度 靏田寿子
秀忠がもっとも力を入れたのは、大名の転封、改易、つまり人員の配置
転換と人事掌握である。 江戸時代大名は、将軍が変わるたびに、改めて朱印状をもらわなければ
ならない。 このしきたり元祖が秀忠なのである。 これによって、秀忠と大名との主従関係が再確認される。
とりわけ領地が増えるわけではないが、朱印状を頂いたというだけで、
<ありがたきしあわせ> なのである。
同時に効果的な配置転換や加増も行われた。
大坂の陣などの論巧行賞も含んでいる。
とりわけ近畿の場合は、京都及び西国大名に眼を光らせるために、拠点
を信頼できる譜代の連中に守らせた。 <そなたたちを頼みに思うぞ>という意思表示であったえ、彼らは秀忠
への恩義を感じ、忠誠を誓ったはずである。 猫の肉球ネットワークができましいた 市井美春
「宇都宮釣天井事件」
なかでも注目すべきは、福島正則と本田正純の「改易」である。
広島の大名・福島正則は、周知のとおり秀吉の子飼いである。
が、関ヶ原の合戦にあたっても、いち早く徳川支持を打ち出した正則に
ついては、家康もさすがに手を伸ばしかねてかねていた。
その大物を、秀忠はついに改易してしまった。
理由は、幕府の許可を得ずに広島城の修築を行ったからである。
そして、もう一人の本田正純の改易も、それを理由にしている。
つまり「法度違反」である。
こうして改易させられた二人だが、正則と正純の場合はいささか事情が
違っている。 出し抜いたのは鴨ですか葱ですか 田口和代
福島正則 福島正則の場合は、あきらかに秀吉系の大名の取潰しであり、西国九州
筋の有力大名への見せしめだった。 <いかなる大身でも容赦はしないぞ> というゼスチャーなのだ。
一方の本多正純の事件は、「宇都宮釣天井事件」として有名である。
<正純が釣天井という怪しげな仕掛けをつくり、日光東照宮参拝のため
にここに泊った秀忠を亡き者にしようとした>、というのだが、 これはもちろん作り話である。 真相は<秀忠宿泊の折に手落ちがあっては>、と正純が密かに城の防備
を手直ししたということらしいのだが、この時も秀忠は、 「動機は何であれ、無断修築は法度違反」
として正純を改易してしまった。
張り紙は禁止と書いてある背中 笠嶋恵美子
本多正純
正純は父・本多正信とともに、亡き家康の側近だった。 若年ながら、幕閣の最高機密にタッチし、人から一目おかれていた。
諸大名も、何かといえば、正純に、<取りなしを頼む>、というような
ことが多かったらしい。 こうした先代の側近という人間くらい扱い難いものはない。
<少しはウソをつきなさい>と進めたのは、正純の父・本田正信である。
このような調子で、<正純にも人生の指南役などされてたまるか>
というのが、秀忠の本心であったのではなかろうか。
父に似た信楽焼をなでてみる 宮原せつ
秀忠がこれだけ思い切った手を打てたのは、もちろん彼の周囲によき側近
がいたからである。 ただし彼らは、いわゆる怪物的な側近ではない。 年寄衆と呼ばれ、のちに老中にあたる。
安藤重信、酒井忠世、土井利勝、酒井忠利らがそれで、つまり彼らが一つ
の組織として機能し、秀忠を支えたのである。 <俺が乗り出せば、社長もいやとはいえない>といった類の、得体のしれ
ない人物をのさばらせるのではなくて、組織による運営、合議による決定 という合理性を打ち出したのだ。 家康もその方向に向かって進みつつあったが、その形を強化・固定させた
のは秀忠なのだ。 人様に知られていない腹黒さ 大高正和 「宇都宮釣天井7コマ解説」 箇条書きすると私が見えてくる 津田照子 PR |
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