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川柳的逍遥 人の世の一家言
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星が降っているので浴びに来ませんか  みつ木もも花






     「因幡堂縁起絵巻」 (東京国立博物館蔵)
因幡国守となり、任国へ下向する橘行平の一行を描いたもの。





「越前への旅立ち」
紫式部の父・藤原為時は、
「寒い夜にも耐えて勉学に励んできたものの、人事異動で希望する官職に就く
ことが出来ず、赤い血の涙が袖を濡らすほど絶望しています」……と、自らの
心情を綴った詩を一条天皇に奏上。 苦しい胸の内をつらつら詩に託した。
「苦学の寒夜 紅涙襟をうるおす 除目の後朝 蒼天眼に在り」
苦しい思いが詰まった為時の詩を詠んで、一条天皇は感涙した。
当初、為時の任地は小国の淡路国だったが、適材適所を考えた道長によって、
除目の三日後には、先に越前守に任じられていた源国盛を外し、為時を越前守
に任じ直した。





地方にはないものがある蕗の薹  柴田比呂志




この頃、道長は、唐人来航の騒動に苦慮していた。
一条天皇自身も、道長の進言により、日本海沿岸への人材派遣の重要性には気
が付いていた。ただ問題は、適任者がいないことであった。
そこに奏上されてきたのが、漢詩文に長けたことで知られる為時の一文だった。
「これはまことに渡りに船。実に好都合な人物がいた」と、一条天皇も道長も
為時に飛びついた。
為時なら、漢詩を通じて宋人とコミュニケーションをとることも可能。
その才を交渉に生かしてもらいたいとの思いで、慌ただしく除目の変更となっ
たのである。こうして越前守に任ぜられた父・為時は、国司として娘・まひろ
とともに、越前の国へと旅立つことになる。
ここにかく日野の杉むら埋む雪小塩の松に今日やまがへる




一言がこんないい日にしてくれた  佐藤 瞳






        紫式部資料館 (紫式部公園)
京から越前へと向かう紫式部らの行列を越前和紙で再現したもの





式部ー除目




清少納言の枕草子の「除目」前後を描いた文がある。
『雪が降ったり氷が張ったりしているのに、太政官へ提出する申文を、持っ
て歩く四、五位の者の、まだ若々しいのは前途有望で、はなはだ頼もしげで
あるが、年老いて頭も白くなった連中が、その筋の人に何のかのと手づるを
求め、また女房の局に立ち寄って、自分の身のえらいことを自慢して聞かせ
るのを、若い女房たちが馬鹿にして、その口真似をするのだが、ご本人は、
いっこうに御存知ない。
<よろしいように主上に奏上してください>などと女房に頼んでも、任官で
きた者はよいが、できなかった者はたいへん可哀そうである』
除目とは、前任者を「除」き、新任者を「目」録に記す意味で、諸司諸国
の官職を任命する儀式をいう)




あの頃はいっぱいあった笑い声  靏田寿子




「申文」は、思い入れたっぷりの名文調が多いのが特徴であるが、哀願型
高圧型に分れるのには興味を引く。
久しく職を離れて、生活に苦しんでいることを切々と訴えるのが、哀願型。
他人に勝る経歴と実績を誇り、時には、そんな自分を、放置するとは何事で
あるかと迫るのが高圧型である。
実際には、藤原為時の申分は、このどちらにも属さない名文で綴られていた
という。




水仙の強さで寒さ耐えてます  掛川徹明




思召除目の会議では、申文が国毎に束ねられて提出され、逐一審査された。
公正な考課が行われれば問題はないが、実際には、その採否に、時の有力者
との縁故の有無が大きく作用した。
幸いにして任命された受領が、任国に下るや早速「志」を送り届けたり、
任終に土産物を持ち帰ったのも、ゆえなしとしない。
上層貴族への追従は、四年ごとに、再就職を強いられていた受領層の宿命で
あった。




言い訳も嘘も無しでは生きられぬ  菊池政勝






    国司の館 (播磨守有忠の邸内)

有忠は刀の目利き、北の方は寝そべって物書きをしている。
女房らは火鉢を囲み雑談をしている様だ。 何とも気楽な
生活をしていたことがが伺える。





「国務条々事」境に入れば風を問へ
「国務条々事」とは、任命された受領が京都を出立する時から、任国へ下って
国務を執るまでの心掛けである。条々には、
「任国へは、前任者の仕事ぶりを知る上で、参考になる書類を役所へ行って
書き写し、それをもって下向せよ」というのに始まり「出立にはいい日を選べ
道中では旅の平安を祈って道祖神へ手向けせよ。
その日の宿所を選ぶには、従者のうち一両人を先発させて、点定(てんじょう)
することとし、決して民の愁いを招いてはいけない」
といったことなど、実に細かなことまで記されている。
これでみると赴任にあたり、必ずしも十分な官馬官船が提供されたとは思えず、
遠隔地への赴任は、一苦労であったろうと思われる。




枯れたひまわり甘栗の紙袋  藤本鈴菜






藤原為時・紫式部父娘と従僕らの越前への旅途中のレリーフ (紫式部公園)





そしてこの受領が、もっとも緊張する一瞬が、俗にいう「坂迎えの儀」である。
坂迎えとは、本来は「境迎え」、すなわち任国へ入境する際、任国の国庁の役
人たちが国境まで出向いて、新任の長官を歓迎する儀式であり、その際、簡単
な宴席が設けられたのである。条々には、
「吉日時でなければ、(国境の)近くで逗留してその日を待つがよい。
しかし在庁官人たちが、慮外にやってくることがあったら、会ってその国での
やり方を尋ねるがよい。しかし、無益なことをいってはならない。なぜなら、
外国の者は坂越えの日、必ず、長官の賢愚を推量するからである。」
(外国=在地の人間たちの品定めに用心せよ、与し易しとみくびられないために、
無用な言辞はつつしめ」というのである。




ひっそりと地方に眠る石仏  森 廣子




『今昔物語』「寸白(スバコ)、信濃守ニ任ジテトケウセタル語(コト)」
という一話がある。
寸白とは、寄生虫、サナダ虫のことで、胡桃を摺り入れた酒を飲むと、溶けて
しまうとされていたようである。その寸白をもった男が、信濃守となり、はじ
めて任国に下向したところ、坂迎えの饗が設けられ、守やその郎党たちと国の
者どもが多数集まって饗応した。
みれば前の机に胡桃が山と積まれている。
さっそく守は身を絞られるような症状を呈しはじめた。
これをみた介(すけ)在庁官人で物知りの古老が、一計をめぐらし、ことさら
胡桃を濃く摺りいれた旧酒を、いやがる守に無理矢理飲ませる-------と、
こはいかに、守は水になって流れ失せてしまった。人々の騒ぎを尻目に、介は
国人をつれて引きあげ、守の郎党たちも京へ帰っていった、というものである。
(現実にはありえない話だが、これは一種の寓話、すなわち「条々」にいうよ
うに、その賢愚を弁別された。無能受領の受けた手痛い仕打ちの説話である)




樹氷から耳のかたちで落ちてゆく  小池正博






平安時代の庭園や寝殿造の建物を再現した紫式部公園
藤原為時と紫式部が暮らした越前国府をイメージしている。





坂迎えの後、その日の夜に任地に着く。早速饗応を受けたのち、衣装を束帯に
あらためた上、在庁官人に都から持ってきた太政官符を示し、また鍵を受け取
るなど、「条々」にも記す、受領が行うべき最初の手続きをする。
そして国衙(こくが)に付属する「惣社」に赴く。
(国衙=律令制度の下で、国司が地方の政治を行うために国ごとに置いた地方
の役所)
その後、国守の神拝のあといよいよ国政を行う。
そこで「条々」には、さまざまな国務のことが書き上げられているが、それら
を読んで気付くことは「国風」「土風」の語がしきりに出てくることである。





     等身大の紫式部と越前旅のお駕籠





風になる前に一本ハイライト  高野末次




坂越えに先立ち、在庁官人から「国風を問うべし」、坂迎えの儀式は「土風に
随うのみ」新司歓迎の饗宴のことは「例によりこれを行わしむ」高年者に諸事
を聞き、「ひろく故事をたずねるようにすれば、善政の聞こえも生まれよう。
そのために「旧風」を改めてはならない」、など。要するに在地の動向を十分
に認識し、軽々に現状を変えてはいけない。
公損のない限り、在地の要求に従うようにせよというものである。
地方に赴任することは、給料も3倍になり、嬉しいこともあるが、難儀なこと
もいっぱいあった。


気休めのことばは要らぬ寒桜  荒井加寿




「国を去ること三年 孤館の月 帰程の万里 片帆の風」
(国を去って三年、あなたは一人で鴻臚館において、寂しく月を眺めておられる
のですね。帰路は万里の道のりではありますが、片寄せた帆でも、順風が吹けば
帰国することもできましょう)と、
為時が唐人(宋人の羌世昌とも)に送った文面が、それを物語っているかのよう
である。




地方には味わいきれぬ味がある  井本健治

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