川柳的逍遥 人の世の一家言
パン買いに云って鰯を買ってきた くんじろう
悠々自適の道長・十六夜の月の夜の舟遊び。
「一家に三后が立つ」
在位中の天皇の正妻を皇后といい、前天皇(上皇)の正妻を皇太后といい、
前々天皇の正妻を太皇太后(たいこうたいごう)と言う。
後一条天皇の在位時の状態がどうだったのかと言うと、
藤原彰子は太皇太后、藤原妍子は皇太后、藤原威子は皇后となった。
三皇后を全て自分の娘とすることに成功した藤原道長は、この時、隆盛の
絶頂期を迎えた。 3人連続で娘を皇后とした実績を残したことで、多くいる藤原氏の中でも
藤原道長の一族が特に抜きんでた地位に立つことに成功したのである。 〔三后〕 第66代天皇:一条天皇→道長の娘の藤原彰子(あきこ)
第67代天皇:三条天皇→道長の娘の藤原妍子(きよこ)
第68代天皇:後一条天皇→道長の娘の藤原威子(たけこ)
土御門第の藤原道長
寛弘5年、一条天皇を土御門殿へ迎えるにあたり、新造の船を検分する道長。
式部ー藤原道長
摂政は、幼少天皇の代わりに政務を代行する役職。
関白は、成人した天皇の政務を補佐する役職。
平安時代の中頃、皇室と外戚関係を深めた藤原北家が摂政と関白の地位を独占
して、国の政治を左右するようになった。 道長は、こうした摂政関白の地位を独占していた藤原北家の4男として生まれ
た。4男として生まれたことで、摂政関白など地位を考えることもなかったが、 兄道隆・道兼が次々と死に、甥の伊周(これちか)・隆家との権力争いでは姉
の詮子に助けられ、ついに実権を握った。 その後、道長が圧倒的な権力を手に入れることができたのは、娘の彰子が一条
天皇に入内させたことにはじまる。 いつまでも沈んでいたら石になる 田中 恵
道長の成功の一つには、妻・倫子の実家のバックアップもあった。
「紫式部日記」には「自分と結婚できて倫子は幸せ」と発言し倫子を怒らせ、
あきれさせて、慌てて追いかける道長の姿が、描かれている。 道長と倫子の関係は対等というより、尻に敷かれていたようだ。
見てくれは悪い顔だが運がよい 原 徳利
寛弘5年9月13日、敦成親王誕生第三夜の産養。
土御門邸東の対の庇に列座する公卿。 「朝廷内の役職」
当時の官僚制度における役職の順位は、大納言→内大臣→右大臣→左大臣とあ
り、天皇を頂点とし官僚たちが政務を行なった。 そして、政務執行権限を持つ官僚の中で一番偉い人物のことを、一上(いちの
かみ)といった。 一の上は、基本的には、左大臣が務め「職務能力」また「政務執行権限を持つ
官僚の中」の中の者と柔軟に決められきた。 官僚トップの左大臣が、政務執行権限を持たない場合は、一上は、右大臣以下
の大臣になる。 官僚トップの地位にあるにもかかわらず、政務執行権限を持たないという場合
とは、大臣が摂政・関白の役職も兼務している状態をいう。 折れ線グラフ折れたあたりから発芽 和田洋子
陣座
公卿審議の場。ここで行われる審議を陣儀・仗儀という。
「道長の権力ー一の上」
一の上は、官僚のリーダー的な存在である。
(一の上=左大臣が関白を兼ねるときは、右大臣をさす)
例えば、官僚たちが作り上げた報告書を、天皇に見てもらう時には、一の上が
代表して、天皇への報告の儀(官奏〈かんそう〉を行った。 ほかにも「陣定」(じんのさだめ)という重要会議のリーダー的役割も一の上
が担った。
「陣定」とは、一定官位以上の人物を集めて行う会議で、人事・外交・税・地
方行政についてなど、多くのことが議題になる。 ただし陣定は、何かを決定するための会議ではなく、あくまで参加者の意見を
とりまとめたもので、最終決議はされない。 出てきた意見は、天皇や摂政・関白へと報告され、陣定の内容も踏まえながら
最終決定は天皇が行った。
だが天皇まで報告の全内容が届くことはなかった。
陣定後のその内容について、天皇などと、個別に相談することもあったので、
報告書をすべて天皇に見せるかどうかは、一の上の権限で判断できたのだから。
蟷螂は緑鮮やか立っている 森光カナエ
「道長の権力ー内覧」
「摂政・関白」の役職は、あくまで天皇の補佐役である。
そのため自らは政務執行の権限は有しない。
代わりに、天皇が目にする文書の「検閲権限」という強大な権限を有した。
例えば、どんな企画書を作っても「内覧」で却下されると、企画書は天皇の目に
すら届くことはない。 道長が、一条天皇の求めた関白という職を拒否したのは「一の上」と「内覧」と
いう職務を仕切ることのできる立場を残すためであった。
この二つは、政治を執り行うには強大な権力となった。
こうなると道長の下に、自分たちの要望を取り計らってもらおうと、多くの人が
馳せ参じるようになる。人が媚びへつらえば金も集まる。 弾よりも速く差し出す袖の下 中村幸彦
几帳のかげに隠れていたところを道長に見つかり、祝いの和歌を詠むように
迫られる紫式部と宰相の君 「文人でもあった道長」
道長は政治ばかりでなく、学問にもかなりの力を注いでいる。当時の書物は、
人から人へ書き写したものだったが、中国から伝えられたもの、日本で書かれ たものなど、多くの書物を集め「これをお読みなさいますように」と、大切な 書物を、天皇に献上したこともある。 道長の豪華な土御門邸での宴では、音楽を奏でさせて酒や料理を楽しむという
よりは、名のある文人たちを招いて、文章を競い合う作文会、詩や和歌を作っ て競い合う曲水宴や花宴などを開いた。 道長の有名な和歌 「この世をばわが世と思ふ望月の かけたることはなしと思へば」
もこうした場面で作られたものである。
さらに、道長の漢詩は「本朝麗藻」(ほんちょうれいそう)に数多く収められ、
和歌は「後拾遺集」などの勅撰集天皇が編纂を命じた和歌集)に33首が選出
されている。 三寒の無口四温の弾む声 原 洋志
蜂須賀家本 彰子サロン
先に述べたように、道長は自分の娘たちを天皇の后にした。
天皇が住い、政治をおこなうところが御所で、その奥には妃や女房たちが住まう
後宮があった。 後宮には、天皇や妃の身の回りを世話するもの、書物を読みこなし文章を書くも
のなど、さまざまな女房がいた。娘の彰子が一条天皇の后になったときには、 女房の数だけで40人いたという。 道長は、こうした女房のなかで、優れた文章を書く紫式部、赤染衛門、和泉式部、
伊勢大輔らをあつめ、彰子のためのサロンを開かせた。
一条天皇のもう一人の后・定子のもとには、清少納言がおり、その名も高いところ
から道長は負けていられないとばかりに、紫式部たちを送り込んだのだった。 そのお蔭で後宮は、すばらしい文学が生れる場となった。 階段はいらん養成所の裏手 酒井かがり PR |
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