力むなと言われて河童皿を脱ぐ 岩田多佳子
水師営会見所
1905年1月5日、旅順郊外の「水師営の農家」で、
旅順要塞司令官・ステッセルと、日本側の乃木大将との間で、
「降伏文書」の調印が行われた。
≪左ー両将軍が会見した部屋。
(戦争中は日本運衛生隊の手術室として使われていた)
右ー当時のままに復元された会見所の建物≫
坂の途中で祭太鼓を待つことに 墨作二郎
「旅順決戦」 40分/5分
日本陸軍にとって、「旅順」はさして重要視されていなかった。
旅順攻撃を命ぜられた第3軍の乃木希典大将にしても、
「旅順はたやすく落とせるだろう」
と見ていた。
しかし、8月19日にいざ総攻撃を仕掛けてみると、
まるで歯が立たなかった。
死傷者は、16000人にも及び、
「旅順の大要塞」には、かすり傷1つ負わせることができなかった。
悲しい日もっと悲しい人を見る 松田篤
旅順要塞跡ー1
≪内部は、分厚いコンクリートで覆われている≫
逆にいえば、
ロシア軍は、それだけ頑強な大要塞を、造り上げていたということになる。
しかも乃木軍は、なかでも最も堅牢な二龍山と東鶏冠山の間を、
「中央突破」する、という作戦に出た。
これは、弱点攻撃が最も有効とされる「要塞戦の原則」の正反対である。
失敗しても不思議はない。
挫折した下絵に残す熱きもの 富田美義
旅順要塞跡ー2
それにもかかわらず、
9月19日の第2次総攻撃でも、同じ攻撃法を採り、
同じ悲惨な結果を得た。
死傷者4900人で、これで既に2万人を超えた。
この責任はもちろん、乃木大将のもあったが、
参謀長・伊地知幸介の頑迷さによるところが大きかった。
「旅順要塞」は、海軍にとってもなんとしても、
落としてもらわなくてはいけない対象だった。
その重要性は、
陸軍よりも、海軍においてより大きいといっていい。
頂点の椅子の軋みはつぶやきか 笠嶋恵美子
水師営の会見
≪乃木大将とステッセルの間で、旅順軍港攻防戦の停戦条約が締結される≫
「司馬氏記」
《 旅順の港とその大要塞は、
日本の陸海軍にとっての最大の痛点でありつづけている。
東郷の艦隊は、悲愴を通り越して滑稽であった。
彼らは陸軍が要塞を落さないため、尚も、この港の口外に釘づけにされ、
ロシアの残存艦隊が出たきて、
海上を荒し回ることを防ぐための「番人の役目」を続けている。
大戦略からみて、これほどの浪費はなく、
これほど日本の勝敗に関して、あぶない状態はなかった。
バルチック艦隊は、いつ出てくるか。
という報は、欧州からの情報はまちまちでまだ確報はない。
無いにしても、
「早ければ10月に日本海にあらわれる」
という戦慄すべき説もおこなわれていた。
・・・・・〈中略〉・・・・・
海軍はあせった。
東京の大本営も、あせりにあせった。》
少しずつ老いて狂ってゆく明日 元永宣子
203高地
海軍からすれば、「203高地」を攻め落としてほしかった。
203高地を取れば、
旅順港を一望できて、港内のロシア軍艦を陸軍砲で砲撃できる。
しかし、乃木軍は203高地には見向きもせず、正面攻撃に固執していた。
「乃木と伊地知を更迭せよ」
という意見も多かったが、
「兵士の士気が落ちる」
ということで、大山が承知しなかった。
ドアチェーン外し昨日を蹴り込まれ 谷垣郁郎
こうした追い詰められた状況のなかで、
11月26日、第3次総攻撃が行われたが、成功するはずはなかった。
旅順攻撃の象徴的存在ともいうべき「白襷隊」が、
出陣したのもこの時であるが、
いたずらに、死傷者の数を増やすばかりであった。
もちろん、
「旅順市街へ突入せよ」
という命令が実現されるはずもなかった。
またひとり友を失う寒椿 本多洋子
白襷隊
≪「白襷隊」=旅順要塞第三次総攻撃時の決死隊≫
隊員は、夜間相互の識別がしやすいように、
右肩から左脇下に白だすきをかけた。
そして、1904年11月26日、
午後9時より「夜間奇襲攻撃」を賭けるも、
白襷隊総勢3100余名のうち、半数近くが一瞬で死傷し、隊は壊滅した。
≪この写真は彼らの最後の勇姿となった≫
矢印を信じています非常口 美馬りゅうこ
しかし、この総攻撃の失敗が、
乃木に作戦を変えさせるきっかけになった。
翌27日から203高地への攻撃が開始された。
結果は、203高地に日本兵の屍を積み上げるばかりである。
しかし、30日になって奇蹟が起こる。
香月・村上両隊の約500人が、ロシア軍歩兵1000人と白兵戦を演じ、
わずか50人程度であったが生き残り、
ついには、203高地を占領した。
11月30日午後10時のことである。
だが、この占領はあっという間に取り返されてしまう。
(二日後の12月16日に続きます)
マジシャンじゃないから雲は隠せない 清水すみれ
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