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川柳的逍遥 人の世の一家言
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消炭を摑む男の意地の果て  森中惠美子

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閉塞作戦で沈められた報国丸

「ロシア艦隊を旅順港内に封じ込めるため、

  外洋へ出入り口である狭い海峡に船を沈めて、

  出られないようにするという作戦。」

≪21隻もの閉塞船を出したが、砲台からの攻撃にあって成功しなかった≫

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「旅順港を”閉鎖”せよ」  40分/ 5分

仁川沖での勝利は、

連合艦隊としては、別働隊というべき働きである。

主力の仕事は、あくまでも「旅順港」の方だ。

ロシア海軍は、「極東艦隊」「バルチック艦隊」という2つの艦隊を持っていた。

極東艦隊では、旅順と浦塩という2つの基地を持っていたが、

この時期の浦塩港は、結氷期にあたるために、

極東艦隊のほとんどが、旅順港に集結していた。 

落ち葉踏む戦争なんて大嫌い  嶋澤喜八郎
 

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閉塞作戦を示したパネル

それを撃破しなければいけないものの、

「要塞砲」で守られている港内にいる限りにおいては、

攻撃の手段は、限られたものになってしまう。

2月8日夜、まず駆逐艦による「水雷攻撃」が実行されたが、

確たる成果は上げられなかった。

翌9日には、二等巡洋艦・ディアーナの挑発を受けて、

旅順港の外において、初めての主力決戦が行われた。

後に「旅順口外の海戦」と呼ばれるものである。

ここに来て運命線がゆがみだす  信次幸代

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旅順監獄展示室に陳列された報国丸の錨

 

しかし、両軍のダメージは小さなものである。

日本側から見ても、勝利には程遠かった。

言い換えれば、

「旅順要塞」の威力が、それだけ凄まじいものだということだ。

そこで、次なる作戦は、

旅順港から艦隊を出られないようにすること、

即ち「閉塞」となった。 

表札を人に盗ませてはならぬ  山口ろっぱ

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   一時休戦の写真

≪旅順要塞攻防戦の最中に、日露両軍の戦死者を収容するために一時休戦した≫

「司馬氏記」

≪ロシアと戦う場合、当然海軍の第1期作戦は旅順港との格闘になる。

海軍軍司令部の案として、「閉塞」ということは早くからあった。

旅順港に船を沈めて、その瓶の口をとざしてしまい、

港内の敵艦隊を物理的に、閉じ込めてしまうのである。

旅順の港口はじつに狭い、その幅は273メートルで、

しかもその両側は底が浅いために巨艦が出入りできるのは、

真ん中の91メートル幅しかない。

そこへ古船を横に並べて5、6隻沈めてしまう。

「それ以外にないのだ」

ということを、開戦の前から唱えていたのは、

東郷の参謀のひとりである有馬良橘中佐と、

戦艦朝日の水雷長である、広瀬武夫少佐である。

引き際の美学 微妙に揺れている  山本昌乃

ところが「閉塞」の権威であるはずの秋山真之は、

実際には、にえきらなかった。

彼は、「旅順要塞の事情」が分ってくるにつれ、

「サンチアゴ港でこそできたが、旅順要塞はまるで違う。

  サンチアゴ港の千倍の砲力をもっているし、

  第一港内の艦隊が、スペイン艦隊でなくロシアの大艦隊だ。

  やればかならず死ぬ」

と、言い出した。 真之は、

「流血のもっともすくない作戦こそ最良の作戦である」

と平素言い、「閉塞には冷淡」になった。

しかし、自分の先任参謀の有馬がみずからやるということを、

まっこうから反対もできず、煮え切らなかった≫

却下却下と澱粉質の声で  井上一筒

天才・秋山真之にして決断できなかった「閉塞作戦」は、

やはりうまくいかなかった。

2月23日薄暮、閉塞隊の5隻は、円島の東南20海里の洋上に集合し、

翌深夜作戦行動に出たが、

先頭の天津丸が、猛烈な砲火と探照灯に目が眩み、

進路を誤ったこともあって、2隻を除いて有効な閉塞は、

出来ないままに沈没した。 

ニアミスをしたこの世あの世の境目で  和田洋子
 
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ロシア船の甲板に横たわる広瀬中佐の遺体

   

3月26日夜、「第二次・閉塞作戦」のための4隻が出発した。

今回も、海岸にある砲台と艦艇からの猛射によって、

予定位置の手前で沈没、完全な封鎖はできなかった。

おまけに、後に、「軍神」としても謳われた広瀬武夫少佐が、

壮烈な戦死を遂げることにもなった。 

* 「軍神」=本来は武運を守る神様のこと。

明治以降の日本は、日露戦争の広瀬少佐を初めに、

戦死した軍人の中から模範となる者を神として扱い、国民が敬う対象とした。

 

「広瀬の場合は、出身地の大分県竹田市に広瀬神社が造られた」

人は皆生きてる途中で死ぬのだ  高橋謡子 

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広瀬の遺体を確認する海軍・陸軍将校の二人

「司馬氏記」

≪広瀬はオーバーの上に引廻しを羽織り、

    ボートの右舷最後部にすわって、

    ともすれば恐怖で体が硬くなろうとする隊員をはげまし、

    「みな、おれの顔をみておれ。見ながら漕ぐんだ」

    と、言ったりした。

  探照燈が、このボートを捕え続けていた。

    砲弾から小銃弾までがまわりに落下し、海は煮えるようであった。

  その時、広瀬が消えた。

    巨砲の砲弾が飛び抜けたとき、広瀬ごともって行ってしまったらしい。

    その隣りに座って、舵をとっていた飯牟礼ですら、

    気づかなかったほどであった≫

渡された切符は遠い海のいろ  清水すみれ      

2日後の12月10日に続きます。

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