なにほどの快楽か大樹揺れやまず 大西泰世
連合艦隊幕僚
「T字戦法」は秋山が、「瀬戸内水軍」の古文書からヒントを得たものである。
東郷は、それを採用した。
「三笠の艦橋」で、東郷の手が大きく左にふられたとき、
秋山は全身に電流が走ったような衝撃を覚えた。
労があったにせよ、作戦を練るのはまだ易しい。
それを採用して断行することのほうが、はるかに難しいのだ。
秋山の作戦もさることながら、
完全勝利をもたらしたのは東郷の決断である。
「われ東郷に及ばず」
俊秀・秋山真之がなめた生涯で、ただ一度の挫折感である。
にんげんを呑むにんげんの無限大 土田欣之
「日本大勝利の瞬間」 40分/7分
幸いなことに、「バルチック艦隊」は対馬へのコースをとった。
それを最初に発見したのは、
沖縄粟国島の奥浜牛という29歳の青年だあった。
彼はその発見を宮古島の島庁に報告、
石垣島の電信局から大本営へと打電された。
小指ってつぶやいているんだと思う 河村啓子
旅順のシンボル・白玉山塔(旧表忠塔)-(日露戦争の面影)
≪戦没者の慰霊のために日本統治時代に白玉山頂に建てられた≫
それとは別に、第三艦隊の仮装巡洋艦・「信濃丸」も、
長崎五島列島沖で、哨戒任務に当たっているときに、
バルチック艦隊を発見する。
5月27日、午前2時45分のことであった。
信濃丸は後方に回り、左舷に出て敵艦であることを確認し、
「敵艦隊見ゆ」 を打電し続けた。
「敵の艦隊、203地点に見ゆ。時に午前4時45分」
発見地点は、あらかじめ、「203地点」と名づけられていたところで、
奇しくも、「203高地」と同じ数値が冠せられていた。
カタカナを沈める癖が離れない 瀬川瑞紀
旅順口ー(日露戦争の面影)
≪旅順港の一部が公園になっている≫
この報告に秋山は、
「シメタ シメタ」 と踊りだしたとも言われている。
ここまで来れば、あとはかねてからの作戦通り、戦うだけである。
大本営に電報が打たれる。
「敵艦見ユトノ報二接シ、連合艦隊ハ直二出勤、之ヲ撃滅セントス、
本日天気晴朗ナレドモ波高シ」
バルチック艦隊は、信号を見誤った艦が出現したこともあり、
変則な陣形を成していた。
対する日本艦隊のほうは、整然たる陣形を組んでいた。
常温で喜怒哀楽を暖める 原 洋志
203高地から見た旅順港ー(日露戦争の面影)
≪ここから児玉指揮のもと日本第三軍が砲撃した≫
御前1時50分過ぎに三笠から、各艦へ向けて「旗旋信号」が送られる。
後に有名になる「Z旗」である。
「皇国の興廃、この一戦に在り。各員一層奮励努力せよ」
日本艦隊はT字戦法を取り、敵前回頭を行った。
三笠をはじめ日本艦艇は、当初、一方的な砲撃を受ける。
しかし、日本軍はこれに耐え、
距離6000㍍余りとなった午後2時10分、
ようやく砲術長・安保少佐からの射撃命令が下された。
泣き出しそうな空へどーんと卵とじ 山本昌乃
旧関東庁ー(日露戦争の面影)
日本軍の射撃の腕は、鎮海湾における訓練で、熟達の城に達していた。
さらに、「1艦の照尺の統一」という戦術や、
「下瀬火薬」の威力も味方した。
日本海海戦は、日本軍の圧倒的優位の下に進行していた。
* 「1艦の照尺の統一」=ロシアの艦船は、
各砲座ごとに目標を測定し、砲撃を行っていたが、
日本の艦船は艦ごとに統一されていた。
『砲火指揮はできるだけ艦橋で掌握し、射距離は艦橋より号令し、
砲台にて毛頭これを修正せざるを可とす』 東郷の原則
生き方が正しい犬の牙の位置 井上一筒
陥落の旅順
午後7時20分、その日の海戦は一応の終りを見せたが、
暗闘の中でも、「駆逐艦」と「水雷水雷艇」による夜襲が行われた。
翌28日にも、海戦は続くのだが、
それは、日本軍の勝利を完璧にするための、
おまけのようなものである。
坂の上の雲をまだ追っかけています 八田灯子
結局、ロシア艦隊の主力艦のすべてが、
「撃沈、自沈、捕獲」のいずれかの運命を辿った。
対する日本艦隊は、わずかに水雷艇3隻の沈没だけであった。
信じられないほどの日本の大勝利である。
歴史に、「もし」 はないが、
もし日本が敗れていたとすれば・・・。
夢のカラオケがポケットでしゃべりだす 杉本克子
「司馬氏記」
≪日本史をどのように解釈したり、論じたりすることもできるが、
ただ日本海を守ろうとする この海戦において、
日本側が破れた場合の、結果の想像ばかりは、
「1種類しかない」 ということだけはたしかであった。
日本の "その後 " も "こんにち " も、
このようには、存在しなかったであろうということである。
国境を問うだーれも答えなど知らぬ 竹内ゆみこ
そのまぎれもない蓋然性は、まず満州において善戦しつつも、
しかし、結果においては、戦力を衰耗させつつある日本陸軍が、
一挙に孤軍の運命におちいり、
半年を経ずして、全滅するであろうということである。
当然、日本国は降伏する。
我が胸を抱けりブリキの音のする 時実新子
旧関東庁の建物ー(日露戦争の面影)
≪関東州経営の総本山・現在は中国海軍の施設≫
この当時、日本政府は日本の歴史の中で、
もっとも外交能力に富んだ政府であったために、
おそらく、列強の均衡力学を利用して、
かならずしも全土がロシア領にならないにしても、
最小限に考えて、
対馬島と艦隊基地の佐世保は、ロシアの租借地になり、
そして、北海道全土と千島列島は、ロシア領になるであろうということは、
この当時の国際政治の慣例からみても、
きわめて高い確率をもっていた≫
夕立に後のまつりも仕舞い込む 山本早苗
旧日本人街ー(日露戦争の面影)
≪戦前は鯖江町と呼ばれた。
周囲は再開発されショッピングセンターなどが建ち並ぶ≫
明治38年9月5日、「日露戦争」は終わった。
朝野を挙げての日本の奮戦は、
西欧の進出に脅威を感じていた19世紀の東洋諸国に、
大きな希望と勇気を与えるものがあった。
作戦期間20ヶ月、
全動員兵力約100万、戦死約8万、負傷約14万である。
アキレス腱伸ばすと叫びたくなった 赤松ますみ
日本海海戦の後、三笠での記念写真
≪中央に東郷平八郎 前列右端が秋山真之≫
その後、秋山は東郷のために「連合艦隊解散式」の告別の辞を草した。
長文のため、最後の部分だけ引用すると。
『神明は、ただ平素の鍛錬に力(つと)め、戦わずしてすでに、
勝てるものに勝利の栄冠を授くると同時に、
一勝に満足して、治平に安んずるものよりただちに之を奪う。
古人曰く、”勝って兜の緒を締めよと”』
ルーズベルト大統領を感激させた名文である。
彼が推敲したのは、東郷を私淑したからではない。
作戦参謀の最後の任務を果たしたのだ。
終章を飾るファイルがみつからぬ 八木侑子
秋山真之記念写真
≪日露戦争の前年に結婚した真之(36歳)と季(21歳)。
三笠にての真之の勇姿≫
日露戦争の奇跡的勝利を、
「天佑と神助」のたまものと考え秋山は、
その後、霊力を信じるようになり、
「盲腸炎も精神力で治してみせる」と称して手術を拒みつづけた。
その盲腸炎をこじらせ、中将に昇進の1年後の、
”大正7年(1918)2月4日早朝 "腹膜炎のため死亡。
52歳であった。
もし彼が昭和まで長生きしていたら「日本海軍」は、どうなっていたか、
その死を惜しむ人は多い。
友が逝く夕立がまたひとしきり 新川弘子
バルチック艦隊司令官・ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー提督
東郷・秋山のライバルとして、ロジェストヴェンスキーは、
日本海で戦うも、機関故障のため、
駆逐艦・ベドーヴイに移乗している途中、運悪く、
連合艦隊の駆逐艦「漣」に発見され降伏し、捕虜となった。
その時、受けた傷で佐世保の海軍病院に入院。
その折、東郷大将が見舞いに訪れ、
東郷の礼節を尽くした扱いに感銘を受け、
一生東郷を尊敬し続けたという。
終戦後敗戦の責任を問われ、軍法会議にかけられたが、無罪となる。
この裁判で、
「敗戦の責任は自分にある。
この裁判は自分とネボガトフだけを、訴追すればいい」
と発言。
1906年退役。その3年後、
日本海海戦中に受けた傷が原因で病死。60歳であった。
諍いのダマぽっかりと浮くシチュウ 岩根彰子
[4回]