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川柳的逍遥 人の世の一家言
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わたくしの気球を掲げむ冬青空  大西泰世

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【日露戦争-日本はなぜ勝てたのか?ー②】

「司令官・クロパトキンという男」  

第三軍が旅順で、死闘を繰り返している間、

第一軍と第二軍は、積極的には戦えない状況にあった。

端的にいって砲弾が足りなかったのである。

砲弾の蓄積を待つしかなかった。

「遼陽会戦」における日本の勝利に対して、

クロパトキンは、「戦略的退却」と言っていたのであるが、

それも必ずしも、強がりとばかりは言えなかった。

何時からか夢は祈りになっていた  牧渕富喜子

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奉天駅頭で麾下の将軍たちの敬礼を受けるロシア軍総帥

≪ 右から5人目がクロパトキン ≫

10月に入って、ロシア軍は、攻撃のための南下を開始したのだ。

この時の日本軍は、児玉源太郎は、頭脳が働かず迷いに迷ったが、ついには、

「いつでも攻撃に転じうる態勢を取るよう」に命じた。

ここで何故か、ロシア軍の南下がストップする。

後でわかったことだが、完全主義者のクロパトキンは、

迂回行動を取っていた東部兵団の遅れに、

先行してた西部兵団の歩調を合わせるため、待機を命じたのであった。

すり傷のうちに何とかしなければ  柴本ばっは

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日本軍は攻撃に出た。

いわゆる「沙河会戦」である。

日本軍は、70キロ以上も横に伸びた戦線で、

横一線になって、ひた押しするという作戦に出た。

この曲芸のような作戦が、ほぼ、うまくいったのである。

それでも戦況としては一進一退であった。

10月8日に始まった沙河会戦は、13日に峠を越した。

非常口ふたつギブアップはしない  前中知栄

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≪退却するクロパトキン隊≫

この日、クロパトキンは退却を決意する。 

とはいえ、日本軍が勝ったとは言い難い。

 

ロシア軍は、沙河を渡って退くことはせず、

沙河を背中にして、その南岸に留まっている。

そのうちに11月になった。満州はもう冬である。

両軍とも、「冬営」せざるをえない。

ネジ回し下さい頭はずします  高橋謡子

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   黒溝台の秋山支隊

次なる陸戦が開始されたのは、

年が明けてからの明治38年(1905)1月のことである。

「黒溝台会戦」である。

仕掛けたのはロシア軍のほうだ。

グリッペンベルグ大将率いる第二軍は、日本軍の左翼を攻め、

この攻撃は成功するかに思えた。

日本軍は、「冬季にロシア軍が動くはずがない」

という思い込みから、後手に回ってしまうという不利も大きかった。

しかし、1月29日、クロパトキンは、

グリッペンベルグに作戦中止と退却を命ずる。

都合よい救急箱になっていた  石橋能里子

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  偵察中のロシア軍の騎兵

「司馬氏記」

「あの男の真意はわかっている。

    わしの成功を怖れたのだ。

    わしがこの作戦に成功すれば、あの男の地位があぶなくなる。

    ただそれだけの理由で、ロシア帝国の勝利を、あの男は大山に売った」

と、グリッペンベルグがこの夜、

部下の将官たちの前でクロパトキンを罵ったというのは、

無理もないことであった。

彼は、最初、この命令を無視しようとした。

しかし自分が孤軍になることを恐れた。

命令を無視すれば、クロパトキンは、

たとえグリッペンベルグが、危機におち入っても救わないであろう ≫

釣鐘の中と外とでレスリング  井上一筒

最初クロパトキンは、グリッペンベルグが成功すれば、

クロパトキン自ら第一軍を率いて、出てくると約束していたのだが、

その約束は反故にされた。

もし約束が守られていれば、

日本軍は負けていた可能性が大きい。

とにもかくにも日本軍は勝った。

冬バラを飾る延命拒否である  森田律子

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近代騎兵の父・秋山好古

≪日露戦争で好古(中央)は、騎兵第一旅団長としてコサック騎兵と戦った≫

「典型的な古武士的風格のある武将で、

  こののちは、こういう人間は種切れになるだろう」

と評せられた将軍で、

日本陸軍の「騎兵部隊」を育て上げた偉材である。

黒溝台会戦では、「秋山支隊」として、騎兵第一旅団基幹の部隊を指揮し、

満州軍の最左翼を守りぬいた。

防御正面約30㌔、露軍12・5個師団の攻撃を、

徒歩戦下馬した騎兵-8個連隊で戦い通したのが、

歴史に輝く「騎兵秋山」の武勲である≫

天才の脳には蓋も底もない  嶋澤喜八郎

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「奉天会戦」ー(奉天へ向かうロシア兵)

≪日本陸軍とロシア陸軍が激突したこの大規模な戦闘は、

  奉天という都市を中心に繰り広げられたことから、

  
「奉天会戦」と呼ばれている。

   日本軍の死傷者数は約7万人、ロシア側の死傷者数は約8万人、

   その他に、戦場周辺で暮らしていた多くの民間人も犠牲となった≫

いずれにしろ、部隊は奉天へと移る。

奉天におけるクロパトキンの兵力は、32万人であった。

対する大山・児玉の日本軍は、25万人、

砲の数でも、ロシア軍1200門に日本軍990門、明らかにロシア軍優勢であった。

しかもクロパトキンには、 

「奉天以北には、一歩も退かず」

 

という文字通り不退転の決意があった。

有限実行もうはったりと言わせない  倉 周三         

日本軍の行動開始は2月25日と決まった。

作戦立案は総司令部・作戦主任参謀松川敏胤大佐で、

敵の右を突き、次いで左を突き、揺さぶっておいてから、

中央突破するというものであった。

阿吽の口で黄金糖をなめる  中岡千代美

一方のロシア軍はサハロフ参謀総長が、第一軍で先制し、

これに連携して、第二軍と第三軍が大攻勢をかけるという、

オーソドックスなものであった。

この作戦が敢行されていたら、日本軍は負けていた確立が高い。

しかし、クロパトキンはこの作戦には賛成せず、

「黒溝台」をもう一度攻めることに固執した。 

「ロシア軍の敗因は、もっぱらクロパトキンにある」

 

と言われても仕方がない。

水平線どんな色にも馴染めずに  和田洋子

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       奉天城

ロシア軍は、優勢であるにもかかわらず、

3月9日未明には、総退却が命じられた。

日本軍は、ここぞとばかり追撃をした。

なかでも野津軍の第六師団が、

その日の深夜に運河に渡り、右岸の敵陣地を夜襲、

10日朝には、毛家屯北方に進出した前衛部隊が、

その頂上からついに「奉天城」の勇姿を目にした。 

形の上では日本軍は勝った。

 

しかし、これが限界であった。

誰よりも児玉がそれをわかっていた。

納得の句ができたのは投函後  泉水冴子

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「司馬氏記」

《 「ロシアに対する勝ち目は、普通にやって四分六分というところである。

  よくやって五分々々、よほど作戦をうまくやれば六分四分」

  ということを開戦を決意したあと、他の者に洩らしたのは児玉自身であった。

  いまそれが成就した。

  日本軍が作戦能力において、圧倒的優位にたち、

  兵力の寡少をおぎなって、ようやく六分四分に漕ぎつけたいま、

  この好機をとらえて講和工作を進行しなければ、

  児玉としては、「今後も過去のように日本軍が常勝できるか」

  保証することができなかった。

密封のファイルに入れるナフタリン  オカダキキ

〈中略〉 

「帰ろう、東京の連中に戦いの深刻さを説き、鞭をふりあげてでも、

  連中を講和に走らせねばならぬ」

 

  児玉は思い立ったが、吉日という男で、

  あすにでもこの戦場からこっそり―味方にも知らせず―

  「掻き消えてやれ」 と決心した 》

ウツの実を食べてコンとが裏返る  斉藤和子

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