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川柳的逍遥 人の世の一家言
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入道雲背負って出奔する男  谷口 義



          「平親王将門」歌川国貞 画
駿馬に乗って陣頭に立つ将門の雄姿。その背後には、7人の影武者の姿
も描かれている。

 
 " その悲しみは  開かんとするめだたき花が
   その直前に萎るる如く  今にも光り輝かんとする月が
    思いがけず  雲間に隠るるごとし”
            平将門の悲劇の詩・『将門記ゟ』

坂東武者のレジェンド・平将門 
 「坂東」とは、平将門が支配した「東国」、現在の関東地方を指す。
そして「坂東武者」とは、将門にはじまる。
 思えば、将門は、故郷相馬から、東国の人々のために立ち上がり、
志半ばにして将門は、藤原秀郷の弓と平貞盛の剛力に打ち砕かれた。
天慶3年(940)2月14日夕刻、京の町に晒された将門の首は、
「カラカラと笑った」あと、故郷東国へ飛び去ったと伝えられ……。
 
 
  別に淋しくないの生き死にはひとり  靏田寿子


将門の地元茨木市坂東では、昭和35年7月「将門保存会」がつくられ、
子供たちのあいだでは、次のように語り、語り継がれている。
「将門さまはどんな人…」
「お百姓さんの味方となって戦ったお侍さん」
「戦争ですごい強い人」

 
目をこらせば笑っている将門の首

「斬られた私の五体はどこにあるのか、ここに来い 首をつないでもう
 一戦しよう」とも言った…と…伝わる。
 
<将門さまがカラカラと笑った、東国へふたたび帰ってくる>とは…、
<そしてもう一戦しよう>とは…何を意味していのだろう。
百姓衆は、将門さまは、自分たちのために戦ってくれた、のである。
戦いが終わっても将門さまは、東国を見つめている。
そして、われわれは、将門さまと同じ東国の魂を持つ者なのだ
<強くならなければいけない。手を組み、力をつけなければいけない。
 戦わなければならない>という、考えに行き着く。
(※因みに、東国とは今の関東地方で、相模・上総・下総・常陸・上野
  武蔵・下野・安房の坂東八国と呼ばれている地域を指す)


青い火がゆらりゆらりとついてくる  岡田幸男


やがて、彼らはまた、農場主は、自衛のために鎮守や寺を中心に結束し、
寄合で合議し、村掟をつくり、自治の勢いを強めた。
また共通の外敵に対し、時に10数ヵ村が広々と結束する場合があった。
これを一揆と呼んだ。このため農村はつねに武装していた。
その代表格は、地侍とよばれ、一国規模の大いなる存在を国人または
国衆と呼んだ。かれらは中央の武家(守護・地頭)ではなく土豪だった。
これが「坂東武者」とよばれる「東国武士団」である。


ジャングルジムのてっぺんにいるお月様  日下部敦世


それから何年何月すぎたことだろうか。
一コの組織として自立した武士団は、土地の拡張を考えるようになる。
人間の性とは悲しいもので、土地は領土という名称で、土地の分捕り
合戦をはじめた。強い武士団は、弱い武士団を組みしき、組織を拡張
していった。
だが、彼らもおバカではない、殴り合いばかりをやっているわけにも
いかない。そんな事を続けていたら、お互い傷だらけになってしまう。
そこで考えたのは、自分たちの土地を守ってくれる武家の棟梁を探し
傘下にはいることであった。乱世における「安全保障」である。
そのことで生まれた主と従は「ご恩と奉仕」の契約をもって結ばれた。


蛙に目貸した覚えはないけれど  雨森茂樹



         治承4年10月2日、頼朝軍、隅田川を渡り鎌倉へ


「鎌倉殿の13人」・ドラマを面白くみるために‐⑦


「富士川の戦」 頼朝第二戦


源頼朝御家人は主従関係にあるとはいえ、上に述べたように、
「御恩」「奉公」という対価的関係(双務契約)で結びついている。
つまり、挙兵当初の頼朝は、「味方はたったこれだけか、少ないのー」
と、嘆いていた状況で「石橋山の戦」に臨んだ。が敢え無く敗退した。
東国武士らの助勢がなければ、何もできないことを悟った戦であった。
一方、東国武士たちが、貴種である源氏(頼朝)を支援し、平家などと
の戦で勝ちをとれば、所領や報奨を貰うことを約束し、契約を交わした。
すなわち、お互いに利用し合う「利益と奉仕」の関係だった。
そこで兵数の必要性を痛感していた頼朝は、父・義朝以来の関東の源氏
勢力を呼び寄せ、「次は負けぬ」とリベンジののろしを挙げた。
(貴種=高貴な家柄の人)


揺さぶらないで先人が架けた橋  大久保眞澄


そして平家に二戦目を挑む頼朝は、和田義盛小四郎義時千葉常胤へ、
安達盛長上総広常のもとへ派遣した。
千葉常胤と上総広常は、又従兄弟で2人とも「保元の乱」「平治の乱」
において、義朝とその長兄・義平と共に戦った源氏方の郎党であった。
千葉常胤は、この時すでに60歳を越える長老であったが、頼朝の使者
和田義盛から、源氏に参戦を望まれると、即、快諾した。
常胤は300騎を率いて、頼朝リベンジの陣に加わり、義朝恩顧の武将
として、自ら戦場に赴き、34歳の若い頼朝を大いに助けた。


長生きしてねと言われる年になりました  奥山節子


ーーーーーー
    上総広常                佐藤浩市


一方、上総広常(かずさひろつね)は、横柄で傲慢で、頼朝とは性格的
に合わなそうな人物である。「平治の乱」の敗戦で一時、平家に属した。
が、平家の有力家人・伊藤忠清と対立し、清盛に「勘当された」という
経歴を持つ。此度、安達盛長に平家打倒に参戦を望まれた折は、平家が
広常の領土を侵略してきていたこともあり、頼朝と手を組んだ。
そして、治承4年9月19日に、頼朝と初対面をした。
数の上でも、強力な兵力を持つ広常は、「無礼な振る舞いが多く」他の
御家人に対しても「横暴・横柄」な男であった。
このようなことがあった。
<頼朝が三浦へ避暑に行った折、御家人たちが悉く下馬し、平伏する中、
広常は騎乗したまま会釈した。三浦義連にそれを注意される>と、
「公私共三代の間、そのような礼はとったことがない」と言ったという。
それでも広常が2万騎の大軍を率いて参陣したときは、頼朝は、腹はム
カムカだが<まずはよかったよかった>と、コッソリ胸を撫でおろした。


波風を立てずに生きて顔がない  西谷公造


頼朝が石橋山へ挙兵した際、
「私は累代の家人として、貴種再興のときに巡り合うことができた」と、
歓迎した三浦義明は、頼朝が最も頼みとした源氏累代の一族だ。
だが頼朝に会う前に、居城の衣笠城を平家に攻められ自害してしまった。
しかしその子・義澄が父の意志を継ぎ、一族を率いて積極的に平氏打倒
に加わった。
その他、小山朝政、下河辺行平、豊島清元、葛西清重父子らにも、参陣
するよう求め、頼朝軍は、3万余騎になっていた。
さらに甲斐国から、甲斐源氏の武田信義が平家打倒へ挙兵、駿河へ進軍
をはじめた。


カマキリがガッツポーズをしてみせる  倉永みちよ



      黄色‐源氏 ピンク‐平氏


十分すぎる兵力を得た源頼朝は、治承4年9月13日、安房国を出発。
その後、下総国府で千葉一族と合流。広常が2万の大軍を率いて合流し、
10月2日、太井・隅田の両河を越し、武蔵の国に入ると、足立遠元、
西清重が加わった。
さらに秩父氏一族の畠山重忠、河越重頼、江戸重長らも頼朝に従った。
『吾妻鏡』は「このとき頼朝軍は20万騎に膨らんだ」と記している。
吾妻鏡はどんなときも、鎌倉を大げさに扱うきらいがあり。
 
10月6日、父・義朝が本拠地とした鎌倉へ入った。
鎌倉は、天然の要塞という土地柄で、東西と北は山、南は相模湾という
地形だから、頼朝もそこを本拠地としたのである。
(このころ信濃の木曽義仲も、源氏の一族として兵を挙げた)


地の揺れにちょっと鳴き止む虫の声  山本万作
 

 ーーーーーー
     武田信義                八嶋智人
 
一方、平家方では、石橋山を制した大庭景親清盛「頼朝再度挙兵」
の報せを持って来たのは、9月も半ばを過ぎたころだった。
清盛は「すぐさま」に孫・平維盛を総大将として迎撃を命じた。が、
奢る平氏の兵たちは弛みきっていて、モチベーションは一向にあがらず、
時間の無駄遣いをして、追討隊の出発は、10月になってからであった。
10月13日にやっと維盛隊は駿河国に入った。
これを迎え撃つのが武田信義であった。
ここで信義は、維盛を挑発する。
 
 
拘って一日無駄にしてしまう  細見さちこ
 
 
挑発は、このような内容である。
「オーイ維盛よ、前々から一度会ってみたい思っていたが、なかなか
 その機会がなくて、しょんぼりしておったぞ。だが此度は、当方の
 勝利を見届けに来てくださって、まことにありがとう。
 感謝の思いで一杯なのだが、生憎ここは路が険しい。
 だから、富士山の麓での再会ということで、それまで命を大切にし
 ておいてくだされよ」
大将の維盛を馬鹿にするような信義の挑発に、激怒した維盛の重臣は、
 書面を届けた使者を殺してしまった。
使者を殺すなど、「あってはならぬ」ことであった。
このことで、弛んでいる平家の兵士たちは、信義の報復に怯え、動揺
し逃亡するものもいたという。


あほやけどあほと言われて腹を立て  藤河葉子


10月18日、頼朝軍、黄瀬川に着いた。
そこへ甲斐・信濃の源氏北条時政の2万騎が合流した。
10月20日、平氏は富士川西岸に、源氏は富士の加島に陣地を構え、
両軍は、富士川を挟んで睨みあった。
この夜半のことである。
平家軍の背後へ忍びよる武田信義の軍勢に、驚いた水鳥が一斉に飛び
立ったのだ。羽音は、源氏方の奇襲に聞こえるほど、凄いものだった。
もとより源氏の大軍を目の前にして、戦意も喪失している平氏の兵は、
水鳥の羽音にびびり、散りじりに逃走し、戦わずして、勝者は決して
しまった。
これには頼朝は大笑いした。近侍する小四郎義時もわらった。


奇跡ってがらがらポンにつくおまけ  前中知栄



 藤原秀衡 田中泯       源義経 菅田将暉 
 
 
「黄瀬川にて、もう一つの出来事」


「頼朝と義経、初体面」

そのころ、遠く離れた奥州の地で、一人旅立ちの準備をしている若者が
いた。 22歳の源義経である。
義経は「平治の乱」で、父・義朝が平氏に殺されると、身を隠した。
16歳の時、奥州藤原氏のもとに身を寄せ、父の敵、平氏打倒の機会を
狙っていた。
そこへ挙兵したと聞き、黄瀬川の宿で陣を張る頼朝のもとに、義経が駆
け付けたのであった。
幼い日に平氏に追われた兄弟が、「平氏打倒」という宿願のもとにはじ
めて対面を果たした。
「兄ちゃん」「九郎」と言葉を交わして、2人は手を取り合って涙し、
源氏再興を誓い合った。
しかし、義経が武蔵坊弁慶以下、引き連れてきた18人の配下の中に
佐藤兄弟の姿をみると、俄かに、頼朝は顔をゆがめた。
これが後に、「義経追討」の大きな原因になろうとは…、
義経は思いもしなかった。


うっすらと非のあるところから時雨  赤松ますみ

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