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川柳的逍遥 人の世の一家言
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〇と×どちらとっても不正解  前中一晃
 
 

            頼朝石橋山の戦い

 
豊富な文字がある日本だから「語呂合わせ」が生れる。
誰が始めた暗記術だか知らないが、歴史の年代を覚えて学校のテストに
立ち向かったものだ。
例えば、鎌倉幕府成立は「いいくに造ろう(1192)鎌倉幕府」と、
覚えた。ところが「いいくに」は、歴史家によって「いいはこ(118
5)」に変更されてしまった。これでは何のための暗記だったのかわか
らない。されど、性懲りもなく、続くこの時代の語呂合わせを記してお
こう。鎌倉幕府滅亡は「遺産散々(1333)」であり、この後、建武
の新政が「いざ見よ(い334)」後醍醐天皇主導の政治が始まる。
そして、「いとささや(1338)かに室町幕府」の誕生となる。


平凡過ぎないか口笛のホケキョ  雨森茂樹


「鎌倉殿の13人」ードラマを面白くみるために‐②
 
 
  ーー
    以仁王(もちひとおう)             以仁王と頼政            


「鎌倉幕府の成立」


治承4年(1180)5月の十五夜、三条高倉の御所で、以仁王は雲間
を洩れる月を静かに眺めていた。
そこへ、源頼政の使者があわただしく書状を届けてきた。披いて見ると、
「君(以仁)のご謀反はすでに露顕し、土佐に配流されることと決まり、
 やがて検非違使がお迎えに参ります。急ぎ御所を出られて、園城寺に
 お逃げなさいませ」
と書かれていた。
「御謀反すなわち、源氏をはじめてとする諸国の武士にあてて、
「平家追討」を命じる以仁王の令旨が出されて1ヵ月、令旨を伝達した
のは、平治の乱で敗北した源義明の末弟・行家であった。


天動説信じて武者の仁王立ち  太田のり子



  三条高倉の御所を襲った頼政の兵士


それが洩れて、ついに平清盛の耳に入り、討ち手が向けられたのである。
以仁王は、後白河法皇の皇子である。
かつて、弟の高倉天皇との皇位争いに敗れ、不遇の日々を送っていた。
高倉天皇の母・滋子(建春門院)は、清盛の妻・時子の妹であり、
天皇には、平氏が支持を加えていた。
平氏の圧迫もあってか、以仁王は親王にもなれなかったのである。


落武者のようにひっそり握り飯  上山堅坊
 
 
 
         源頼政の武勇
  「頭が猿、胴が狸、手足が虎、尾が蛇」という怪物「鵺」(ぬえ)を
めがけて頼政は、弓で射ちおとした。そこへ駆けつけた郎党・猪早太
(いのはやた)が獅子王(太刀)で留めを刺したという「頼政武勇伝」
がある。


治承3年(1179)11月、後白河法皇との対立を深めた平清盛は、
ついに武力によって、法皇の院政を停め、法皇を幽閉した。
そして、翌4年2月には高倉天皇は皇子・安徳天皇に譲位し、院政を行
うことになった。
 高倉新院は、清盛の女婿である。新帝安徳は、清盛の孫である。
高倉天皇の院政とは、名のみで、実質は、清盛の意のままである。
皇位争いに敗れて以来の多年の平氏への不満、そして父・後白河法皇
まで加えられた迫害、以仁王の怒りは、平氏打倒へと燃焼したのである。
頼政の密告に従い、以仁王が園城寺に奔った後、三条高倉の御所を襲っ
た撃ち手の大将は、奇妙にも頼政の養子・兼綱であった。
一週間後、頼政も園城寺に逃れたが、人々は以仁王を逃がした罪を恐れ
たからだろうと噂した。頼政が謀反の一味であることに気づいていなか
ったのである。それも道理である。
頼政は以仁王に誘われて、その企てに加担しただけであり。頼政に謀反
の動機はなかったのである。
園城寺内にも平氏方がおり、頼みがたいと見た以仁王や頼政は、奈良に
逃れようとした。しかし、追手のために途中で討たれ、平氏打倒の企て
も一旦はついえた。


すぐ吠える男や鯉の吹き流し  山中あきひこ
 


    挙兵の準備をする武士たち
 
 
「平治の乱」で伊豆に流された源頼朝は、今はその地の豪族・北条時政
の娘・政子を妻とし、平穏な日々を送っていた。
「以仁王の令旨」が頼朝のもとにもたらされたのは4月27日、
まだ都でも、以仁王の企ては発覚していなかった。
令旨を受け取っても頼朝は、直ちに動こうとはしなかった。
彼が東国の武士に書状を送り、挙兵の準備を始めたのは6月下旬であり、
令旨が届いてから2ヶ月もたっている。
以仁王を討った平氏が、令旨を受け取った人々の追討を企てていること
を知って、頼朝は、挙兵を決意した、といわれる。
しかし、頼朝を挙兵に導いた動機は、実はそれだけではない。


たっぷりと夢見る時間持っている  和田洋子


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    文覚                 文覚役


頼朝が挙兵したのは、文覚という僧の勧めによるのだと『平家物語』
伝える。
文覚は、神護寺の再興を志し、後白河法皇に荘園の寄進を強制したため
に伊豆に流され、頼朝と親しくなった。
法皇に流されてもなお、文覚は、法皇への敬愛を捨てなかった。
文覚は、法皇の信仰心の深さを知っており、その法皇による仏教の保護
を期待していたからである。
それだけに法皇を幽閉した平氏を文覚は許せず、頼朝に挙兵を勧めた。
頼朝は、挙兵のために法皇の院宣を求めた。
文覚は、当時、福原にいた法皇に連絡し、法皇の意中を頼朝に伝えた。
頼朝は、以仁王の令旨を得て挙兵したと称しているが、挙兵に踏み切っ
た直接の動機は、令旨を得たことではなく、その後に文覚を通じて法皇
の密勅を受けたことなのである。


染むらもあって人生おもしろい  津田照子
  
  
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             頼朝挙兵へ
 
 
8月、挙兵した頼朝は、まず山木兼隆を討った。
伊豆は頼政の知行国であったが、その敗死後は平時忠が知行し、平氏一
門の山木兼隆が、目代として現地で勢威をふるっていた。
次に、頼朝は軍を東に進めたが、相模の「石橋山の戦い」で敗れ、
海路安房に逃れて、再起を図り、房総半島を北進し、10月には鎌倉に
入った。
さらに、平氏の追討軍を富士川に破ったが、平氏を追って上洛するのを
やめ常陸の佐竹氏を討つなど、東国支配の安定に務めた。
11月には、御家人支配のために侍所を設け、12月には、頼朝の新邸
が完成してそこに移った。
今後1世紀半に亘り、武家政権の拠点となる「鎌倉」に入って以来、
この頃までに頼朝の政権は出来上がった。


武者の目がふくろうになり怯まない  村山浩吉


頼朝以仁王によって、東国支配を認められたと称し、その政権を正当
づけていた。以仁王の令旨には、
「天武天皇の旧儀を尋ね、王位推し取るの輩を追討し(「吾妻鏡」)
とあり、さらに、自身の即位の意志をも述べていた。
以仁王の挙兵は、かつて兄の天智天皇と対立した大海人皇子(天武天皇)
が、兄の死後、その大友皇子を討って皇位についた「壬申の乱」になぞ
らえられていた。
(以仁王は天武に、高倉上皇は天智に、安徳天皇は、大友に相当する)
以仁王は、高倉上皇安徳天皇を討って、皇位につく意志を示していた。
かつて皇位争いに敗れたことが、挙兵の動機になっていたのでる。
天皇や上皇を倒すことを標榜した以仁王の令旨が、頼朝の東国支配を正
当づけている限り、頼朝の政権と京都の朝廷との間に妥協の余地はない。
頼朝の政権は、単に政権というよりも、東国独立国家といった方が適切
である。頼朝が新邸に移った日、参集した311人の武士は、頼朝を
「東国の王」に推したという。
それは東国国家の「国王戴冠式」だったのである。


軽石を集めて踵を磨く  河村啓子



  木曽冠者義仲平家討ちへ右・義仲と左・馬上の巴御前


それから3年、寿永2年(1183)になって都では新しい事態が展開
した。頼朝に次いで、信濃で兵を挙げた源義仲が、平氏を都落ちをさせ
た末、上洛したのである。
都の義仲は後白河法皇と対立した。義仲勢が統制を欠き、粗暴な振る舞
いが多かったためだという。
しかし実は、ライバルである頼朝が法皇に働きかけ、義仲の立場を悪く
したのがより重要な原因なのである。
もともと頼朝は、法皇の密旨を受けて挙兵したのである。
高倉上皇はすでに没し、平氏が、安徳天皇を奉じて都落ちをした上は、
以仁王の令旨をふりかざす必要もないし、東国の独立を主張する意味も
ない。この年10月、宣旨が出され、頼朝は東国支配権を認められた。


頂上へ一直線の武者である  西澤知子


源氏の嫡流を自認する頼朝は、寿永2年10月、宣旨の適用範囲に義仲
の支配圏である北陸をも包含し、義仲を恐れ、頼朝の要求を認めなかっ
たが、法皇と頼朝との間で進められる、陰険な工作を憤った義仲は、法
皇への不信を強め、ついに法皇に攻撃を加えて幽閉した。
しかしこの結果、頼朝は弟の範頼・義経を派遣し、翌元暦元年(118
4)義仲を討たせた。
範頼・義経は、さらに当時福原にいた平氏を攻めて、これを屋島に追い、
文治元年(1185)には、屋島を攻略、壇ノ浦で平氏を滅亡させた。
そして、この日を「鎌倉幕府成立の日」とした。


アナコンダ連れて借金取り立てに  井上一筒


平氏の滅亡後、頼朝・義経兄弟の不和が顕著となった。
これには法皇が頼朝を牽制するために、義経を利用することもあずかっ
ていた。ついに義経は、法皇に求めて頼朝追討を命ずる宣旨を出させた。
しかし、宣旨に応ずる武士は少なく、義経は都を立ち去った。
頼朝は法皇が宣旨を出した責任を追及し、義経追捕と叛乱防止のために
守護・地頭の設置を求めるとともに、種々の「政治改革」を要求した。
政治改革の内容は、頼朝が推薦する10人の議奏公卿の合議による政治
を実現することである。とくに頼朝は、九条兼実を内覧に推薦した。
※ 内覧=天皇に奏上される文章を、天皇よりも先に内見する職務。


自分史を奔る一本の濁流  大野たけお


当時の摂政は、近衛基通であったが、頼朝は、法皇の意のままとなる基
通を嫌い、摂政と別に内覧を置くことを求めたのである。
このステップを置いて、結局、翌年には摂政が更迭され、兼実が摂政と
なった。頼朝が意図していたのは、兼実を始め、議奏公卿たちによって、
法皇の独裁をチェックすることであった。


風の門あけてください奔ります  吉松澄子



           奥州秀衡征伐


頼朝の追及を逃れた義経は、奥州の藤原秀衡(ひでひら)を頼った。
秀衡の没後、その子・泰衡に対する圧力は強まり、文治5年(1189)
泰衡はついに屈して義経を討った。
しかし、頼朝はみずから出兵して奥州藤原氏を滅ぼし、奥羽をも支配下
に入れた。
奥州藤原氏の滅亡は、歴史の大きな画期の到来を意味していた。


ジーンズの穴からディスる世の無情  川嶋 翔


健久元年(1190)頼朝ははじめて上洛し、法皇と対面した。
法皇が、義経に頼朝追討宣旨を与えた結果、頼朝との仲は、険悪化した
ものの、義経問題が解決した今、両者の対立は、著しく緩和されたので
あった。頼朝は法皇によって、日本国総追捕使の職務を確認され、
御家人を率いて、国家の軍事・警察を担当することになった。
「諸国守護」である。
日本全体を支配するのは、朝廷(院政)であり、その下で幕府が国家の
軍事・警察権を掌握するという体制が、ここに確立。
その頂点に、征夷大将軍・源頼朝が居るのである。


浅く酔いここから見える月が好き  山本昌乃

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