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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ネジ山は潰れて過去に戻れない  くんじろう


 
 
           鎌倉・源頼朝一代絵巻
京の貴族文化を嫌った頼朝は、富士の牧狩りなど、武士の文化を重んじた。


「鎌倉殿の13人」・ドラマを面白くみるために‐④
 

「ここに一冊の本がある」どこかで聞いたようなフレーズだぞ。
その本の題名は、永井路子著『はじめは駄馬の如く』である。
この本は、次のように始まる。
――ナンバー2になるために生まれてきたような男である。
その生き様の見事さゆえに、かえってその名もかすみがちの男。
その名は、北条義時。 鎌倉幕府の実力者だった。
しかし、もし、現代人があの世にインタビューに行き、
「ナンバー2になる秘訣を」
と、質問したとしても、彼は不愛想に、じろりと一瞥をくれただけで
ろくに返事もしないであろう。
そして彼は、腹の底でこう考えるに違いない。
「ははあ、この男こんなことを口にするようじゃ、到底、ナンバー2に
 なれんて。俺なんか若いころは、そうなりたいなんていう気配は、
 毛筋ほども見せなかったもんだ」――。


キミノコトバニ勝てないナンテハリネズミ 大内せつ子


――たしかにそうだ。オレガオレがと気負うような人間は、
ナンバー2には、不向きだ。 ここがナンバー2人間の極意である。
しかし、かりに義時がそう呟いたとしても、後の半分には訂正が必要だ。
ナンバー2を目指す気配を見せなかったのは、何もわざわざ、そうした
のではなくて当時の彼には、そんな可能性が全くなかったからである―。
<歴史をながめてみると、トップの陰で決して目立たないが、
 十分な実力を持つ、したたかな仕事師がいたことに気がつく>
と、いうことなのである。

♪♪♪~ ナンバーワンにならなくてもいい もともと特別なオンリーワン
この中で 誰が一番だなんて 争う事もしないで 
バケツの中 誇らしげに しゃんと 胸を張っている ♬ ♪ ♬ ♪
なんて数年前にヒットした歌がありましたが、
まさしく、義時は、はじめは、こんな男だったのだ。


ふところの深さを計る鯨尺  合田瑠美子
 
 
  ーーーーー
         大江広元


「大江広元の証言」
これは北条政子を中心にした13人の合議中のことである。
大江広元は、檜扇を床に叩きつけ、火に誘われ飛んできた羽虫を潰した。
「北条陸奥守殿は、相変わらずよな」
扇の先に感じた不快な感触に、広元は顔をしかめた。
評定の場で、誰よりも精彩を欠いていたのは、場を主宰する北条氏執権・
義時だった。
この時、兄の宗時、「石橋の戦い」で命を落としており、姉の政子
推薦でその気なくても、ナンバー1の地位になっている。
 かつて鎌倉を牛耳った北条時政の息子であり、これまで、有力御家人
を幾人も粛清し、鎌倉の臣下第一の座に登りつめた男である。
「世上、謀略の人だの、権勢に取りつかれた増上慢だ」との悪評に晒さ
れてはいるが、近しい広元からすれば、それらの評には、小首を傾げざ
るを得なかった。
なんというか、広元から見た義時は、茫洋とした平凡な男なのであった。


わたくしの臍に蠢くものひとつ  大内せつ子


そもそも、広元は、義元と初めて出会ったのが、
「いつのことだった」のか、まるで思い出すことが出来ないでいる。
広元が、頼朝に見いだされて鎌倉へ鞍替えしたのが、
元暦(1184ー85)の頃であったから、その頃に、顔を合わせている
はずだが……その時のことを思い出すことが、今もって出来ずにいる。
坂東武者の中にあって、義時は埋没していた。
「武芸に優れているという誉れも聞かぬ。
 さりとて、無能とも言挙げされぬ。
 ただ、家子の1人として影のように頼朝に付き従っている……」
いわゆる、「茫洋な男」なのである。


あんな奴の吐いた空気を吸うている  居谷真理子


それは、父・時政を失脚させ、鎌倉第一の権勢人(鎌倉殿)となっても
変わらなかった。
むろん、臣下第一の立場であるゆえ、幾度となく、決断を迫られる場面
があった。
だが、義時は、即断即決で物事を決めることは、一度としてなかった。
広元はずっと、鎌倉殿・坂東武者の治める鎌倉を見つめ続けてきた。
「元服してこのかた、涙したことがない」と、豪語し、坂東武者たちの
煮えたぎるような熱情にほだされることもなく、唯、日々粛々と鎌倉の
なかで、与えられた己の役割を果たしてきた。
己が手塩をかけて育ててきた「鎌倉殿」を頂点とする武士団への愛着は、
人一倍のものなのだ。……だから…もどかしいのである。
 (時政追放=元久2年(1205)7月、お牧の方事件)
 
  これも一計寝たふり死んだふり  小林すみえ


だが、このことは我々を勇気づける。
ナンバー2どころかナンバー100番めであったにしても、
生き方によっては、思いがけない未来が開けてくるということだから。
つまり、若き日の彼は、「駄馬」だったのだ。
間違っても、ダービーなどにはお呼びでない、田舎馬にすぎなかった。


生き方の違いと思う花の下  津田照子
 

 
冨士川の戦に勝利した義時たちの前に引き出される、大庭平三郎景親
景親は、かつて「石橋山の戦」で散々頼朝を苦しめた人物。


それでは北条義時の物語のはじまりはじまり――。
義時が、生れたのは、長寛元年(1163)父は伊豆の片田舎の小豪族・
北条時政で、母は伊東祐親の娘・八重姫(これはおかしい?)とある。
当時、都では、清盛が、いよいよ出世の階段に足をかけたところである。
が、伊豆の時政は、平家政権のそばにも寄れない。
義時は、4子として生まれたが、長兄の三郎宗時と義時の間の兄が早逝
したため次男となっている。
すなわちここで、押し上げられるように、義時は、北条家ナンバー2に
なっている。
何というか、義時のために、お約束の椅子が用意されていたようにだ。


出来立ての夕日を捩じる貨物船  日下部敦世


実は、若いころ義時は、長い間、北条姓ではなく「江間四郎義時」とか
「江間小四郎義時」と名乗っていた。(『吾妻鏡』『豆州志稿』)
因みに、治承5年(1181)4月、義時が、頼朝の寝所警護11名の
一人に選ばれた時の呼名は「江間四郎」ある。

これはどういうことなのか?  
「江間」とは、誰かである。
兄・宗時が戦没した後、義時は当然、自分が後継者になると思っていた。
しかし、父・時政の考えは、違っていた。
時政後妻の牧の方が生んだ政範「北条本家」とし、義時は、ナンバー
2のまま、領地の「江間」を名乗らせ、「分家扱い」にしたのである。
悪妻・牧の方の力が、時政をしてそうさせたのか、時政が掴みどころの
ない義時が、頼りなく思って、そうしたことなのか。


血筋とはしつこいものでありました  谷口 義





さて、頼朝は、茫洋とした義時が気に入っていたらしい。
その頼朝が、配流の人として、北条家に移住してきたのは、安元元年
(1175)頼朝が25歳、義時13歳の時である。
ナンバー2として、気楽で責任もなく、凡々と生を貪っている義時は、
頼朝の世話役をまかされた。
頼朝は流人の身でも、正統な源氏の頭領だ。伊豆は平氏派が多い地域
だから大変なのだが、野心家の時政は、穏やかで育ちのいい頼朝を、
「佐殿・佐さま」と呼び、涎をたらしながら上げ膳据え膳で歓待した。
娘の政子は、この2年後に頼朝の正妻に嫁がせている。
時政の将来を見据えた貪欲な野望である。
そして義時は、20年以上、頼朝のお側で務めることになる。


忖度かどうかを計る尿検査  村山浩吉





「頼朝のいろ好み」
「英雄色を好む」という喩えがあるが、頼朝もその道にかけては、大変
なものであった。
頼朝の正妻は、北条時政の娘・政子であるが、政子と呼ばれる以前、
彼は、伊豆の豪族・伊藤祐親の三女・八重姫といい仲になり、子を孕ま
せてしまう。やがて千鶴丸を生む。
大番所の仕事を終え、伊東の邸へ帰ってきた祐親は、これを知って大激
怒をした。平家の怒りを恐れ、千鶴丸を松川に沈めて殺害、さらに頼朝
の殺害を図ったのだ。頼朝の乳母・比企尼の三女を妻としていた次男の
伊東祐清が、頼朝に知らせ、頼朝は、夜間馬に乗って、熱海の伊豆山神
社に逃げ込み、時政の館に匿われて事なきを得たという一事がある。
一方、八重姫は真珠ヶ淵で入水自殺をしてしまう。
 さても気楽な人間というものは、時には、損な役回りを賜るもので、
頼朝の唯一庇護者である小四郎義時は、敬愛する頼朝から頼まれたのだ
ろうか、「千鶴丸の生みの親とか、又、育て親を任されてしまう」と、
『吾妻鏡』『豆洲志稿』が描き遺している。
大河ドラマでは、八重は義時の初恋の人とか、頼朝に心を寄せる女性と
して出てくるが…結末は、どう描くのだろうかー興味が尽きない。

 
 
  どしゃぶり決死隊と呼んであげよう  井上恵津子



        伊東八重姫入水の地

ここに罹れている文章は、次の通り。
源頼朝との契りの一子「千鶴丸」を源平相剋
のいけにえにされた伊藤祐親の四女「八重姫」
悶々日を送る中、遂に意を決し
治承四年七月十六日侍女六人と共に伊東竹の
内の別館を抜け出し、亀石峠の難路に、はや
る心を静めながら頼朝の身をかくす北条時政
館の門をたたきました。然し、既に政子結ば
れていることを知る邸の門衛は冷たく、幽閉
された身の我が館に帰る術もない八重姫は、
あわれ真珠ヶ淵の渦巻く流れに、悲愁の若き
「いのち」を断ってしまいました。
悠久八百年、狩野川は幾度か流れを変え、今
「古川」の小さな流れに閉ざされた悲恋の
しのび音を偲ばせてくれます。


ショックねと同情されてそれっきり  掛川徹明


「いよいよ義時にとっての歴史が動き出します」
次への年譜
治承4年(1180) 以仁王平家打倒の令旨発布。
頼朝伊豆で挙兵、源平合戦開幕(石橋山の戦い )
義時、頼朝挙兵に父・時政と共に従う。
気楽にも清盛、福原遷都。(冨士川の戦い)(10月)


義時が18歳の折、頼朝が伊豆で旗揚げした。
義時の成長にあわせるごとく高度成長を遂げた。
平家政権にも息切れの気配が濃厚になってきた。
その機会を狙っての、頼朝の旗揚げではあったが、
正直のところ頼朝には、手勢もなければ財力もない。
周知のごとく義時の姉の政子が、彼の妻になっている関係で、
北条氏がまずは「親衛隊」になったが、その武力は貧弱そのもの。

これが歴史の舞台を大転換させる起爆力になろうとは、
彼ら自身も、考えていなかったのではあるまいか…。つづく。


いつの日か空を飛びたい二枚貝  三村一子                          

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