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川柳的逍遥 人の世の一家言
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星々の声が聞こえる像の耳  くんじろう
  


       船団の左舳先に安徳天皇を抱いt二位尼時子
 
壇ノ浦における平氏滅亡のありさまは、実に悲壮であった。
「浪の下にも都がございます」と、言って、清盛の妻・二位尼時子が、
8歳の安徳天皇を抱きしめ瀬戸の海に入水した。
建礼門院徳子は、石や硯を懐に入れて身を投げたが、沈み切らないうち
に引き上げられた。 
平氏一門の死は、さらに劇的である。

捕虜となった総大将・宗盛とその子・清宗は醜態をさらしたが、知盛は、
二領の鎧を着重ねて海底に沈み、恒盛・教盛・資盛・有盛らは、女人と
もども手をつなぎ合い、あるいは、錨を抱いて入水していった。
能登守教経は、矢種を射尽くした後、左右の手に持った大太刀と大大刀
で無数の敵を倒した。ついで義経を探し回ったすえに逃げられると、
30人力の大剛といわれた安芸太郎実光と、同じく太刀で知られた弟の
次郎の2人を両脇にかかえ「お前たち冥途の山の供をせよ」
と、言って、海に飛び込んで果てた。 (『源平盛衰記』)



    安徳天皇8歳
 
 
天国は死ぬ心配がありません  寺川弘一


「鎌倉殿の13人」・ドラマを面白くみるために‐⑥


「平家滅亡への道順」



          富士川の戦 
水鳥の羽音に右往左往する平家方・兵士たち



治承4年(1180)10月20日、平氏の東征軍と、頼朝・甲斐源氏
武田信義の連合軍とが、冨士川を隔てて対峙した。
源平合戦の開幕である。時政義時もこの合戦に出陣していた。
西岸の平氏軍は4万数千騎、対する源氏軍は5万騎、両軍の兵力に大差
はなかった。だが平氏軍の士気はあがらなかった。
平氏の地盤である西日本は、数年来の飢饉によって、世相が動揺してい
ただけだなく、京出発の直前に総大将・維盛と参謀長の平忠清とが喧嘩
をし、出発が遅れたということもあり、全軍の統率を欠いていた。
これに対して源氏軍は、武田信義が駿河国の目代・橘遠茂を撃破した勝
ち運に乗っている。将兵の闘志はみなぎっていた。


指揮棒のねじれに誰も気がつかず  原 洋志


その日の夜ふけのことである。源氏軍の武田信義が、一隊を密かに敵の
後方にまわし、奇襲をかけようとした。
そのとき意外な事件が起こった。
「ん、何だか騒がしいな……?」
「何か策があるようにも見えないが……」
武田信義の軍勢が、夜襲をかけようと平家軍の背後へ回り込もうとして
いたところ、うっかり、冨士川に集まっていた水鳥を驚かせてしまい、
驚いた水鳥の群れが一斉に飛び立ったのである。
「すわっ、敵襲だぁー!」
「わぁ、えらいこっちゃー」なんで大阪弁やねん)
水鳥の羽音が、大軍が襲い掛かるように聞こえたので、平氏の兵は驚き
慌てた。平氏の陣中は大混乱となった。
「あかん あかん…もうあかん」
切羽詰まった状況は、大阪弁のほうがよく伝わる。
「ははは!水鳥の羽音に恐れをなして逃げ出しおるわ!」
一人の恐怖が10人に伝わり、それがま100人に伝わり……
そして投降者が続出した。勝敗は戦わずして決した。
維盛が帰京した際、供はわずか10騎であった。
                 (『平家物語』・『吾妻鏡』)


脇道に逸れて出会った福の神  高浜広川


水鳥の羽音の珍事から4ヶ月のちの治承5年2月、源氏との激しい戦い
の最中、清盛は熱病に倒れた。
平氏政権を打ち立てた2年後のことである。
その2年の間に、次々と起こる凶事に清盛の神経は、疲れ果てていた。
そんなところへ、頼朝「平氏打倒」ののろしをを掲げ、東国で挙兵し
たというのである。清盛の神経をさらに逆なでしたのである。
頼朝は、かつて清盛が「命だけは」と助けた人物であった。
頼朝をはじめとする源氏の軍勢は、各地で平氏を打ち負かし、
京へと迫ってくる。さすがの清盛も、やむなく福原の都を京に戻した。
そして、あくる月、怒りが高じた清盛は、64年の生涯を閉じた。
死の間際、清盛はこう言い残したという。
「頼朝が首をはね、わが墓の前にかくべし」


独裁者の二つの耳は飾りもの  穐山常男


 
   美談武者八景 鶴岡の暮雪 月岡芳年


「小四郎、本性をちょっと出し」

平家との壇ノ浦決戦が迫って来た頃、頼朝は弟・範頼を豊後へ派遣した。
平家の背後を扼(やく)するためである。
頼朝は範頼に小四郎義時を付けた。
「それがしが先陣を承ります」
この以前の「富士川の戦」に勝利したのち、有力御家人の師弟が多数い
る中から頼朝は、「寝所近辺祇候衆」の筆頭に小四郎を選んだ。
小四郎は、頼朝に深く信頼されていることへ、飛び跳ねて嬉しかった。
だから、自ずと張り切ってしまのである。
小四郎の武勇は期待するほどに、聞こえて来ないが、範頼軍は少弐種直
との戦いに勝ち、豊後国を制圧した。


朝一番ほうれい線をもみほぐす  合田瑠美子


小四郎義時は、鎌倉幕府の御家人の筆頭・北条時政の子であり、
頼朝の義弟でもあり、頼朝から寵愛される側近でもある。
しかし、小四郎は、そのことを口にしたことはなく、
その事実を有利に利用したこともない。
頼朝は、心安んじて小四郎に深い信頼を抱くことができた。
かつてこんなことがあった。
寿永元年(1182)正月。時政は頼朝に無断で伊豆へ帰ってしまった。
頼朝の「女性関係の拗(こじ)れ」から時政は、娘の政子を思いやって、
鎌倉を去ったのだ。だが
「小四郎は、父と行動をともにしないだろう」
と、頼朝は考えた。
なぜなら、「小四郎は、穏便の存念(思慮分別)あるもの」と、
頼朝は信じたからである。


人類の中から君にぶつかった  中前棋人


頼朝の思い通り、小四郎は鎌倉を動かなかった。
父や姉の私的な不満には自若として動かず、公私を混同して、
進退を誤ることはなかった。
小四郎は武勇の将ではない。
巧みに馬を駆り、槍を操り、太刀も遣う。
太刀などは、相当の遣い手なのだが、
帷幕(いばく)にあってこそ、小四郎は本領を発揮する。
野戦の指揮官ではなく、軍略・政略に資質があるもののふである。
小四郎のその冷静さ、割り切りかた、計算高さは後年の義時の冷徹の
一面を窺わせる。
頼朝についても同じことが言える。
その点でも、頼朝は小四郎に親近感を抱き、小四郎の考えていることも
わかった。


あだ名は「ぬー」です ぬうっとしています 高野末次


ーーーーーー
   丹後局(頼朝の寵愛を受けた)         亀の前(江口のりこ)


 「頼朝、女性関係の拗れ」とは

伊豆の豪族・伊藤祐親の娘・八重を自死にやったことにも懲りず、
頼朝の色好みは収まらず、他の女性に手をつけ、このために妻の
政子を怒らせたことが何度もある。
「石橋山の敗戦」後の逃走中のことである。
亀の前という女性を寵愛し、そのまま彼女を小中太光家という者の小坪
の家に匿い、これを知った政子が、小坪の家を壊させ、鎌倉から永久追
放した事件がある。
また新田義重の娘で、かつては頼朝の長兄にあたる悪源太義平の妻であ
った後家さんに目をつけ、ラブレターをやって口説き落としにかけた。
政子は、これを邪魔して、彼女を他家へ嫁に出してしまった義重を勘当
したこともあった。この逸話へ、こんな詠史川柳がある。
「佐殿は ぞっこん後家に 呑み込まれ」
ともかく頼朝の浮名は、死ぬ数年前まで続いたという。病的なのである。
今なら、さしずめ週刊誌お得意先のゴシップ本舗であろうか。


淋しさをなぞった様に紙魚奔る  米山明日歌
 


   「倶利伽羅峠(くりかっらとうげ)の戦」 火牛の計
角に火がついた怒涛の牛が維盛の本陣を襲う図



「清盛の死を早めたもう一つの戦」

寿永2年(1183)5月の「倶利伽羅峠の戦い」である。
「富士川の戦い」で、戦わずして敗退した平家の大将は平維盛。
源氏方の大将は、木曽義仲四天王の1人今井四郎兼平
維盛方5万、兼平方5千。
当時の戦は、兵の数の多さが勝敗を分ける。
数では断然、平家のもの。目を瞑っていても勝てる戦である、ものを…。
富士川の戦の羽音敗戦の始末に似たところがある。
兼平が義仲の本陣へ敵方の様子を報告に来る。
「殿、敵は我が軍の20倍ですぞ。とても勝ち目は……」
義仲は沈思した。しばらくして、
「そうだ、戦国時代の中国に、よい見本があるではないか」
と、義仲は思いついたようにその作戦を披露した。


選択肢増えると心かるくなる  津田照子


それは、紀元前3世紀に斉(せい)という国の田単(でんたん)が、
燕(えん) の軍に対して用いた戦術だ。
「千頭余の牛の尾っぽに、油にひたした葦をくくりつけ、それに火をつ
けて敵陣へと走り込ませ、敵軍を大混乱に陥れ、戦いに勝利したという
伝えがある。それだ! それをやろう」
木曽の山猿が、このような知識をどこで知ったか、いささか疑問だが、
平野では人数が勝敗に大きく関係するが、山野ではかえって人数が多い
 と邪魔になる。
ことの次第によっての、パニックを引き起こす狙いであった。


縄になり青大将は木に登る  蔦清五郎


「時は待たず」平氏軍が寝静まった夜半、義仲軍は、約400頭の牛の
角に松明をくくり付け、野営している敵陣へとなだれ込ませた。
暴れ狂う牛達の突然の襲来に、平氏軍は予想通り大パニックをきたした。
その機に乗じて、義仲の兵が怒涛の攻撃をかけてきたから、5万の兵は
てんやわんや、慌て戸惑い、敵に背をみせて、逃げる逃げる…。
だが、その先には、倶利伽羅峠の断崖が待ち受けていた。
崖を目の前にしても、後ろから押されておして、平氏の武将や兵らは次
々に崖下へ転落した。谷底は死者の山。
今は「地獄谷」の名のある観光地だが、「覗くと誘い込まれます、危険」
の看板があがっている。
 
 
常識も性善説も血祭りに  得能義孝


この「倶利伽羅峠の戦」で、多大な犠牲を受け、ボロボロになって平氏
は京へと引き上げた。辛うじて生き延びた平維盛も、大ショックを抱え
京へ戻って来たものの、この無残な敗北により、平氏は弱体化が加速し、
体制を立て直すことなく、京を離れ、西へ西へと落ちた。
一方、世にいう「火牛の計」をもって勝利をものにした義仲は、風を肩
で切り、平氏と入れ替わり、念願の上洛を果たした。


まず今日の息を正しく吐いてみる  中野六助



清盛が行った埋め立ての様子を伝える「経ヶ島縁起」

風が吹き、波が荒れる中、積み上げた石が悉く押し流されてしまう様が
描かれている。清盛の側近は、海の神を鎮めるため「人柱を立てよう」
と進言した、が、清盛は石の一つ一つに経文を刻み、それを積み上げる
とで荒海を鎮めた、と伝えられる。


清盛の死から4年後の元暦2年(1185)3月。
平氏は、長門国赤間関壇ノ浦を選び、源義経率いる源氏と、最後の戦い
に臨んだ。海戦は平氏の得意とするところからである。
源氏側は、水軍800艘、平氏側は500艘。戦力は源氏が有利だが、
平氏は1日に何度も変わる干満と潮流を利用し、戦いを有利に進めた。
しかし、源氏は不利な状況を耐え、長期戦に持ち込むことで、徐々に
状況が変化した。時間の経過とともに、潮の流れが逆となり、一転、
平氏に不利な向かい潮となった。
そして最後に勝敗を決めたのは、熊野や瀬戸内の水軍が義経に加勢した
ことであった。当時のぶしの戦いには「勝ち馬に乗る」という非情な鉄
則がある。乱世を生き抜いていく…処世術である。
清盛が台頭した「平治の乱」で、真っ先に馳せ参じた熊野の水軍が心変
わりしたのも、清盛のいない平氏に「勝つのはどっちか?」を判断した
結果があった。
                           つづく


耳鳴りが止んだ噴水が止まった  佐藤正昭

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