ふくらんだ封筒微熱を帯びている 三村舞
龍馬が、生涯にわたって大きな影響を受けた人物に、3歳上の姉・乙女がいる。
母親の幸が、龍馬をうんだころには体調をくずしていたため、
龍馬はいつも、姉の乙女と一緒にいたし、
母親が亡くなってからは、乙女が、母親代わりをつとめた。
乙女は一説に、身長5尺7寸(約173cm)、体重30貫(約112kg)といわれ、
「坂本の仁王様」 と仇名され、剣術、馬術、弓術、水練を得意としていた。
龍馬とは、姉弟というより、兄弟のようだったという。
文武両道にすぐれ、男勝りだった乙女は、年ごろになると、
武士の妻になりたいと思うようになった。
しかし、理想が、自分より剣術にすぐれたお武家様ということ、
また巨体にしてお転婆ということもあって、相手がなかなか見つからず、
「一生独り身を通して、龍馬の世話をする」
という心境に傾きつつあった。
手塩にかけて育てた愛は渇かない 荻野浩子
龍馬も、こんな快活な姉が大好きであった。
龍馬の性格の半分は、
この姉の影響を受けていると言っても過言ではないだろう。
あっけらかんとした性格も、ユーモアのセンスも姉ゆずりだ。
尊敬する姉だから、離れた土地で何か新しい出来事があると、
たいてい姉・乙女に手紙で知らせた。
勝麟太郎に初めて対面し、弟子になったことも喜色満面に報告をしている。
観音の眼差し迷い抱きとめる 三村一子
「脱藩後初めて、三歳年上の姉・乙女宛ての手紙」
”坂本乙女宛 文久三年(1863)三月二十日”
『扠も扠も 人間の一世は、がてんの行ぬは元よりの事、
うんのわるいものは、ふろよりいでんとして、きんたまをつめわりて、死ぬるものもあり。
夫とくらべて私などは、うんがつよく、なにほど死ぬるばへでゝも、しなれず、
じぶんでしのふと思ふても、又いきねばならん事になり、
今にては、日本第一の人物・勝憐太郎殿という人に、でしになり、
日々兼而思付所を せいといたしおり申候。
其故に、私、年四十歳になるころまでは、うちにはかへらんよふに、いたし申つもりにて、
あにさんにもそふだんいたし候所、このごろはおゝきに御きげんよろしくなり、
そのおゆるしがいで申候。
国のため、天下のため、ちからおつくしおり申候。
どふぞ おんよろこびねがいあげ、かしこ。
三月廿日 龍 乙様
御つきあいの人にも、極御心安き人には内掌御見せ、かしこ。』
顔上げて龍馬は明日を凝視する 嶋澤喜八郎
『訳』―
≪さてもさても人間の一生は、合点がいかないのは、当然のことで、
運の悪い人は風呂から出ようとして、キンタマを割って死ぬこともある。
それと比べると私などは運が強く、いくら死ぬような場所へ行っても死なず、
自分で死のうと思っても、また生きなければならなくなり、
今では、日本第一の人物勝麟太郎殿という人の、弟子になり、
日々兼がね思い付いていたところ、(海軍のこと)に精出しています。
ですから、四十歳になる頃までは、うちには帰らないつもりで、
兄さん(権平)にも相談したところ、この頃は大変ご機嫌が良く、
そのことについてもお許しが出ました。
国のため、天下のために力を尽くしています。
どうぞお喜び下さい。さようなら。
三月二十日 龍 乙女様
おつきあいのある人のなかでも、特に心安い人には、内緒で見せてもいいですよ。
さようなら。
写メールでこの涼風を送ります 前田絢子
「一生独り身を通して、龍馬の世話をする」
というように、龍馬一辺倒になって、
結婚を考えない乙女を、心配した父親代わりの兄・権平は、
自分の友人で、独身だった山内家御典医の岡上樹庵との縁談をすすめ、
20歳近くも年上の医者へ嫁がせた。
その後、男女ふたりの子供をもうけるが、
家風の違いや夫の暴力、浮気などが原因となって、ふたりの子供を残し、
数年で実家に戻ることとなる。
丸木橋凌ぐと吊り橋に遭った 有田晴子
そんなこともあり、
乙女は、国事に奔走する龍馬を、手紙などで励ましつづけた。
おまけに、龍馬を通して、政治への関心が高まったようで、
一度、龍馬に、
「藩を出て、広い世界に雄飛したい」 という気持ちを、書き送ったことがある。
これに龍馬は大あわて。
「実に龍馬の名を(と)言ものハ、もはや諸国の人々知らぬものなし。
その姉が、ふじゆう(不自由)おして出て来たち云てハ、天下の人にたいしてはずかしく」
とまじめに返事を書いたこともあったという。
鳥になる朝に減量間に合った 井上一筒
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