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川柳的逍遥 人の世の一家言
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幸せのかたち他人と比べない  吉道あかね

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横井小楠を中心に海舟・龍馬ら幕末の英雄を顕彰した維新群像

「海軍操練所」

勝海舟は、攘夷論を一種の危険思想と考え、

欧米列強の軍事力に対抗するには、

国家規模で、西洋式海軍を創設することが必要だと考えていた。

そして、その人材育成のために、航海術を学ぶ「操練所」を開設したいとも思っていた。

そんな海舟にチャンスがめぐってきたのは、文久3年(1863)4月23日のこと。

その日、将軍・家茂が順動丸に乗り込み、大阪湾岸の警備状況を視察。

その後、海舟ら数人とボートに乗り移り、神戸へ向かったのである。

海舟はそのチャンスを逃さず、

家茂に、”海軍操練所”の必要性を訴え、その設立を直談判した。

すると、家茂は、操練所の設立を即断した。

いまのわたしどこに触られても笑う  前田咲二 

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  神戸海軍操練所跡 
       

翌24日には、幕府は、海舟を「御取建掛」に任命するとともに、

設立までの間、海舟に「海軍塾」を開くことを許可した。

そして、海軍士官の養成機関である、「神戸海軍操練所」が創設される。

その夢は大きく前進したが、

それには、彼の一番弟子である龍馬の活躍も大きい。

この頃、龍馬もまた、海舟の海軍構想に、自らの夢を重ね合わせ、

その建設の資金集めに奔走した。

開けるたびお金が増えている財布  井上一筒

幕府から、年間3000両の資金を与えられていたが、

訓練所設備の建設や軍艦の購入費など、金はいくらあっても足りない。

そこで龍馬が目をつけたのが、経済改革に成功して蓄えも潤沢だった福井藩。

藩主の松平春嶽に直談判して、5000両の資金供与を約束させるあたり、

のちにユニオン号事件の時にみせた、

タフ・ネゴシエイター(交渉人)の片鱗も垣間見られる。

そんな龍馬の活躍もあって、

2400坪の敷地に、訓練設備や4500人の塾生を収容する寮などが、完成し、

文久3年(1863)6月、神戸海軍操練所は完成した。

なけなしの一ドルかけるラスベガス  楠本晃朗

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海舟は、訓練生の塾頭に、龍馬を指名している。

幕府の士官養成機関で、氏素性知れぬ浪人者が、

塾頭になるなど前例がない。

慣例や常識など気にかけぬあたり、さすがに海舟は龍馬の師匠である。

また、塾生の募集に際しても、この師弟コンビ”非常識”は発揮され、

幕臣だけにこだわらず、広く門戸は開放された。

塾頭の龍馬が、脱藩浪人だけに、

土佐藩を中心とした脱藩浪人がこぞって参加する。

流れ星のひとつを横で受け止める  山口ろっぱ

はたしてまともな海軍士官が養成できるかどうか?

不安もあったが龍馬と海舟の夢は実現した。

しかし、希望あふれる時期だったが、幕府内に敵は多い。

「まるで過激派の巣窟ではないか!」

常識ある多くの幕府官僚たちは、海軍操練所を危険視するようになる。

操練所は、反対派の圧力で、翌年には閉鎖され、

海舟も海軍奉行を罷免されて、蟄居させられてしまう。

同時に龍馬は夢とともに、海舟という大きな後ろ盾を失って、

絶頂から一気に、失意の淵にたたき落とされるのである・・・。

食べものと空気ときどき仕分けミス  ふじのひろし

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「龍馬伝」・第17話‐「怪物、容堂」

勝麟太郎(武田鉄矢)の弟子となった龍馬(福山雅治)は、

ジョン万次郎(トータス松本)から、アメリカの大統領制について話を聞く。

勝は龍馬とともに人材を集め、

海軍塾を開き、日本の海軍を作ろうと計画していた。

龍馬は千葉道場に戻り、

佐那(貫地谷しほり)重太郎(渡辺いっけい)に、

自分の生きる道を見つけたと話す。

奇妙なほど素直になれる友がいる  上山堅坊

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京に戻った武市半平太(大森南朋)は、

慶喜(田中哲司)が上洛した時に、

慶喜に会えるように、「身分を引き上げてほしい」と、

三条卿(池内万作)に願い出る。

勝は、龍馬を連れて各藩の屋敷を訪ね、

海軍塾への人材提供を頼みこむ。

さらに、勝は土佐藩の前藩主・山内容堂(近藤正臣)の屋敷に龍馬を連れて行く。

勝は、土佐藩を脱藩した者たちの罪を免じてほしいと願い出るが、

容堂は許さない。
 
辛口の笑顔でボスは引き締める  三浦憩

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そのころ、弥太郎(香川照之)は、材木を仕入れて一儲けを狙っていた。

龍馬は、神戸に海軍塾をつくるために江戸を離れることとなり、

千葉家に別れの挨拶に行く。

佐那は涙をこらえて龍馬を見送り、生涯龍馬だけを思い続けようと心に誓う。

龍馬は、近藤長次郎(大泉洋)とともに、

江戸から大坂へと向かった。

生涯を赤い手帳と旅ガラス  紙屋クミエ

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横井小楠(1809-1869)

「豆辞典」

小楠は、熊本藩の儒学者。

鎖国体制の脱却と、幕政改革の必然性を説いた近代思考の持ち主。

橋本左内とも友人であり、その縁から松平春嶽の政治顧問となり、

福井藩の藩政改革にも加わる。

龍馬が春嶽と面談して、

「神戸海軍操練所創設資金」
を提供してもらえたのも、

彼のサポートによるところが、大きかったという。

明治新政府でも参与として働いたが、

明治2年(1869)京で暗殺される。

玄関から広がっていく日本地図  松谷大気   

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