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川柳的逍遥 人の世の一家言
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フィクションの日記に鍵はいりません 内藤光枝

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両手を懐に隠し、格好よく龍馬のポーズを決める福山雅治

衣装は和服にブーツ、”右手を懐に入れて” 威風堂々とみせる。

龍馬が、慶応3年(1867)11月15日に、近江屋で暗殺されてから、

まだ150年も経っていないのに、

龍馬について分かっていない事がいっぱいある。

例えば、「龍馬」、「竜馬」か? どう違うのか?

「リョウマ」なのか?、「リュウマ」なのか

カニの奴絶対にチョキワッハッハ  吉川 幸

龍馬自身は、たびたび変名を使っている。

姉・乙女への手紙では、「西郷伊三郎」

’馬関(下関)商社’を設立(1867)したときは、「才谷梅太郎」 

同じ年サムライ仲間への手紙では、「高坂龍次郎」

また、1867年4月寺田屋へ宛てた手紙では、

’大浜濤次郎’(とうじろう)事’才谷梅太郎’事’取巻抜六’』 と署名している。

”取巻抜六”とは、寺田屋遭難事件で、

多数の捕り方に取り巻かれながらも脱出したことを、

龍馬らしいユーモアで、名前にしたものである。

長生きのためにプラグは抜いている  いわさき妖子       

福山龍馬がなぜ懐手なのだろう?

答は、坂本龍馬がそのようなポーズをしていたから・・・、

忠実に倣っただけと簡単なのだが・・・、

実は、本物の龍馬が、手を懐に入れているのには、理由があった。

もしもからついにまで抱く寒たまご  山本早苗

上野彦馬という人が、長崎で写真館を開いた。

幕末の志士を名乗る人たちが、彼のカメラに収まった。

当時は、写真があまりにも写実的であったために、

自分の姿をレンズに通すと、命まで吸い取られるという、迷信がはびこり、

敬遠された写真撮影であった。

しかし、命知らずの志士たちは、銅版に自分の姿を残し遺影にしたのだという。

龍馬もその中の一人であったのだが、

ブーツを履いて写真に収まったいる。

下駄か草履の時代であるから、かなりのスタイリストであるか、

和装にブーツとは全体的に評価してヘンテコリンな格好である。

何着ても品格ぶれぬ心がけ  田頭良子

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土佐桂浜の「龍馬像」も、上野彦馬撮影の写真を見本に造られたものだ。

写真のモデルの龍馬は、なぜ手を懐に入れているのか?

その立ち姿は、見慣れているものの、

良く見れば可笑しい。

実は龍馬は、慶応2年(1866)1月24日未明、

寺田屋で夜襲を受けた際、右手親指に深い傷を負ったのだ。

その傷は動脈まで達し、一時は命も危ぶまれたほどだった。

あくまでも無色の立場と通す風  新川弘子

写真を見ても窺える通り、手の様子がぎこちない。

傷は簡単に癒えず、

しだいに龍馬は、無意識に右手をかばうようになった。

龍馬自身も手紙で、”右手親指に機能障害が残った” と記している。

写真を撮られるときも、

おシャレに格好つけるというよりも、

つい右手を、庇うように懐に入れてしまったのではないか・・・

とみられる。

モノクロの隅に私の影を置く  谷垣郁郎

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桂浜の龍馬像のモデルになったとみられるのは、

右手を懐に入れている写真で、

慶応3年(1867)1月、撮影されたものである。

すでに寺田屋事件から一年が過ぎようとしているが、

それでも傷の痛みは残っていた。

また別の写真では、両手を懐に入れているものもある。

じつは寺田屋事件で、龍馬は、左手も負傷していた・・・。

ひいおじいちゃんのケータイにも絵文字  井上一筒

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坂本龍馬が、

伏見奉行所に襲撃され重傷を負った「寺田屋事件」について、

事件直後の龍馬の足取りを詳細に記した伏見奉行所の「報告書の写し」。

”手前に「余程血をしたたらし左の腕」と書かれてある”

調査にかかわった青山忠正・佛教大教授は龍馬が、

「単なる浪士から要注意の大物として幕府にマークされ始めたことを示す重要な資料」

として評価している。

封印の土佐弁糸がほつれ出し  坂本常意

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