プチプチをつぶして難問はあすに 奥山晴生
石碑が残る、「池田屋事件」があった場所
「池田屋事件」が起きるのは、
神戸操練所の開設(元治元年{1864}5月29日)が、
布告されてから、わずか、一週間後の、6月5日のことである。
京都・三条小橋の旅籠・池田屋で、”京都占領”を謀議中だったとされる、
尊攘過激派を、新撰組が襲撃した。
多数の死者や捕縛者が出た。
その中に、望月亀弥太と北添佶摩という、
二人の操練所訓練生が、含まれていたこともあって、
10ヶ月後の元治2年3月に、操練所は解散の憂き目にあうことになる。
鳥になれなんだ肩甲骨削る 井上一筒
大海への船出を夢見ていた、訓練生たちはどれだけ、悲しんだことだろうか?
少なくとも、龍馬もその結果に、歯ぎしりをしたに違いない。
訓練をしているときの、充実感を垣間見る手紙がある。
事件が起きる丁度一年前。
龍馬は、操練所に抱いた夢を、姉の乙女に次のように語っている。
とびきりの夢を見たくて鏡拭く 小山紀乃
海連実習する訓練生
『エヘンの手紙』
坂本乙女宛 文久三年(1863)五月一七日
『此頃ハ、天下無二の軍学者・勝麟太郎という大先生に、門人となり、
ことの外かわいがられ候て、先、きゃくぶんのようなものになり申候。
≪訳― 最近は、天下一の軍学者・勝麟太郎という、大先生の門人となり、
ことのほか、かわいがられて、客分のようなものになりました≫
近々大坂より十里あまりの地にて、
兵庫という所にて、おおきに海軍をおしえ候所をこしらえ、
又、四十間、五十間もある船をこしらえ、でしどもにも四五百人も、諸方よりあつまり候事、
私、初、栄太郎なども、其海軍所に稽古学問いたし、時々船乗のけいこもいたし、
けいこ船の蒸気船をもって近々のうち、土佐の方へも参り申候。
その節、御目にかかり申しべく候。』
近いうちにと言われて会ったことがない 井丸昌紀
≪訳― 近いうちに、大坂から、十里あまりの兵庫というところで、
大きな海軍のことを教える所をつくり、
また四十間、五十間もある船をこしらえ、弟子たちが、四五百人も各地より集まるので、
私はじめ、栄太郎(高松太郎=龍馬の甥)などもその海軍所で稽古学問し、
時々、船乗りの稽古をし、練習船の蒸気船で近いうちに、土佐の方へも参ります。
その時は、お目にかかりましょう≫
『私の存じ付は、このせつ兄上にも、おおきに御どういなされ、
それはおもしろい、やれやれと、
御もうしのつごうにて候あいだ、いぜんももうし候とうり、
軍さでもはじまり候時は、それまでの命。』
感傷に耽って手帳見ています 森口美羽
≪訳― 私の考えについては、この頃、兄さん(権平)もおおいに御同意され、
『それはおもしろい、やれやれ』 と言って下さるというようなわけで、
以前にも言ったように、戦いでも始まればそれまでの命≫
『ことし命あれば、私、四十歳になり候を、むかしいいし事を御引合なされたまえ。
すこしエヘンにかおして、ひそかにおり申候。
達人の見るまなこは、おそろしきものとや、つれづれにもこれあり。
猶エヘンエヘン、 かしこ 』
すっぴんで家が一番落ち着くわ 樋口百合子
≪今年命あれば、私が四十歳になる時のことを、前に言ったことを思い出してください。
すこし”エヘン顔”して、密やかにおります。
達人(勝海舟)の見る目は、大したものだとか、徒然草にも、書かれています。
なおエヘンエヘン、 さようなら≫
『龍馬 五月十七日 乙女姉御本
右の事は、まずまずあいだがらへも、すこしもいうては、
見込のちがう人あるからは、おひとりにて御聞おき。
かしこ 』
≪龍馬 五月十七日 乙女姉みもと
右の事は、まずまずの間柄の人でも、少しでも言うと、誤解する人があるから、
姉さんお一人で聞いておいてね。
さようなら≫
書き出すと言いたいことが裏返る 藤井正雄
浪人狩りをする新撰組
操練所閉鎖に伴い、龍馬ら脱藩浪人は、京都や大坂に身を隠して潜伏した。
ただ龍馬の夢は果てず、外国船を借り入れて航海する計画を持った、
が、外国船の借り入れがうまくいかず、
海舟の配慮で、薩摩藩の大坂藩邸に、かくまってもらう事になる。
≪閉鎖に先立つ8月中旬、海舟は、すでに身の危険を察知し、
龍馬を、京都・伏見の薩摩藩邸に向かわせた。
西郷隆盛と面会させ、万一、操練所閉鎖という事態になれば、
龍馬や脱藩浪士をかくまってもらおうと、根回しをしていたのである≫
通り雨皆どこかに居なくなる 津田照子
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