川柳的逍遥 人の世の一家言
以蔵役・佐藤健 長州が失脚、勤王派の衰退に合わせるように、 岡田以蔵は、しだいに酒色に溺れて、身を持ち崩していく。 「土井鉄蔵」 と名乗って、博奕打ちになり、強盗を働いたりした。 そして、元治元年(1864)、”無宿人狩り”の網にかかり、 幕吏によって捕えられた以蔵は、京から追放される。 これを知った土佐藩に、放たれると同時に、捕えられ送還された。 その頃の土佐では、公武合体推進派の山内容堂による、 土佐勤王党への、弾圧の嵐が吹き荒れ、 武市半平太以下、多くの土佐勤王党士が投獄され、 以蔵には、特に過酷な拷問が待っていた。 そして以蔵が、1年もの拷問にも耐えるなか、 半平太は、 が、半平太の企みは失敗、未遂に終わる。 そのことにより、以蔵は、 「自分が、武市半平太に道具のように、扱われていたんだ」 と気づき始める。 結果、仲間の毒殺計画に失望した以蔵は、次々と自白していった。 以蔵が、すべてを自白して、新たに投獄される者もでる。 また、党員への拷問は、過酷さを増していき、中には獄死する者も出た。 武市半平太の取調べには、投獄から1年余りの間、 吉田東洋暗殺の犯人探しに、執念を燃やす後藤象二郎が、あたった。 しかし半平太は、最後まで吉田東洋暗殺を、否定し通した。 半平太の自白はないまま、周辺の証言から、罪状が決し、 慶応元年(1865年)5月11日、37歳で、切腹を命じられた。 ≪傀儡師の半平太は、身分の違いから正式な切腹を許され、 操り人形の以蔵の首は、土佐の雁切河原に三日間晒された≫ 伝え聞くことは、どこまで正しいのか、二人の胸に悲しい悔恨が残る。 ”君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後は 澄み渡る空” 明太子レンジの中で自爆した 井上一筒 PR |
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