川柳的逍遥 人の世の一家言
薩摩藩の家老・小松帯刀は、天保60年(1835)10月14日に生まれた。 坂本龍馬、土方歳三、松平容保、松平容保、篤姫らと同じ生まれ齢である。 小松は藩主・島津斉彬の小姓、当番頭になったのち、斉彬の急死後は、
西郷・大久保の手綱を握っていたのも小松だった。 「私の知っている日本人の中で最も魅力的な人物で、家老の家柄だが、
人間が描けない色で花が咲く 寺川弘一 小松は朝廷や公卿の間でとても人気があり、頼りにされていた。 西郷・大久保よりも家柄がよく、人柄がよかったからだろう。 例えば、小松が帰国しようとしたら、近衛忠煕(ただひろ)忠房父子は書状で、 「父子ともに痛心している昨今、小松が滞京していないと大きい差し支え 上の近衛父子の書状の追記に「一橋も帯刀を厚く頼りにしており、 元治元年(1864)、禁門の変前後まで、薩摩藩は慶喜と良好な関係にあった。 同年11月、幕閣が慶喜を更迭して江戸に召還しようとしたとき、小松は 「薩は橋公に組(与)して天下両立」 その一方、禁門の変で長州勢が禁裏御所に接近したとき、 薩摩藩は「朝廷第一主義」を藩是とした 左足北北東に置く履歴 河村啓子
長崎にいるとき伊藤俊輔と井上聞多と会見、その依頼を受諾して、 そうした交流の積み重ねにより、慶応2年(1866)1月「薩長同盟」が 場所は京都の小松屋敷(御花畑)だったことにも、 ここに小松の人柄と器の大きさを示すエピソードがる。 禁門の変において小松は、西郷とともに薩摩軍を指揮する立場にあった。 作戦会議のため、西郷は自宅へ初めて小松を迎える際、わざと寝転がって、 ところが小松は違った。 これに西郷は、慌てて飛び起き自分の非礼を詫びたという。 「小松のエピソード」 ① 安政3年(1856)4月23日から二週間、小松は千賀と千賀の父を
② 久光と折り合いの悪かった西郷が、二度目の離島から鹿児島への帰還 ④ 龍馬の新政府の人事構想の中で小松は、西郷や大久保、桂らを抑えて、 北斎漫画ー太った人 西郷は太った女性が好きだったようで、様々な逸話が残っている。 一升の酒を軽く明けてしまうほどの酒豪で、その豪快さを西郷は愛した。 あだ名は「豚姫」で、大柄な女性だった。 西郷がお虎を使って、敵の情報を探らせたという話も残っている。 また東征軍を率いて京を発つとき、お虎は別れを惜しんで、 会った瞬間ビビビッと来ました 川畑まゆみ 江戸城無血開城のあと、お虎にある任務を与えている。 それは江戸に行き、赤坂氷川町の勝海舟邸に3万両送り届けるというものだった。 その頃、旧幕臣は勝のことを「江戸城を明け渡した裏切り者」だと決め付け、 勝海舟を斬ろうという声が持ち上がっていたからである。 西郷はそんな勝のために逃亡資金3万両を手配し、お虎に届けさせたという。 (ただそんな大金をどうやって運んだのか…などなど疑問の残る) 海舟は、お虎のことを「どうも言うに言われぬ良いところがあった」と書いている。 お虎は西南戦争で西郷が死んだと聞いて、ひどく悲しんだ そしてその3年後に亡くなったという。 また西郷が愛した女性に井筒の仲居・お末もいた。 お末も大女だったという。 3番目の妻・イトは痩せているという例外もあるが…。 次の世も生きてゆくなら鳥か魚 柴田比呂志 PR |
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