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川柳的逍遥 人の世の一家言
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希望という名の電車が走らない  菱木 誠

1863年頃からの出来事を期した瓦版

「西郷どん」 池田屋事件

薩摩藩の国主・島津久光による赦免を受けて鹿児島へ戻った西郷は、

早速、京における薩摩藩軍の責任者として京都に赴くことになった。

京に着いてからは、市民の薩摩藩に対する敵対に驚き、それを改善する

べく京都での薩摩藩の活動を取り締まっていたが、幕末の情勢はそれだ

けで許すほど甘くはない。

「八月十八日の政変」で京を追われた尊攘急進派は、失地回復をもくろみ

地下活動を行っていた。

それに対して京都守護職、京都所司代、新撰組
は、テロ行為を目論む不逞

浪士たちの取締りを強化した。


そんな中、西郷は険悪になっている長州との和睦を真剣に考えていた。

自ら大坂の長州藩邸に出向き、和睦について話し合おうとしたのである。

ところが西郷は誤った認識をしていた。

セメントをヘクソカズラが割って生え  岡本なぎさ

薩摩が長州と敵対関係になったのは、幕府の策謀のためであり政略では

なく誠を尽くして話し合えば、長州の誤解は解けるはずだと考えていた。

しかし今の状況は、久光大久保が公武合体策を推進した結果であり、

その路線を改めない限り、長州との協調はなかったのである。

離島にいた西郷は、そのことに気付かなかったが、久光は認識していた。

よって西郷のこの行動は認められず、計画だけで終わった。

明日なら飛べると思う水たまり  瀬戸れい子

元治元年(1864)6月5日のそう早朝のことである。ある商人が新撰組に

捕えられたことから
事態は急変する。男の名は古高俊太郎で、

桝屋喜右衛門という変名を使っ
て志士達の武器調達を担当していた。

新撰組副長の土方歳三が屯所・前川邸の土蔵で拷問にかけ、桝屋のあら

ゆる物を隠し得る隅々まで調べたところ、同志からの手紙が多数発見され、

恐ろしい計画が露見したのである。

その内容は、市中に放火し混乱に乗じて公武合体派の中川宮京都守護職

松平容保を襲撃し、孝明天皇を山口城に連れ去るこおと。

その実行日
は6月22日頃とする、というものであった。

隠し立てできぬ闇夜のホタルイカ  銭谷まさひろ

 
 浪士が籠もる部屋へ突入をはかるる新撰組4士

その日の夜、志士達は古高を奪還するかどうか、池田屋で相談していた。

そこに新撰組が突入した。


池田屋の2階には、長州、土佐、肥後など20名以上の諸藩の志士がい

たが、新撰組は近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助のたった4人

多勢に無勢であったが、志士たちは、近藤隊が少数であるとは知らず、

寝込みを襲われた感で、逃げ惑うことしかできなかった。。

やがて応戦する志士に近藤らは苦戦を強いられたが、危機一髪、別働隊

の土方歳三
隊24名が池田屋に到着し決着がついた。

志士側は多数の死者を出し、20余命が捕縛された。

鍵穴に潜む地獄と天国と  上田 仁

西郷はこの時、伊地知正治、吉井友美、木場伝内と伊丹にいた。

兵庫に向う途中の宿で池田屋事件の報を聞いた。

深夜2時頃、会津藩の捕縛の情報を得て、急いで京に戻った。

一ヵ月後の7月19日、早朝、長州軍が御所めがけて進軍を開始した。

世にいう『禁門の変』の火蓋が切って落とされたのである。

隠し立てできぬ闇夜のホタルイカ  銭谷まさひろ


   禁門の変

【付録】 「八月十八日の政変」

長州藩の下関での攘夷戦は最終的には失敗に終わったが、依然として三条
実美ら尊攘急進派の公卿が朝廷を牛耳っていた。真木和泉らも国
を挙げて
の攘夷と倒幕計画を画策し、過激な運動を行っていた。

この状況にあって、中々攘夷を実行しない幕府に業を煮やした孝明天皇は、
公武合体派の会津・薩摩に期待をかけ、宮中内でのクーデターを画策する。
そして8月18日の早朝、会津・薩摩の兵を宮門を固めさせ、公武合体派
の公卿らによる御所会議を開いた。そこで大和行幸
の延期、三条実美らの
参内や外出等の禁止、長州藩の堺町門警備の
解任が決められた。
尊攘急進派の公卿や長州勢は、京都から一
掃されることとなったのである。
世に言う「七卿落ち」である。


沈黙を破り空気を入れ替える  高浜広川

この政変によって公武合体派が完全に御所を掌握し、孝明天皇は今まで
詔勅は、尊攘急進派に強要されてののもので「朕の真意ではない」と告白。

島津久光は、9月12日に1万5千人の軍勢を率いて嬉々と京にのぼった。
この時大久保も行動を共にしている。さらに一橋慶喜や松平春額、宇和島
伊達宗城、土佐の山内容堂も上洛し、雄藩の諸侯が連合して朝廷の実験
を握り幕政に関与しようとした。公卿や幕府は抵抗をしたが、12月末に

慶喜、春額、宗城、容堂、容保らが朝議参与となり、翌元治元年は、久光
加えられ、六候による参与会議の形態が誕生した。ところが発足してす
ぐに
内部対立が生まれ、わずか3ヶ月で空中分解してしまう。みな我が儘
殿様育ちで議論が進まず、牽制し合うだけで妥協点を見出すことが出来
なかった。


ひとりふたりと抜けてく座布団の寂寥 杉浦多津子

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