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川柳的逍遥 人の世の一家言
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くらやみへまたくらやみへ曲がりゆく  清水すみれ


「白虎隊 自刃図」の画像検索結果
      白虎隊自刃図

本来は戦場に出ない予備兵力とされていた白虎隊。しかし戦局
の悪化に伴って出陣した。そして慶応4年8月23日、火に包
まれた城下を飯盛山から見た隊士19名は、鶴ヶ城が落城した
と誤解し集団自決した。

「西郷どん」 白虎隊の悲劇

ドラマ「西郷どん」では省略されてしまった戊辰戦争の中盤の「会津白虎隊の悲劇」について少しテープを巻き戻しておきたい。会津藩の軍制は鳥羽伏見の戦いまでは、長沼流の兵法によ
る旧式の兵備だった。これでは西洋式の薩長とは戦えない。
そこで会津藩は慶応4年3月(1868)少年兵・白虎隊、老兵・玄武隊等、藩の総力を挙げた軍制改革をし、いうところの「散華壊滅を覚悟の布陣」を敷いた。
その主力の隊の編成は次のようなものである。

(東)青竜隊 36歳より49歳、(西)白虎隊 16歳より17歳、(南)朱雀隊 18歳より35歳、(北)玄武隊 5
0歳以上、隊名は東西南北の神の名に由来しているが、青竜隊
は国境守備、朱雀隊は実践、玄武隊は城内守護の役目を負い、
白虎隊は予備だった。
しかしこの白虎隊を悲劇が襲う。

どっちみち独りで降りねばならぬ駅  桑原伸吉

正規軍はこの4隊で、総数では約2800人だった。このほか
に砲兵隊、築城兵、力士隊、猟師隊、修験隊、さらに農兵隊約
3千人があったが、それらを加えても会津軍の総兵力は7千人
に過ぎなかった。数万とも数十万ともいう薩長新政府軍に対抗
することは、不可能であり、旧幕府軍や東北、越後の諸藩との
連携以外に戦う道はなかった。会津藩の最初の本格的な戦いは
「白河」だった。白河は東北の関門だった。二本松や棚倉兵も
加えて会津藩は白河口に約1千五百人の大部隊を送った。
問題は誰が指揮をとるかだった。

くもの巣の中に入ってしまったわ  みつ木もも花

松平容保が総督に指名したのは意外にも、非戦派の西郷頼母だ
った。各隊長には京都以来の歴戦の勇士がついたが、西郷は性
格狭量で、人望がなく、加えて先頭経験皆無とあって、はなは
だ疑問の人選だった。新政府軍の記録には、5月1日の戦いを「この日、首級6百8なり、官軍の死傷約70、敵は死屍6百
余を残し、散乱退去」
などと大勝利をたたえている。
戊辰戦争を通じてたった一日の戦闘でこれほど決定的に勝利を
収めた戦いはなく「花は白河」とうたわれた。それでも西郷は「決死進んで敵軍を衝かん」と指揮するも配下に止められ、
会津国境の勢至堂まで退去した。

とり急ぎモグラ叩きの刑に処す 木口雅裕

やがて二本松は落城、母成峠を破ると怒涛の勢いで、松平容保
が本陣をおく滝沢峠近くまで迫ってきていた。容保は兵を叱咤し、一夜をここで過ごした。容保の護衛として、城を出た白虎
二番士中隊の隊員たちも隊長・日向内記に率いられて午後4時頃、大野ヶ原に至り丘陵に陣を構えた。ここも少年兵は官軍に
追われ、間道を通って飯盛山に向かう。戦いに敗れて、城北の
飯盛山に辿りついた白虎二番隊の少年19人は武家屋敷の炎上
を鶴ヶ城の落城と思いこみ、次々に切腹して果てた。実際は、
食料・弾薬が切れ会津藩が降伏したのは、彼らが自刃した日か
ら一ヵ月も過ぎた9月21日、容保が「この上は速やかに開城
官軍の陣門に降伏謝罪する」嘆願書を差し出した。

目を逸らすちりめんじゃこの視線から 井上一筒

この白虎隊の悲劇は美化され、明治16年からは小学校の教科
書に載った。翌17年の8月25日には、旧藩主・容保も出席
して行われた墓前祭では旧会津藩士の佐原盛純が「少年団結す
白虎隊」と始まる漢詩・「白虎隊」を十九士の霊に捧げた。

 

白虎隊をはじめとした犠牲をよそに、藩主・容保は生きていた。
いや犠牲と引き換えに生き延びたのである。墓前祭に出た藩主
の胸奥に去来したものはどんなものだったのだろうか、
今さらながらに開胸してでも心中を覗いてみたいものである。
会津藩士の秋月悌次郎を描いた中村彰彦の『落花は枝に還らず
とも』から、人口の膾炙した次の詩吟を聴いてみよう。         

南、鶴ヶ城を望めば砲煙(ほうえん)(あが)る。
痛哭、涙を
呑んで 且(しばら)く 彷徨(ほうこう)す。
社稷 (しゃしょく)亡びぬ 以って止むべしと十有九人、 
腹を屠(ほう)りて死す。

港町ブルースが洩れる板わさの断面  山本早苗

「飯盛山記念碑」の画像検索結果
ドイツ記念碑は、東山奥から搬出された自然石を台石とし、
黒花崗岩を載せ高さ約2メートル、鏡面には、ドイツの最高
名誉章である鉄十字章を彫り、その下に「ドイツの武士より
会津の少年武士に贈る」と碑文が刻まれている。

【付録】 飯盛山こぼれ話

少年兵を死なせた残酷な話は、実は軍国主義にとっては極めて
都合がよかったのか、飯盛山にはナチスドイツより贈られた記
念碑や、ムッソリーニが、次のように書いて寄贈した記念塔が建っている「文明の母たるローマは、白虎隊勇士に遺烈に不朽
の敬意を捧げんがため、古代ローマの石柱とローマの権威を顕
すファシスタ党の章のマサカリを飾り、永遠偉大の証たる千年
の古石柱を贈る。」
※(これは戦後、米軍によって破壊されたが後に復元された)

無垢の木に指紋が二つ残っている  川村啓子

 

 

 

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