頷いているだけでいい苦労人 近藤北舟
右・姫路藩十五万石酒井雅楽頭の中屋敷
江戸城大手門を正面に広大な酒井雅楽頭の屋敷がある。
この酒井家屋敷は明治になり、新政府に接収され、
明治4年、新政府の役人に招かれた西郷隆盛に屋敷と
して与えられた。この雅楽頭屋敷跡は、相当に広く、
全てではないらしいがそれでも、西郷一人の屋敷と
しては、広大であった。
拡大してご覧ください。
江戸城図
「西郷どん」 維新後の西郷
江戸が東京に変わったという有り様は、大名や旗本の何千、何万坪という広大な屋敷に「官員」という新時代の権力者が入り込んで住み始めたということである。東京の多くの庶民にとっては、この種の「御前様どもの田舎訛り」が耳障りなだけで、代わり映えしなかった。日本橋川の北岸の一角が小網町で、そこにかっての酒井雅楽頭の中屋敷があり、長いなまこ塀が思案橋あたりから汐留までずっとつづいている。「いまは薩州の軍人やら書生やらが群れて住んでいるらしい」という噂があったが、当主の名前は知られていない。
人情の行き交う路地でひとり住む 小川賀世子
ときどき途方もない大男が、門のくぐりから出てくる。紋服に羽織袴という姿だったり、薩摩絣の着流しに小さな脇差を一本帯びているという格好だったりした。関取でもない証拠に頭は丸坊主であった。太い眉の下に闇の中でもぎょろりと光りそうな大目玉を持っていて、見様によっては伝奇小説に出てくる海賊の大頭目のようでもある。これが西郷参議であった。通称は吉之助、名乗りは隆盛。もっともこの隆盛というのは、彼の幕末当時からの同藩の同士である吉井友実が、新政府に名前を届け出るにあたって、「吉之助の名乗りは何じゃったかナ、たしか隆盛じゃったナ」とひとり合点して登録してしまった名前である。「あァ、おいは隆盛でごわすか」と、西郷は訂正しにも行かず、結局はこの名前が歴史の中の彼の名前になった。
スロープの優しい顔に導かれ 北原照子
西郷はその屋敷ぜんぶは使わず、長屋の一角だけを居所にしており郷里から妻子さえ呼び寄せていなかった。西郷にとって東京は、というよりも新政府の大官という浮世の栄誉は、この一事をみても、身につけてしまう存念がなかったように思われる。西郷のこの寓居での家族は、男ばかり8,9人である。熊吉は幕末当時から西郷に仕えている古い下僕だが、明治後、薩摩伊集院生まれの与助が加わり、さらに同谷山生まれの市助、同じく矢太郎、鹿児島城下で生まれた書生の小牧新次郎などがその面々であった。彼らの仕事はおもに掃除と雨戸の開け閉めであった。この大屋敷は毎日雨戸をあけて風を通さないと朽ちてしまう。それを1人でやる場合、朝から開け始めて昼前に終わるという大変な作業で、しかもその広大な屋敷を使おうとせず、かつて足軽が住んでいた門長屋の一角を、居所としているだけであった。
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川路利良
この寓居を将来大警視(初代警視総監)になる川路利良が訪れた。「正どん、お前さァも一緒に行かんか」とフランス行きの肩を押してくれた西郷への帰国挨拶のためである。挨拶の順としては、官僚社会の親玉・大久保利通や直属の上司である江藤新平司法卿より、大恩ある西郷は後回しだった。そのような順番など気にしない西郷であることを知っていたからである。川路が西郷とじかに接するようになったのは元治元年の「蛤御門の変」以来だったから、当時西郷のそばにいた西郷の弟・慎吾(従道)や従妹の大山弥助(巌)流罪を共にした村田新八、用心棒のように身辺から離れない中村半次郎(桐野利秋)などから比べれば、ずっと新参者だった。新参とはいえ、西郷というおの巨大な光芒を浴びてしまったという点では、その連中と変わりはなかった。
司馬遼太郎「翔ぶが如く」より
漬物屋の隣に渋いモノクロ屋 くんじろう
西郷は不在であった。「先生は何処おじゃしたか」と聞くと、熊吉が出てきて「先生は下総え鉄砲打ちにおじゃして」夕刻には帰られるはずだ、と答えた。狩猟は内科医のホフマン先生の勧めで、日常に取り入れている肥満解消のための運動である。日が暮れてから西郷が帰ってきた。西郷が供に連れていたのは、江戸生まれの児玉勇次郎という若者だが、ひと足先にくぐり戸から入って、朋輩の熊吉に―「お帰りだよ」と耳打ちしただけである。この一事だけでも西郷という人物が、世間一般の人間とは余程変わった男であることがわかる。
利き腕へ左右の地位がずれていく 森井克子
この当時、新政府の大官といえば、ほんの一部の人を除いては大名気取りで、旧大名のしきたりをそのまま踏襲している者が多かった「御前」と、使用人に呼ばせ花柳街などでも、大官に対してそう呼んだ。新呼称であった。かつては大名や旗本は殿様と呼ばれていたが、まさか殿様という敬称は時勢にそぐわないため、明治になってからそういう呼称ができた。が革命の最高の元老である西郷は人にそのように呼ばれたこともなく、呼ばせもしなかった。彼はこの時期、陸軍大将参議、近衛都督という、文武の最高権力を一身で兼ねていたが、その日常はまったく書生風で、例えば、帰宅のとき正門さえ開けさせないのである。
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ついでに言えば、旧幕の大名・旗本から明治の大官に至るまで、当主が帰宅するとき、従者が先に走って玄関から「お帰りーっ」と叫ぶ。すると門内にいる家来衆がまず大門をぎぃ~と八の字にひらくのである。当主が入ると玄関の式台から廊下にかけて、家来や女中が居並んで平伏する。こういうバカバカしい容儀が、明治の東京でも行われていた。大官の多くは、そういう面では実に醜悪なもので、決して革命政府の官僚といえるものではなく、急に偉くなったものだから威厳を勘違いするものが多かった。が西郷はそうではなかった。裏で足を洗ってから座敷へあがり、「今じゃった」と挨拶してから、そこに川路がいるのを見ると、全身で喜びをあらわし、「今日は落ち着いて、ゆっくいと、飯でん食え」と言って歓待する。川路はそういう西郷に接する時、震えるような喜びを感ずるのである。
寸分の相違もなくてあほらしい 雨森茂樹
【付録】 西郷の本音
この時期、日本の朝野をとわず「征韓論」で沸騰しており、西郷はその渦中にいた。というより、西郷がこの渦を巻き起こした張本人のように見られており、事実西郷という存在がこの政論の主座にいなければ、これほどの騒ぎにはならなかったに違いない。と言って、西郷の心境は複雑で、彼は扇動者というより、逆に桐野利秋ら近衛将校たちが「朝鮮征すべし」と沸騰しているのに対し、「噴火山上に昼寝をしているような心境」と西郷自身が書いている。自分の昼寝によって辛うじて壮士的軍人の暴走を抑えているつもりであった。
秋の蚊が右脳ばかりを攻めて来る 合田瑠美子
[2回]
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