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川柳的逍遥 人の世の一家言
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轍を残したまま過ぎてゆく冬  赤松蛍子

 「征韓論」の画像検索結果
         中央に座しているのが西郷

もともとは「遣韓論」であった西郷の主張は、どこかで「征韓論」へと歪められた。陰で動いたものがいる。

「西郷どん」 征韓論

征韓論の議論が正式に太政官の廟議にかけられたのは、明治6年6月12日である。当時、西郷は健康がすぐれなかった。少し歩くと息切れがし、心臓に圧迫感があった。西郷は書生や下僕といった無骨な連中にとりまかれていたとはいえ、彼の日常の世話が行き届かない。女手が必要であった。しかし西郷は女手を欲っしなかった。と言って 禁欲論者ではなく、この東京にあっては婦人をいっさい身辺に近づけず、また酒楼に登って芸妓とかかわりを持つということもしなかった。この私生活の清潔さは彼の無言の政治批判でもあった。

モアイ像の一つになっている時間  竹内ゆみこ

かつての革命の士たちが、天下をとって太政官の大官になるや、いちはやく妾を蓄えたり、花柳界で豪遊したりすることが流行のようになっていた。西郷は他人の漁色について厳格なことを言ったことのない人物であったが、しかし革命政府の清潔ということについては異常なほどやかましく、少なくとも自分に対してだけは、修道僧のような生活を課していた。が、病気になった場合には、男手ばかりではうまくゆかなかった。弟・従道はそんな兄を心配して、政府が医学教育のために招いていたホフマンという内科医のところに連れてゆき、診察を受けさせた。ホフマンは西郷が肥満し過ぎていることを指摘し、運動をすすめた。

退き潮がくすぐっている足の裏  嶋沢喜八郎

そういう時期に、西郷の持論であった「征韓論」が、正式に廟議にかけられることになる。同年6月12日のことである。西郷は病を押して出席した。この日、6人の参議が出席した。西郷のほかに、土佐の板垣退助、後藤象二郎、佐賀の大隈重信、大木喬任、江藤新平、議長として公卿出身の太政大臣・三条実美が出た。
板垣は政論は常に痛快でなければならないと思っている男で、この席上まっ先に口火をきり、「朝鮮国の暴慢はもはや極に達している。ただちに朝韓半島に兵を送るべきである。外交談判などはそれからのことだ」と主張した。板垣という過激な征韓論者が、のち自由民権運動の急先鋒に転ずるというところをみても、この時期の征韓論がいかに複雑なエネルギーを含んだものであったかがわかる。

言わんでもその顔見たら分かります  北原照子

西郷の方がむしろ温和であった。西郷は断じて「軍事行動は不可である」と反対した。まず特命大使を送る。遣韓論である。意を尽くして朝鮮側と話し合い、それでもなお朝鮮側が聴き入れなければ、世界に義を明らかにして出兵する。その特命全権大使は、かつてのペリーのごとく軍艦に乗って出かけたり、護衛部隊を連れて行ったりすることも不可である、いっさい兵器を持たずに韓都に乗り込む、あるいは殺されるかも知れないが、「その役は私にやらせてもらいたい」と西郷は言った。

むつかしく考えないで水を飲む  谷口 義

この征韓論という一国の運命を決定しようとしている内閣は、厳密には「留守内閣」にすぎない。おもな閣僚は国家見学団という名目で外遊中である。大久保だけは単身帰国していたが、彼の留守中、かれの作ったはずの日本国家が急に侵略主義国家に変質しようとしていることに仰天し、しかも単独では抗するすべもなく、他の外遊組が帰ってくるまで病気静養と称して、ある種の昆虫のように死んだ真似をしようと考えた。大久保にすれば、はらわたの煮えるような憤りがある。「外遊組が帰るまで国家の大事を決してはならない」という約束を留守を守る閣僚たちと入念に交換していたのである。征韓論を実施すれば、たちどころに朝鮮の宗主国である清国とロシアを敵にすることになる。かれら留守参議は国家を玩具だと思っているかと大久保は歯噛みながらおもった。

哀の方へ傾いてゆくやじろべい  徳山泰子


木戸孝允山口尚芳岩倉具視伊藤博文大久保利通

大久保は外遊出発前に大隈重信参議に言い含めていた。「留守組のブレーキとなり、責任をもって出先へ報せてくれ」と。大隈は明治初年の少壮期には、「政治的奇才が高く評価され、合理主義者で才腕があった。大久保はそんな大隈を知り抜き、使うべしと思った。「私の留守中、大蔵省すべてをまかせる」という一言が、大隈をして終生の大久保びいきにした。
大隈は西郷があまり好きではなかった。西郷はアホだと思っていた。政治は才略よりも人格であるという考え方をする西郷が愚鈍に見えたのである。また江藤新平は同じ佐賀藩出身ながら性格的にあわない。かれは緻密な論理派だが、同時にその論理に感情家であるかれの情念が入り過ぎるため、危険な匂いがするのである。中間派の大木喬任はたわいない。議長の三条実美は政治的に物事を処理できるような能力はない。面々を見て大隈は大久保の期待に応えようと考えたことは言うまでもない。

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ところが明治6年6月12日当日の「征韓論」についての第一回閣議が開かれたとき、大隈は為すところがなかった。大隈も同じ参議とはいえ、西郷が吼え、板垣がそれに和せば、手のつけようがなかった。
とくに西郷が、「なにも韓国に対して武力を用いようというのではござりませえぬ。是非私に遣韓大使を仰せつけあって彼の国都へ遣わしていただきたいということでございます」という分には、大隈として反対の仕様がなかった。西郷は言葉の丁寧な人物で、こういう場合、標準語をつかい、粗野な言葉はいっさい使わなかった。土佐の後藤象二郎は雷同した。江藤新平は1も2もなく征韓論派である。大木は征韓論派でなかった。しかし反対もしなかった。

方程式狂って影を切り刻む  上田 仁  

【付録】 夏季休暇

「征韓論」が廟議に上がったのは、明治6年6月12日である。それっきりであった。あとは廟議がなかなか再開されず、その政局停帯の理由として、三条実美は、「清国に使いしている副島種臣外務卿が戻ってから」
とした。副島が帰朝すると、同年7月の暑気はものすごく、「暑いために廟議をしばらく休みます」という三条は、いかにも公卿らしい言い訳が通し、「太政官は夏季休暇中」の札を会議室のドアに掲げさせ、政局の動きを止めた。もっとも、この夏季休暇を妙案を設けさせたのは大久保利通の差し金であった。大久保らしい「沈黙」の手段である。平成の今もこの方式は生きている。

無言という常備薬が効いてくる  佐藤正昭

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