- 2012/10/18
- Category : ポエム&川柳
人工島築造エピソード
経ヶ島縁起
「大輪田泊ー人工島築造エピソード」
福原の外港は、「大輪田泊」と呼ばれ、
奈良時代から瀬戸内有数の港として知られていた。
港の西側に和田岬があって、
自然の防波堤の役割を果たしていたが、
東南は海に開かれており、
風波のために、しばしば船が難破した。
清盛が宋と貿易を始めるにあたって、
この港の整備が最大の難題であった。
いらだちの輪切り重ねて不整脈 たむらあきこ
経ヶ島
一つずつ石を積み上げて完成させたものの、
翌年、大きな風波が来て、たちまち崩れ去ってしまった。
そこで、表面にお経を書いた石を船に積み込み、
船ごと海に沈めて島を築いた。
工事は承安3年(1173)に始まり、
2年がかりで完成したが、この築港によって、
付近を航行する船が、
「風波にわずらわされることがなくなった」
と、『平家物語』は、たたえている。
息一つ吐いてしっかり打つ句点 笠嶋恵美子
経 石
はじめ石堤が崩れたとき、
公卿たちは「人柱」を立ててはどうかと提案した。
人柱とは、人間をいけにえとして生き埋めにし、
工事の成功を祈願する古代の呪術の一種である。
なんともおぞましい提案であるが、
「それは罪業である」
という清盛の一言によって、人柱計画は立ち消えとなり、
石にお経を書いて埋める工法がとられたという。
立ち位置が決まらないので吠えてみる 美馬りゅうこ
来迎寺
ところが、『源平盛衰記』によると、
逆に清盛が、人柱を発案したことになっている。
幸若舞の『築島』にいたっては、
清盛が30人の人柱を立てる計画にこだわったが、
最終的に清盛の近習である松王が、
人柱にたち、人々を救う筋立てになっており、
清盛の非道ぶりは、ここに際立っている。
≪現在、神戸市兵庫区の来迎寺には、
このとき犠牲になった松王の墓なるものまで残されている≫
ごった煮の中から真実のあぶく 三村一子
松王墓
「松王小児伝説」
清盛には、そば仕えの侍童が何人かいた。
その中のひとり、讃岐国の武将の子・松王丸という
十七歳の侍童が、人柱になる人々の惨状をみかね、
「人柱などというむごいことは、おやめください。
私が三十人の身代わりになりましょう」
と清盛に言い出した。
「侍童」=高貴な身分の人に仕え雑用や話相手などをつとめる少年のこと。
侍童には、頭脳明晰の美少年が選ばれていたという。
わが死語のあおき空かも罌栗(けし)坊主 大西泰世
松王墓台座
しかし、清盛はなかなか聞き入れなかった。
それでも松王丸はあきらめず、何度も清盛に訴え、
ついには、清盛も、松王丸の熱意に負け、
申し出を聞き入れるのである。
その後、石の櫃(ひつ)に入れられた松王丸は、
白馬の背に乗り港へと運ばれ、
千人の僧侶の、読経の声がひびく中で、
海の中へと沈んでいった。
それを見送った人々は、涙を流しながら、
お経を書き写した大小さまざまの石を、
海へ投げ入れたと言う。
里山の無縁仏に絶えぬ花 ふじのひろし
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