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川柳的逍遥 人の世の一家言
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鰯雲みんな纏めて面倒みるわ  岩根彰子

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遼陽南東の高地から砲撃を行う第一軍独立野戦砲兵

北上を続ける日本の3つの軍が、

3方向からそれぞれ
「遼陽」を目指した。

遼陽は、交通の要衝であり、戦略的意義が極めて高く、

この地で、ロシア軍を包囲殲滅することを目標とした。

一方、ロシア軍も、

日本軍を迎え撃とうと、この地に陣地を構築して待ち受けていた。

日本軍の兵力は約13万、ロシア軍の兵力は約22万が衝突。

「鴨緑江会戦」と並び、日本軍にとっては、はじめて、

近代陸軍を相手にした本格的会戦であった。

≪この会戦における日本軍の死傷者は約2万2千、

   ロシア軍の死傷者は、約2万5千とされている≫

生涯は一度落花はしきりなり  大西泰世

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「遼陽会戦の死闘」  40分/3分

陸戦は、いよいよ「遼陽会戦」へと向けて進んで行く。

8月初め、ロシアは、司令官・クロパトキン大将の下に、

歩兵201・5大隊、騎兵153中隊、砲673門を集結させていた。

クロパトキンはかねてより、遼陽での一大決戦を予定していた。 

サイコロで決まる光と影の位置  白川淑子

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  児玉源太郎             大山巌

日本軍との比較でいえば、

歩兵大隊数で1・6倍、騎兵中隊数で4倍、

火砲数で1・4倍と明らかに、ロシア軍優勢であった。

8月22日、総参謀長・児玉源太郎は、

大山巌の許可を得て、遼陽攻撃の命令を発した。

予想通りの激戦となり、日本軍は明らかに劣勢であった。

しかし、ここで日本軍に救世主が現れる。

黒木軍は、主力軍ではなく、遊軍の形で、右翼から太子河を渡り、

背後もしくは側面から、遼陽を攻める作戦に従事していた。 

ツナ缶を開ける見えない方の手で  井上一筒

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   将軍たち(左から) 

(黒木為楨、野津道貫、山県有朋、大山巌、奥保鞏、

乃木希典、児玉源太郎、川村景明)

 

「司馬氏記」

『黒木の軍団は3個師団ほどだというが、それはうそだ。あと3個師団はもっている』

 とクロパトキンは、判断するようになった。

 なるほど、ヨーロッパの軍事専門家の常識では、そう言うであろう。

 黒木が、あれほどに損耗をかえりみずに、

   猛攻を仕掛けてくるのは、

 「予備兵力をゆたかにもっている証拠だ」 というのであった。

 が実情は、黒木は裏も表もなく、3個師団の1枚看板だけでやっている。

 むろんこの日露戦争が長期にわたれば、

   日本軍は兵力不足になるであろう。

 日本の大きな戦略方針が、短期決戦主義ということになっている以上、

 いわば3個師団という晴れ着が労働着であった。

 着更えはなかった。》

出来心にしては用意周到ではないか  島田握夢

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クロパトキン

とにもかくにも、黒木軍は死闘を制した。

9月3日夜、クロパトキンは総退却を決意する。

遼陽会戦における日本軍の死傷者は、2万3533人で、

ロシア軍の約2万人を上回った。

外国人従軍記者の中には、

「日本軍の勝利ではない」 と報道した者もいるが、

幾分かの真実を、含んでいるようにも思える。 

50度のおじぎで風をやりすごす  桜風子
 
二日後の12月14日に続きます。

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とことん運だろうと冷ややかな妬心  たむあらあきこ

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東鶏冠山北堡塁(日露戦争の面影)

旅順を取り囲む三大堡塁のひとつ。

日本軍のたびかさなる攻撃にも、

「難攻不落」を誇っていたが、

日本軍の「28センチ砲」の爆裂により、

要塞の司令官だった猛将・コンドラチェンコが戦死したのを契機として、

1904年12月18日、ついに陥落した。

砂漠が増えたねと月が言うている  井上一筒

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「黒木軍と奥軍の明と暗」  40分/3分

一方の陸軍の方は、まだ動きが遅い。

仁川に上陸した韓国駐屯部隊が、京城に進駐している程度であった。

逆に言えば、

陸戦における第1戦を戦うに当たって、日本は慎重であった。

それには理由がある。

国家財政が底をついている日本としては、

戦費を外債に頼るしかない。

その外債が、人気化し買ってもらうためにも、

緒戦は華々しい戦果を求められていたのだ。

緒戦の目標は、「鴨緑江の敵を破り満州に出る」 ということに定められた。

その任務には、第1軍が当たることになったのだが、

そのトップには、「よほど勇猛な将がいい」 ということで、

黒木為楨大将が選ばれた。 

何もかもうす塩振って受けて立つ  山本昌乃
 
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   黒木為偵        奥保鞏(やすかた)

黒木為偵は、薩摩藩の出身で、

戊辰戦争にも参加している文字どおりの侍であった。

第1軍が、順調に、鴨緑江渡河の準備を行っているのに並行して、

遼東半島南部に上陸させる「第2軍の編成」が進められた。

軍司令官は、奥保鞏で、

旧小倉藩士という佐幕藩の出身であったが、

軍上手として定評があった。

この第2軍に与えられた使命は、

「金州・大連付近を占領せよ」 というものであった。

そして、満州平野に分け入り、

朝鮮国境を越えてやってくる第1軍と合流する予定であった。

上陸は順調だった。 

まちがっていないが納得いきません  三村一子

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   散兵壕での日本兵

しかし、苦難はその後に待ち受けていた。

第2軍が、本格的な攻撃を開始したのは、

5月26日のことであるが、「金州・南山要塞」は、

当時の「日本陸軍の想像を絶する近代要塞」であり難攻不落だった。

日本兵は、ばたばたと倒れ、

ただでさえ不足している砲弾も、あっという間に底を突いた。

この日本軍の危機を間一髪で救ったのは、

第4師団長の小川又次中将だった。

敵の弱点である左翼に予備弾まですべて撃ち込み、

艦砲射撃の援軍も得た。

その後は、歩兵の肉弾攻撃であり、

午後6時半、ついに占領し、ロシア軍は「旅順要塞」へと逃げ込んだ。

すこぶる不明確にユメムシの輪郭  山口ろっぱ

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「司馬氏記」

《 金州・南山のロシア軍は、いかに奥軍の攻撃が苛烈であったにせよ、

   こうも簡単に、退却すべきではなかったかもしれない。

   もし攻防がもう1日長引いていれば、すでに弾薬つき、

   死傷が全兵力の1割をう上回っている奥軍としては、

   攻撃再会まであと何日を要したか、想像もできない。

   なぜならば、銃砲弾の補給を本国から仰がねばならず、

   本国も砲弾のストックが、つねに底をついている以上、

   その船荷がいつ着くか、たれもわからなかったのである。

   奥軍のうけた予想外の大損害は、

   これを電報で東京の大本営に報じたとき、

   「電文の〇が1つまちがっているのではないか」

   と、大本営ではうたがったほどであった。

   ・・・〈中略〉・・・日本軍ははじめて、近代戦のすさまじさを知ったのである 》

十指みな使い果たした後だから  瀬川瑞紀

二日後の12月12日に続きます。

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消炭を摑む男の意地の果て  森中惠美子

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閉塞作戦で沈められた報国丸

「ロシア艦隊を旅順港内に封じ込めるため、

  外洋へ出入り口である狭い海峡に船を沈めて、

  出られないようにするという作戦。」

≪21隻もの閉塞船を出したが、砲台からの攻撃にあって成功しなかった≫

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「旅順港を”閉鎖”せよ」  40分/ 5分

仁川沖での勝利は、

連合艦隊としては、別働隊というべき働きである。

主力の仕事は、あくまでも「旅順港」の方だ。

ロシア海軍は、「極東艦隊」「バルチック艦隊」という2つの艦隊を持っていた。

極東艦隊では、旅順と浦塩という2つの基地を持っていたが、

この時期の浦塩港は、結氷期にあたるために、

極東艦隊のほとんどが、旅順港に集結していた。 

落ち葉踏む戦争なんて大嫌い  嶋澤喜八郎
 

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閉塞作戦を示したパネル

それを撃破しなければいけないものの、

「要塞砲」で守られている港内にいる限りにおいては、

攻撃の手段は、限られたものになってしまう。

2月8日夜、まず駆逐艦による「水雷攻撃」が実行されたが、

確たる成果は上げられなかった。

翌9日には、二等巡洋艦・ディアーナの挑発を受けて、

旅順港の外において、初めての主力決戦が行われた。

後に「旅順口外の海戦」と呼ばれるものである。

ここに来て運命線がゆがみだす  信次幸代

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旅順監獄展示室に陳列された報国丸の錨

 

しかし、両軍のダメージは小さなものである。

日本側から見ても、勝利には程遠かった。

言い換えれば、

「旅順要塞」の威力が、それだけ凄まじいものだということだ。

そこで、次なる作戦は、

旅順港から艦隊を出られないようにすること、

即ち「閉塞」となった。 

表札を人に盗ませてはならぬ  山口ろっぱ

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   一時休戦の写真

≪旅順要塞攻防戦の最中に、日露両軍の戦死者を収容するために一時休戦した≫

「司馬氏記」

≪ロシアと戦う場合、当然海軍の第1期作戦は旅順港との格闘になる。

海軍軍司令部の案として、「閉塞」ということは早くからあった。

旅順港に船を沈めて、その瓶の口をとざしてしまい、

港内の敵艦隊を物理的に、閉じ込めてしまうのである。

旅順の港口はじつに狭い、その幅は273メートルで、

しかもその両側は底が浅いために巨艦が出入りできるのは、

真ん中の91メートル幅しかない。

そこへ古船を横に並べて5、6隻沈めてしまう。

「それ以外にないのだ」

ということを、開戦の前から唱えていたのは、

東郷の参謀のひとりである有馬良橘中佐と、

戦艦朝日の水雷長である、広瀬武夫少佐である。

引き際の美学 微妙に揺れている  山本昌乃

ところが「閉塞」の権威であるはずの秋山真之は、

実際には、にえきらなかった。

彼は、「旅順要塞の事情」が分ってくるにつれ、

「サンチアゴ港でこそできたが、旅順要塞はまるで違う。

  サンチアゴ港の千倍の砲力をもっているし、

  第一港内の艦隊が、スペイン艦隊でなくロシアの大艦隊だ。

  やればかならず死ぬ」

と、言い出した。 真之は、

「流血のもっともすくない作戦こそ最良の作戦である」

と平素言い、「閉塞には冷淡」になった。

しかし、自分の先任参謀の有馬がみずからやるということを、

まっこうから反対もできず、煮え切らなかった≫

却下却下と澱粉質の声で  井上一筒

天才・秋山真之にして決断できなかった「閉塞作戦」は、

やはりうまくいかなかった。

2月23日薄暮、閉塞隊の5隻は、円島の東南20海里の洋上に集合し、

翌深夜作戦行動に出たが、

先頭の天津丸が、猛烈な砲火と探照灯に目が眩み、

進路を誤ったこともあって、2隻を除いて有効な閉塞は、

出来ないままに沈没した。 

ニアミスをしたこの世あの世の境目で  和田洋子
 
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ロシア船の甲板に横たわる広瀬中佐の遺体

   

3月26日夜、「第二次・閉塞作戦」のための4隻が出発した。

今回も、海岸にある砲台と艦艇からの猛射によって、

予定位置の手前で沈没、完全な封鎖はできなかった。

おまけに、後に、「軍神」としても謳われた広瀬武夫少佐が、

壮烈な戦死を遂げることにもなった。 

* 「軍神」=本来は武運を守る神様のこと。

明治以降の日本は、日露戦争の広瀬少佐を初めに、

戦死した軍人の中から模範となる者を神として扱い、国民が敬う対象とした。

 

「広瀬の場合は、出身地の大分県竹田市に広瀬神社が造られた」

人は皆生きてる途中で死ぬのだ  高橋謡子 

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広瀬の遺体を確認する海軍・陸軍将校の二人

「司馬氏記」

≪広瀬はオーバーの上に引廻しを羽織り、

    ボートの右舷最後部にすわって、

    ともすれば恐怖で体が硬くなろうとする隊員をはげまし、

    「みな、おれの顔をみておれ。見ながら漕ぐんだ」

    と、言ったりした。

  探照燈が、このボートを捕え続けていた。

    砲弾から小銃弾までがまわりに落下し、海は煮えるようであった。

  その時、広瀬が消えた。

    巨砲の砲弾が飛び抜けたとき、広瀬ごともって行ってしまったらしい。

    その隣りに座って、舵をとっていた飯牟礼ですら、

    気づかなかったほどであった≫

渡された切符は遠い海のいろ  清水すみれ      

2日後の12月10日に続きます。

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考える人の真横で考える  和田洋子

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旅順ヤマトホテル

日露戦争の面影ー旅順随一の格式をもったホテル(上)。

日露戦争の面影。「男装の麗人」・川島芳子はここで結婚式を挙げた。

下ーさまざまな歴史の舞台となった正面階段と入口。

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「短期決戦しかない」  40分/5分

明治37年(1904)2月4日の「御前会議」において、

ついに、「日露開戦」は決定されることになる。

2月6日、日本はロシアに対して「国交断絶」を通告した。

2月9日、ロシアは日本に宣戦布告を行い、

翌10日に日本も、ロシアに宣戦布告を行う。

しかし、実は、宣戦布告の前から戦闘は始まっていた。

特に日本の方には、「速攻に出なければいけない事情」 があった。  

ひと言のノーがすべてを物語る  佐藤美はる

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「司馬氏記」

 

≪ 陸軍参謀本部の総長・大山巌が、作戦計画をたてている次長・児玉源太郎に対し、

  「児玉サン、何度も申しますが、長くはいけませんぞ」

    ということを彼の言うように何度も言ったが、

    児玉はもろん百も承知でいた。

    戦いが長引けば、日本の戦力は、からからに干上がってしまい、

    日本は自滅するのである。

    要するに、戦略の主眼は、

    『短期間にできるだけ、はなやかな成果をあげ、

    そのあとは外交でいう、心理的契機をとらえて平和にもちこむ 』

    というものであり、この主眼をはずしては、

    この戦争はまったく成りたたないことを、政府要人の全員が知っていた ≫

ペンキ塗るわけにいかないココロザシ  中野六助

この頃の日本側の作戦計画は、

主作戦場を満州に置き、ロシア軍の主力に打撃を与えて、

これを北方に追い、さらに、太平洋艦隊を破って、

「制海権を確保」することを方針とした。

このための陸軍側の作戦計画は、次の通りである。 

入るのはいとも容易い出入り口  下谷憲子
 

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    砲撃する満州軍

『第1期』  

第1軍は、朝鮮から北進して「鴨緑江右岸」(満州側)に進出し、

第2軍は、「遼東半島東南岸」に上陸して、根拠地を築き、第1軍と呼応して北進する。

第3軍も上陸して、「旅順要塞」を監視し、必要に応じてこれを攻略する。

第1・第2軍の北進に呼応して、「渤海東北岸」に第4軍を上陸させ、

各軍協力して「遼陽」を占領する。 

等分はできない昨日今日明日  吉川幸        

 

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  ロシア側旅順港-1  

『第二期』

第1期作戦が、春に開始されれば、その完結は秋となるので、

遼陽以北の好条件の地点に「冬営」し、

翌春、行動を開始してロシア軍の主力と戦い、再起不能の打撃を与える。

なお、両期間の適当な時期に「樺太」を占領する。 

おーい雲気持ちばかりが走り出す  松本光江

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   ロシア側旅順港ー2   

このような作戦計画大網のもとに、

当初の「制海権の確保」「朝鮮の確実な占領」について、

特に綿密に検討された。

ロシア艦隊は、有力な増援艦隊が到着するまでは、

もっぱら、旅順港に立て籠もって決戦を避け、

その勢力を温存するものと判断された。 

笑い皺も含め帳尻合わせとく  谷垣郁郎 

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       海軍省       

そこで日本軍は、開戦直後、仁川方面に上陸を敢行し、

進んで京城を占領、朝鮮に対するロシアの圧力を除くこととした。

ついで、海戦の勝利によって、「制海権」を完全に握ったうえで、

朝鮮の北西部に強大な兵力を上陸させて、

第1軍を編成し、

平安道から北進、南満州に進入しようとした。

上陸点は、結氷期は仁川を本土陸地、満州を補助上陸地とし、

解氷期は鎮南浦を考えた。

第1軍が、鴨緑江右岸に前進する頃、

遼東半島の東南岸、大孤山付近に、

第2軍を上陸させることを考えた。 

つぶやいたことばに色を塗っている  赤松ますみ

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三笠ー菊のご紋章と日の丸

2月6日午前9時、「連合艦隊」は佐世保港から出撃した。

先頭が第3戦隊、

ついで、駆逐艦、水雷艇隊、第3陣が第2戦隊、

第4陣が、連合艦隊の「旗艦・三笠」を中心の第1戦隊であった。

最後尾の水雷艇が港から見えなくなったときは、

昼近くになっていた。 

肝心なところに句読点がない  一階八斗醁
 
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     三笠ー2

秋山真之参謀は三笠の艦橋にいた。

その任務は、ロシアの旅順艦隊を撃破して、

「制海権を手に入れること」 と  

「朝鮮仁川港に陸軍を陸揚げすること」  であった。

一等巡洋艦の「浅間」を中心とした瓜生戦隊(瓜生外吉司令官)は、

主力が出た2時間後に、抜錨し仁川に向かったのであるが、

その途中で、仁川港から脱出してきた三等巡洋艦・「千代田」に出会う。 

エンドロールの中に溢れている未来  瀬渡良子

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三笠が誇る30㌢主砲

千代田の報告では、

二等巡洋艦・「ワリャーグ」と砲艦・「コレーツ」が、

仁川港に停泊しているとのことで、

早速、仁川港に赴いてロシア艦に出航を迫り、

港外に出たところで戦闘を開始した。

この時に、浅間から発砲された8インチ砲弾が、

「日露戦争の海戦における第1発目」 といわれている。

結果は、ワリャーグは大破、

コレーツは、無傷であったが、共に仁川港に逃げ帰り自沈した。

日本海軍の最初の勝利であった。 

曲線の方が正しい時もある  嶋澤喜八郎
 
2日後の12月8日に続きます。(だんだん面白くなっていきます)

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大仏の背中をガリバーが蹴った  井上一筒

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      旅順駅

≪ロシア時代に建てられた駅舎が今も保存されている≫      

多くの面で劣勢であった日本が、いかにして、ロシアに勝利したのか?

「40分で詠む戦争のエッセンスー」

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「プロローグ」  40分/4分

「日清戦争」の後の日本は、

帝政ロシアの南下政策に対応して、朝野を挙げて、

その対策に全力を尽くした。

軍事面で言えば、陸軍はすでに中国東北部(満州)を席捲し、

朝鮮半島北部にまで侵攻しているロシア陸軍を、

「いつ、どこで、どのような」 型で撃攘(げきじょう)するのか。

そのためには貧弱な日本陸軍の兵力を、

どのように準備するか。

三番目くらいの高さ保つ杭  河津寅次郎

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整列した歩兵第8歩兵たち

海軍は、旅順ウラジオストック「軍港」を持ち、

総兵力では、ほぼ日本海軍と同等のものを保有するロシア海軍、

在欧の「バルチック艦隊」を合すれば、

実に倍の戦力になる、強大な海軍力を持つロシアに対し、

「どんな戦略と戦術で対応するのか」 という難問と直面していた。

外交的には、

「朝鮮が日本の国家的利害の焦点」 として、

歴史的にも、地勢学的にも、正に不可分の関係にあった。

影を見るために後ろを振り返る  松原未湖

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「司馬氏記」

≪満州に居座ったロシアは、北部朝鮮にまで手をのばしている。

    当然ながらに本の国家的利害と衝突する。

   日本は、朝鮮半島を防衛上のクッションとして考えているだけではなく、

    李王朝の朝鮮国を、できれば市場にしたいと思っていた。

    他の列強が、中国をそれにしたように、

    日本は朝鮮をそのようにしようとした。

人の世は喜怒哀楽に欲を塗る  大海幸生

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     関東軍司令部

    笑止なことに、維新後30余年では、まだまだ工業力は幼稚の段階であり、

   売りつけるべき商品もないに等しいというのに、

    やりかただけはヨーロッパの真似を、つまり、

    手習いを、朝鮮に於いてしようとした。

   その真似をしてゆけばやがては、強国になるだろうと考えていた。

   自然、19世紀末、20世紀初頭の文明段階のなかでは、

    朝鮮は、日本の生命線ということになるのである ≫

長いもの巻かれたふりをして生きる  嶋澤喜八郎

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  関東軍司令部内部

「日露戦争」が勃発する下地は、すでに出来上がっている。

ロシアのほうは自信満々であった。

「日本になど負けるはずがない」

その根拠もちゃんとあった。

明治36年(1903)に日本にやってきたクロパトキン陸相は、

日本陸軍をじっくりと見学した後で、  

「日本兵3人にロシア兵は1人で間に合う」

  と言い放った。

一方、海軍は、西郷従道山本権兵衛のコンビで、

世界五大海軍国の末端に連なるまでに至ったのだが、

やはり明治36年に、

「大観艦式」に訪れた巡洋艦・アスコリド艦長・グラムマチコフ大佐の報告は、 

「物質的装備は整っていても、

  海軍軍人精神はまだまだ、軍艦の操法、運用は幼稚」

 

というものであった。

足し算をしては誤算をしてしまう  籠島恵子

ロシアは、「開戦いつでもよし」の状態にある。

それに対して日本の方は、

「できることなら日露戦争は避けたい」

要するに、勝つ自信がなかったのだ。

そうした「日露戦争回避論者」の筆頭が、伊藤博文であった。

伊藤は、戦争を避けるために対露交渉をすべく、

明治34年(1901)11月、ペテルブルグを訪れた。

そこで伊藤は、ロシア帝政政府における唯一の日露戦争回避論者である、

大蔵大臣・ウィッテに歓待された。

また、外相・ラムスドルフも、 

「軍事ではなく外交で問題を処理したい」  と述べた。

甲冑の中に届いている夕日  たむらあきこ

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 伊藤博文

これは、実は、外交的駆け引きに過ぎなかったのだが、

伊藤は、日露戦争を回避できると思い込んだ。

そして、同時進行していた「日英同盟」は、

「見合わせるように」 と政府へ助言をした。

当時の桂太郎首相、小村寿太郎外相にとって、

こうした私的外交は、迷惑至極であった。

茶柱が立とうとたつまいと挑む  竹内ゆみこ

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   日英同盟の諷刺画

≪左側のロシアに後から背中を押す英国≫

しかし、幸か不幸か、伊藤は裏切られる。

ドイツ・ベルリンのホテルで待つ伊藤の許に届いたロシアからの文章は、 

「ロシアの満州での行動は自由である、日本の朝鮮での行動は、

 制限された自由しか認めない」

 

というものであった。

こうなっては、強国イギリスに後ろ盾になってもらうしかない。

即ち、「日英同盟」である。

イギリスも、極東でのロシアの傍若無人な行動に、

脅威を感じていたのだろう。

極東の小国、日本との同盟に応じる。

積ん読の中であくびをする栞  泉水冴子

明治35年(1902)1月30日、日英同盟は調印された。

大きな後ろ盾が出来上がったのである。

明治36年(1903)、日本はロシアに対して、最後の外交交渉を行うが決裂。

この段階で日本に大問題が起きた。

それは日本陸軍の対露作戦計画の中心人物である、参謀次長・田村怡与造が、

36年10月1日に、突然病死したのである。

また一つ悲しいものをファイリング  中野六助

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   児玉源太郎 

田村は、参謀総長・川上操六の後継者として、

部内の嘱望を集めていて、「今信玄」といわれていた。

その田村が、作戦計画のまとめの時期に、急逝したのである。

田村の後任として、その職に就いたのが児玉源太郎である。

児玉は、日清戦争当時、陸軍次官兼軍務局長として、

事実上の大臣職を見事に成し遂げた実績があり、

その後、台湾総督、陸軍大臣、内務大臣、文部大臣等を歴任した大逸材である。

その児玉が、国家の危機にあたって、

兼職をやめ、進んで下級職である参謀本部次長の職に就いた。

中央統帥部としては、正に磐石の人事態勢であった。

理想論乗せて軋んでゆくレール  桂昌月

2日後の12月6日に続きます。

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