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川柳的逍遥 人の世の一家言
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美しい死語を女は抱いている  森中惠美子

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       美福門院得子

「保元物語」で、美福門院得子は、

「鳥羽院をたぶらかして世を乱させた悪女」

と書かれている。

≪この肖像画も悪意があるのか,かなりきつい顔を描かれている≫


前向きに生きた女の意地を言う  長谷川きよ子

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   鳥羽上皇

「美福門院得子」

美福門院得子は、永久5年(1117年)に生まれ、

父は藤原長実

長実は、祖母・藤原親子(ちかこ)が、

白河上皇 “ 唯一人の乳母 ” であったことから、

白河院政期には、院の判官代や別当を務めるなど、

院の近臣(権中納言)に名を連ねた。

母は左大臣・源俊房の女、方子。 

裏表開けて私と風の道  原田久枝

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               長 秋 記

 

上向き指向の長実は、愛してやまない得子を 

「ただ人にはえゆるさじ」 

 

(そんじょそこらの男なんかには嫁にやらない)

と語り (『今鏡』)、

臨終の間際には、

「最愛の女子一人の事、片時も忘るゝなし」

と落涙したという。(『長秋記』) 

わが死後を思うは自由日向ぼこ  大西泰世

 

父の死後は、二条万里小路亭で暮らしていたが、

以前から美しいという評判の得子に、

鳥羽院が関心を持ち、

長実の喪が明けるや、彼女に手紙を書き、 

「隠れつつ参り給ひける」
 
ようになり、  

「やや朝まつりごとも、怠らせ給ふさま」 

 

(ややもすると、政務もおろそかにする)

ほどだったという。 

いつも唯笑って君の傍にいる  森吉留里

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鳥羽上皇の寵愛を受け、

まもなく得子が、男児(体仁親王)を産むと、

御所内は、
恨みと憎しみが絡まって、カオスの森と化す。

白河の愛妾・璋子と叔父子と呼ぶ崇徳を冷視する鳥羽上皇

鳥羽に疎まれ、なかなか政治の実権を握れない崇徳天皇

白河と鳥羽に翻弄されつづける待賢門院璋子

国母の座を狙い野望すさまじい美福門院得子

まさに四角関係の醜い争いになっていく。  

雪憎しみて雪に似て兎死す  阪本きりり

  

鳥羽は21歳で上皇となり、

憤怒の炎を燃やす日々を送ったが、

それから6年後、40年余りにわたって院政を敷き、

独裁者として君臨してきた白河が、

77歳で亡くなると、
崇徳帝はまだ幼く、

鳥羽が、院政を引き継いで、

権力を掌握したのは言うまでもない。 

写生する人と重ねる遠い声  富山やよい

 

そして、ここから鳥羽の報復が始まった。

璋子は、入内した後も朝廷人や誰彼との浮名を流し、

鳥羽の愛情は得子へと傾いていった。

その得子が産んだ近衛が三歳になると、

鳥羽は、自分が白河にされたと同じように、

崇徳に譲位を迫り、 

「近衛を崇徳の養子の形にする」 と説得して即位させた。

従って、崇徳は新帝の父親格で、上皇になったと思い、

院政への道が開けたと喜んだ。 

三月の雲菜の花の匂いする  墨作二郎

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「恨みが恨みに帰る」

璋子は17歳で鳥羽のもとに入内し、

翌年、崇徳を産んだものの、

ほどなく、これが白河の子と明らかになり、

驚愕の噂が京を走った。

白河はこの" ひ孫 "に対して、

異常なほどの偏愛ぶりをみせ、 

崇徳が5歳になると、鳥羽に譲位を迫って即位させた。 

 

黒色火薬砂嘴種馬の蹄  井上一筒

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「得子の権勢」

永治元年(1141)12月7日、

鳥羽は崇徳に譲位を迫り、

体仁親王(近衛天皇)を即位させた

体仁親王は、崇徳帝の中宮・藤原聖子の養子であり、

「皇太子」のはずだったが、

譲位の宣命には「皇太弟」と記されていた。(『愚管抄』)

天皇が弟では、将来の院政は不可能であり、

崇徳帝にとって、この譲位は大きな遺恨となった。 

目隠しをされて大根曲がりだす  谷垣郁郎

 

近衛帝即位の同年、

得子は、「国母」であることから皇后に立てられる。

皇后宮大夫には源雅定

権大夫には藤原成通が就任した。

得子の周囲には、

従兄弟で鳥羽上皇第一の寵臣である藤原家成や、

縁戚関係にある「村上源氏」、

中御門流の「公卿」が集結して、

政治勢力を形成することになる。 

二歩三歩後ずさる軽薄な展望  山口ろっぱ

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待賢門院彰子

 

翌年の永治2年正月19日、

台頭する得子の陰で、すっかり権勢を失った璋子は、

これまでの自身の振る舞いを省み、

堀河局らとともに仏門に入る。

得子の地位は、磐石なものとなり、

久安5年(1149)8月3日、

「美福門院」の院号を宣下された。 

塩辛い水になってしまわれた  井上しのぶ

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"身を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人こそ捨つるなりけり"

勅撰和歌集に「詠み人しらず」として収められた西行の歌。

大意は、

身を捨てても(出家しても)、

その人は本当に世を捨てたことにはならない。

捨てないで、世に残っている人のほうが、

真に世を捨てたことになるのだ。

清盛はこの歌を崇徳帝の前で読み、

北面の武士として成功しながらも、

世(政)をはかなんで、

出家の道を選んだ佐藤義清の心情を代弁する。 

美男子と好男子の差を剃りあとに  森中惠美子

 

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