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川柳的逍遥 人の世の一家言
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生きていた証 地べた一面  くんじろう

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    平将門

清盛の妻は2人がわかっている。

最初の妻は、右近衛将監・高階基章の娘・明子という。

保延4年(1138)、清盛22歳の時、

清盛後の平家を背負って立つ逸材として、

期待された長男・重盛を生み、

年子で次男・基盛を生んでいる。

このころの清盛は、23歳で従四位に叙され、

仕事にも家庭にも恵まれ、充実した家庭を送っていた。 

ハンカチでつまむとあなたてるてる坊主  小林満寿夫

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しかし、次男・基盛を生んでまもなく、

明子は病に倒れ早世する。

清盛の初めて恋心をおぼえた相手でもあり、

心底から愛した明子であっただけに、

清盛の悲しみは、いかばかりのものであったか。

ただ、明白に言えることは、

父の身分がそれほど高くないので、

生きていても、
正室の地位に、

とどまっていたかどうかはわからない。

≪次男・基盛は23歳で早世しており、

  兄・重盛と違い、その活躍の記録はほとんど分からない≫

だいこんに忍び笑いの癖がある  牧浦完次

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明子の死後、清盛の正室となったのが時子である。

太治元年(1126)生まれだから、

清盛の8歳年下になる。

清盛と同じ「桓武平氏」ではあるが、

時子の家系は、高棟王流の「公家平氏」である。 

立ち位置を変えて入り日にまた出会う  笠原道子

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   平正盛

「桓武平氏」

平忠盛、清盛たちの血筋を「桓武平氏」という。

桓武平氏とは、桓武天皇の皇子の子孫のうち、

平姓を賜り、「天皇の臣下になった家」 のことである。
                                                  
桓武平氏には、いくつかの流れがあるが、

最も有名なのが、

桓武の第三皇子・葛原(かずらわら)親王の系統である。

そのうち長男・高棟王(たかむねおう)の子孫は、

京の宮廷貴族として栄え、

「公家平氏」「堂上平氏」などと呼ばれる。

清盛の妻・時子は、この血筋を引いている。 

友だちを沢山もっている音だ  森中惠美子

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一方、

忠盛・清盛が輩出した武家平氏の祖となったのが、

高棟王の弟の高見王(たかみおう)の子、

高望王(たかもちおう)である。

武勇にすぐれていた高望王は、

「平姓」を与えられ平高望になると、

九世紀末ころ上総介(かずさのすけ)に任じられて関東に下った。

当時、坂東では、徒党を組んで、

盗賊行為を働く群党の蜂起が問題になっており、

天皇家出身という血統と、武勇をあわせもつ高望に、

その鎮圧が期待されていたといわれる。 

卍から卍を盗み見る角度  井上一筒

 

やがて、高望の子孫は、

常陸や下総、武蔵など関東各地に土着し

「坂東平氏」として繁栄した。

後世、鎌倉幕府の御家人として名をはせる、

千葉、三浦、上総、大庭などは、その末裔である。 

面影はいつも笑顔で現れる  河村啓子

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     納 経

東国は、源氏のふるさとのように思われがちだが、

武士の勃興期にあっては、

平氏こそが坂東の覇者だったのだ。

「桓武平氏」に転機をもたらしたのは、

十世紀に勃発した「平将門の乱」であった。

高望の孫である将門が、

常陸や上野(こうずけ)で、大規模な反乱を起こすと、

鎮圧に功をあげた従兄弟の貞盛は、

従五位上に叙され、

その子供たちも朝廷の官位をもらい、

桓武平氏が中央軍事貴族として、

繁栄する足掛かりを得た。 

臨海を見るまで磨く大ふぐり  上野勝彦

 

このうち貞盛の子で伊勢を拠点とした維衡(これひら)は、

藤原道長など、中央の上流貴族に奉仕しつつ、

常陸や下野(しものつけ)、伊勢の受領を歴任して、

力を蓄えた。

この維衡こそ、「伊勢平氏」の祖といわれる人物であり、

正盛の曽祖父にあたる。 

場所としてアシタが見える筈ですが  山口ろっぱ

 

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