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川柳的逍遥 人の世の一家言
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微生物だらけ砂漠は生きていた  小林満寿夫

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白河上皇が眠る成菩提院陵(じょうぼだいいんのみささぎ)

     (71) 後三条天皇―(72) 白河天皇 ― (73) 堀河天皇― (74) 鳥羽天皇―

  (75) 崇徳天皇―(76) 近衛天皇―(77) 後白河天皇―(78) 二条天皇  

  ※ ≪中大兄皇子=38代・天智天皇 天智天皇7年(668-672)≫
     
「院政のしくみ」

「院政」とは、

天皇の実父(上皇)・父方の祖父(法皇)が実権を掌握し、

国を統治する政治形態をいう。

普通は8歳の息子・善仁親王(堀河天皇)に譲位した、

白河上皇が、
院庁を開設した応徳3年(1086)を、

院政のはじまりと考えられている。

ただし、院政への足がかりをつくったのは、

白河上皇の父・後三条天皇である。 

透析は中大兄皇子から  井上一筒

 

後三条天皇は、

中宮(妻)が藤原摂関家の出身ではなかったので、

藤原氏に遠慮する必要はなかった。

加えて、彼は即位したとき、すでに35歳と壮年だったため、

みずから実権をとって、政治改革を行えたのである。

その後、後三条天皇は在位4年で、息子の白河天皇へと譲位。

上皇として自由な立場で政治を行なう、

つまり、「院政を始めるつもり」 だったようだ、

が、翌年病没してしまう。 

決別のほうへいざなう鎌の月  たむらあきこ

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  白河天皇

 

その遺言には、

次期後継者だけでなく、その次の後継者まで定めてあった。

56代・清和天皇以来、

約200年も続いた藤原摂関家の政治支配から、

実権を取り戻すことが、

後三条上皇の悲願だったのである。 

止まるとき少しあばれる脱水機  高島啓子

 

白河上皇は、堀河・鳥羽・崇徳の3天皇の間、

43年にわたり、「治天の君」 と呼ばれ政界に君臨した。

※ 「治天の君」=天下を統治する君主をいう。

例えば、上皇は、以前のルールを無視して、

勝手に人事を行なったり、

寺の落成式が雨で3度中止になったのに腹を立て、

雨水を器に入れ獄につないだりと、

かなりの横暴ぶりを見せている。 

「思い通りにならぬのは、賀茂川の水、双六のサイ、僧兵だけ」

 

と豪語した「天下三不如意」は有名である。 

言わないでおこうと思うでもしかし  山口美千代

 

蛇足=僧兵とは、

寺院が自衛のため組織した武装僧侶のことで、

そのほとんどは腕自慢の農民が頭を丸めただけの人間で、

僧侶の国家試験に合格した人物は少なく、

お経を読めるものも稀だった。

ひらがながくねり鍵穴すり抜ける  谷垣郁郎

強力な「親衛隊」を持っていた白河院政の中枢機関は、

「院庁」である。

院庁は院(上皇の御所)に設置された私的機関だが、

ここから出される命令(院宣)には、絶大な効力があり、

朝廷はこれに逆らえなかった。 

待って従ってと波のペースに追いすがる  山田ゆみ葉

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上皇の力がこのように強大になったのは、

直属の武力を有していたことが大きく関係する。

それは、「北面の武士」と称する、

武芸の達人を集めてつくった親衛隊である。 

※ 北面の武士=院の北側に置いて警備などを行なったことから。

 

当時の武士の活躍は、貴族にとって驚くべきことだった。 

かごめかごめ破壊光線発射せよ  蟹口和枝

 

当時、貴族は例外なく仏教信者であった。

だから、無理な要求をかかげて入洛してくる僧兵には、

仏罰を恐れて手出しができなかった。

ところが武士たちは、平然と僧兵を討ち殺したのである。

非情に勇ましく、頼りがいのある輩だった。

つまり、上皇に子飼の武士がいるということが、

そのまま、院庁の権威を増大させる要因になっていた。 

責任をもってわたしが壊します  竹内ゆみこ

 

院政は、白河・鳥羽・後白河上皇と、

「3代・約100年」にわたって続く。

圧倒的な権力を有する白河上皇が存命中は、

鳥羽天皇も、文句を言うことが出来なかったが、

43年にも及ぶ「白河上皇の院政」が終焉すると、

鳥羽上皇の白河上皇に対する『暗い憎悪の情念』は、

第75代・崇徳天皇に向けられることとなる。 

間近では見えぬ仮面を売りさばく  前中知栄

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鳥羽上皇は、まず崇徳天皇の、

母が中宮・璋子であることから、

白河上皇が厚遇した璋子と崇徳天皇を遠ざけはじめる。

すでに鳥羽上皇の気持ちは、

上皇の寵愛を完全に失っていた璋子よりも

14歳も若い得子(美福門院)へと向いていた。

そして、得子との間に出来た子を崇徳天皇に代えて、

わずか2歳の体仁親王(なりひと)を第76代・近衛天皇として、

即位させたのである。

≪しかし、近衛天皇は17歳で夭折する≫

おなじ痛みで悪を貫くこともある  前田芙巳代

その後、藤原家のごたごたと相まって、

鳥羽上皇の四男・雅仁親王(まさひとしんのう)が、

第77代・後白河天皇として即位する。

後白河天皇は、

やはり鳥羽上皇が嫌っていた璋子の子なので、

あまり後白河天皇を推薦してはいなかったが、

近衛天皇の失敗と、時の流れに押されて、

認証せざるを得なかった。 

酔っ払った骨だから誤差を始める  山口ろっぱ

 

『崇徳上皇と後白河天皇の対立』は、

自分の愛人である璋子を、

鳥羽天皇に嫁がせた「白河上皇の暴挙」にはじまり、

その対立が、藤原摂関家の

『藤原忠通と藤原頼長の対立』につながり、、

保元元年(1156)の「保元の乱」へと結びついていくのである。

三角の波にまつわる正気と狂気  小嶋くまひこ

『白河上皇への怨み』 によって、

崇徳上皇に「酷薄な対応」を取り続けた鳥羽上皇は、 

『私が死ねば乱世になるだろう』

 

と不吉な予言をしたとも言われる。

正にこの予言が的中し、「保元の乱・平治の乱」へ、  

すべては白河上皇の死(76歳)にはじまる乱世を導く。

  

≪ちなみに、78代・二条天皇、80代高倉天皇は後白河天皇の子≫

うっかりと弔辞に拍手してしまう  安井小夜

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「お知らせ」

川柳瓦版では、誌上競詠・「咲くやこの花賞」を行っております。

これは毎年2月20日を〆とし、

翌年1月20日〆分までの12回を競うもので、

結社を越えて、皆様の参加をお待ちしております。

     
 
入選句(43句)は、翌々月の瓦版誌上で発表いたします。

投句方法 ハガキにて二句記載。

          (初回は投句料とともに封書でお願いします
     )(。)

 投句料  1年分2000円 (同人、誌友1000円)切手可 〔掲載誌料を含む〕


「平成24年度 第一回のお題」

    「始まる」  選者 森中惠美子 (2月20日締切)

投句先  572-0844
                 寝屋川市太秦緑ヶ丘11-8  川柳瓦版の会

    

拍手[3回]

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男の罪を風の罪だと思わねば  森中惠美子

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             清盛ゆかりのご神水

≪若一神社境内にある清盛ゆかりの御神水。

  開運出世の水と伝えられている≫

「清盛の名前の由来」

清盛の出生をめぐるエピソードがもう一つある。

同じく「平家物語の祇園女御」にある逸話だ。

女御忠盛に嫁ぐ際、白河忠盛に、 

「生まれてくる子が女子ならば私の子にしよう。

  男子ならば忠盛の子にして武士として育てよ」

 

といったところ、果たして生まれたのは男子であった。

忠盛はすぐこのことを白河院に報告しようと思ったが、

適当な機会がなかった。

はっとする間もなく固体になっていた  阪本きりり

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さすがに、白河院の皇子の話であり、

他人の前で、あけすけに語るわけにはいかなかったのだろう。

そのうち、白河院が熊野詣に赴くことになり、

忠盛も従った。

御幸の途中、忠盛は赤ん坊の様子を伝えようと、

白河院が休憩しているところへ参上した。

見ると道端の藪の中に、小さな山芋がたくさん生えている。

忠盛はこれを袖に入れて院の御前へまいり、

和歌に託して、 

「いもが子は はふ程にこそ なりにけれ」
 
と詠んだ。 

新任の巫女は万葉語を話す  井上一筒

 

生まれてきた皇子(清盛)をやまいもの子にかけて、 

「赤ん坊がハイハイするくらい大きくなった」

 

ということを表現したのである。

白河はすぐ気づいて、 

「たゞもりとりて やしなひにせよ」
 
『そのまま盛り採って栄養にせよ』

と告げた。 

手拍子を貼って完成させる紙  井上しのぶ

 

忠盛がそのまま引き取って、養育するよう命じたもので、

「忠盛」「ただ盛り採る」をかけてある。

駄洒落の応酬のようだが、

これで会話が成立するのだから優雅なものである。

神様遊戯ツリブネ草咲いた  くんじろう

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「清く盛ふる」

その後も、白河院はそれとはなく,

皇子のことを気にかけていたが、

あるとき皇子があまりに夜泣きが厳しいと聞いて、

次の歌を忠盛に贈った。

「夜なきすと  たゞもりたてよ  末の世に

  きよくさかふる  こともこそあれ」

『その子が夜泣きをしても大事に育ててくれ、忠盛よ。

  将来、平家を繁栄させてくれることも あるかもしれないのだから』

団子鼻ゆいしょ正しいあんたの子  富田美義

そして、この歌の下の句にある、

『きよくさかふる(清く盛ふる)』から「清盛」と名づけられたという。

もとより物語の創作であろうが、よくできた話ではある。

母に先立たれたとはいえ、

白河院や祇園女御など、時の有力者の庇護を受け、

恵まれた環境の中で、

幼年期を過ごしたのである。

沖ははるかうねりは重いものと知る  小嶋くまひこ

拍手[3回]

破戒系そのまま蛸になるだろう  岩根彰子

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   「殿上闇討」事件

≪武装して庭に控えているのが平家貞

    殿上で太刀を抜いているのが平忠盛

    家貞は忠盛・清盛の二代に仕えた。 (平家物語絵巻第一巻)≫

「殿上闇討」

長承元年(1132)11月、

念願の殿上人となった忠盛に、

反感をもつ貴族たちが相談して、

来るべき「豊明の節会」の際に、

忠盛を” 闇討ち ” にしようと企んだ。

それを知った忠盛は、懐に忍ばせた刀を抜き、

襲撃者の度肝を抜く。

後日、貴族たちは手出しができなかった腹いせに、

忠盛が宮中に刀を持参したことを鳥羽院に告げるが、

それは、木刀に銀箔を張っただけのものだったため、

上皇は忠盛の機転を大いにほめたという。 

* 豊明(とよのあかり)の節会=新嘗祭の最終日に行われる宴会。

 

赤ペンのインクが洩れる雑木林  湊 圭司

「闇討ち」などというと、暗殺を想像してしまうが、

そのような物騒なものではなく、

せいぜい乱暴狼藉を働く程度のことであったのだろう。

殺人を生業とする武士の、

しかもその棟梁に暴力を振るおうというのだから、

見上げたものだが、

その程度の嫌がらせしかできないところに、

「斜陽の貴族階級」「新興勢力である武士」の、

違いを見ることができる。

さるすべり赤い爪跡ふえている  安土理恵

もっとも、肩すかしをくらわされた貴族たちは、

直後の宴席で、さらに卑劣な嫌がらせを試みる。

天皇の命により、

忠盛が得意の舞を披露していたところ、

伴奏していた貴族たちが、急に拍子を変えたかと思うと、 

「伊勢平氏はすがめなりけり」

 

とはやし立てたのである  

紫を脇に抱えているいけず  山本早苗

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忠盛銀箔の木刀

  

伊勢平氏の忠盛が " 斜視(すがめ) " であったのを、

「伊勢産の瓶子(へいし)が粗悪で、

酢を入れる酢甕(すがめ)にしか使えないこと」 

にかけて、
このようにからかったのだ。

公衆の面前で恥をかかされ、怒りに震える忠盛であったが、

宮中の酒席ではいかんともしがたく、

悔しさを押し殺しながら、早々に退出しるしかなかった。

正解硫酸銅の青の中  井上一筒

この「殿上の事件」を清盛が知っていたのかどうか?

は分からないが、何らかの形で、

耳にする機会もあったのではないだろうか。

こうした屈辱に耐えなければならなかったのは、

忠盛だけではなかった。 

≪清盛が「鼻平太」のあだ名で呼ばれたというのは、

    このころのことである。 「源平盛衰記」≫

 

爬虫類でないが近いと言うておく  井上恵津子

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鳥羽院の寵臣である藤原家成が、播磨守であったころ、

清盛は朝夕に柿色の直垂(ひたたれ)に縄緒(なわお)の

足駄(あしだ)という貧相なかっこうで、

家成邸に出入りしていたので、

京童(きょうわらわ)は「高平太」といって笑った。

清盛は恥ずかしく思ったのか、

扇で顔を隠したが、扇の骨の間から鼻が見えていたので、

京童は、「高平太殿が扇に鼻を挟んだぞ」 といって、

その後は " 鼻平太 " と呼んだという。
 
絆創膏貼って剥がすじゃないか イタイ  山口ろっぱ

外見を笑いの種にする発想は、

「伊勢平氏はすがめなりけり」

にも通じる陰湿で幼稚なものだ。

ただし、家成の播磨守任官は、清盛が十三歳のときであり、

すでに官位を得て貴族の仲間入りをしていた。

忠盛も受領を歴任して、裕福だったはずであり、

この逸話には、かなりの誇張が混じっていると思われる・・・。 

≪が、当時の京都や貴族社会には、依然として

   平家をあなどるような雰囲気があったようだ≫

 

火葬場の横に噂が積んである  和気慶一

このような屈辱を受けるたびに、清盛はいつか、

「貴族たちを見返してやりたい」

と思いを抱いたかもしれない。

だからといって、

「いつか天下をとってやろう」

とまでは、考えもしなかっただろう。 

渋い茶の底で沈んでいる我慢  百々寿子

 

清盛は現実主義者である。

いくら貴族たちのあざけりを受けても、

彼らに公然と仕返しできる力は、今の平家にはない。

屈辱に耐え忍ばなかればならない現実を、

かみしめていたのではないだろうか。

生垣の猫のこの世をこことして  筒井祥文

拍手[3回]

帽子の下にカラスを飼っている男  奥山晴生

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        忠盛燈籠

清盛の父親、平忠盛ゆかりの燈籠は、

六波羅蜜寺からそう遠くない「八坂神社の境内」にある。

モヤモヤした伝承のベールをはぎとっていくと、

「残るは祇園女御がおそらく清盛の養母だったであろう」

との一点のみ。

その実在した女御の痕跡は、時代に翻弄されつつも、

六波羅蜜寺(京都市東山区五条通大和大路上る東)に、

いまもとどまっている。

疑問符の付かない話しませんか  清水すみれ 

「清盛出生の謎」

 

勃興期の平家は、白河法皇の引き立てによって、

力を蓄えていったわけだが、

「清盛の出生」にも法皇の存在は、

大きな影を投げかけていた。

古くから、清盛は白河法皇の「落胤」だったという説がある。

渦を巻く遺伝子しどろもどろの笑み  山田ゆみ葉 

『平家物語』ー「祇園女御(ぎおんにょうご)」の巻より。

 

白河法皇が寵愛する女性に

” 祇園女御 ”
と呼ばれる女性がいた。

京都東山の祇園に住んでおり、

正式な女御ではないが、

法皇のあまりの寵愛の深さから、このように呼ばれていた。

白河法皇はしばしば、お忍びでこの女性のもとへ通っていたが、

ある五月雨の夜、女御の邸宅の近くの御堂で、

不気味な光を発する鬼のようなものに出くわした。 

≪*女御=天皇の妻のうち、中宮の下の位≫

 

アリバイが今日に限ってありません  竹内ゆみこ 

『平家物語』によるとこうである。

 

永久年間(12世紀初頭)、白河法皇が雨の夜に、

寵妃の祇園女御を訪ねるさい、前方に鬼のような姿を認めた。

驚いた法皇は、

北面の武士として護衛にあたっていた平忠盛に、

「あの鬼を成敗せよ」 と命じた。

法皇は供の忠盛に討ち取るよう命じたが、

忠盛は、正体を見定めるべく生け捕りにした。

すると、それは燈籠に明かりを灯そうとしていた社僧で、

雨よけの蓑が灯火で、銀の針のように見えていただけだった。

白河法皇は、 

「あの者を殺してしまったらどれほど後悔したであろう。

  弓矢とる身(武士)とは感心なものよ」

 

と、忠盛の沈着冷静な行動を褒めて、

寵愛の深い祇園女御を忠盛の妻に与えた。

このときの燈籠が、「忠盛燈籠」 だ。 

整骨屋左右の靴を入れ替える  合田瑠美子

 

白河法皇から忠盛に下賜された祇園女御は 

このときすでに身ごもっていた。

 

そして、やがて男児を出産する。

それが平清盛である。 『清盛皇胤説』

≪実際は祇園女御の妹が産んだ子が、清盛だったともいわれる≫

『仏舎利相承次第』の説。(近江・胡宮神社) 

貴賓席にあなたの居場所とってある  皆本 雅

 

ご落胤伝説というと。

たいていは根も葉もない噂話にすぎないことが多いが、

清盛の場合は事情が違う。

現在、多くの歴史学者が、

「清盛の落胤説を支持している」 のだ。

清盛の尋常ではない出世のスピードを見ると、

天皇家の血筋でなければ、説明がつかないというのである。

空豆のロックンロール持て余す  前中知栄

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     岩清水八幡宮

確かに「石清水・臨時祭」に参加する清盛に、

法皇の甥である源有仁が、従者を提供しているのも、

白河法皇と清盛の特別な関係を示唆している。

12歳での「兵衛佐の任官」が、異例だったことや。

さらに不自然なのは、「平治の乱」後の急速な昇進である。

武士にとって、大きな壁である「三位」を越えて、

「公卿」に昇進してから、
わずか7年で、

人臣最高の官職である「太政大臣」に登りつめたのである。

これは、当時の慣例からして、

天皇家との血縁関係なくしては、考えられないといわれている。 

≪*公卿=三位以上の位階をもち、国政の審議にも携わる高級貴族≫

 

幾何学の都市に破調を連れ回す  きゅういち

血縁関係のことだけに、断言できる証拠はないが、

少なくとも当時の貴族たちの頭に、

清盛が「皇胤である」という認識があった可能性は高い。

これが本当なら、鳥羽法皇は甥、

後白河法皇は、甥の子ということになる。

帯状疱疹 正午前の時報  井上一筒 

後年のことになるが、

 清盛が18歳で「従四位下」に叙されたとき、

清盛が法皇の落胤であることを知らない人々は、

その出世ぶりに目をみはり、

「花族のようだ」 といぶかった。

だが、事情を知っていた鳥羽院だけは、

「清盛は花族に劣らない」 と述べたといわれる。 

≪*花族=「摂関家」に次ぐ「清華家」の家柄≫

 

強力な磁場でまん丸二分され  都司 豊 

「平家物語」の逸話だが。

 

鳥羽院が清盛を重用し続けたのも、

出生の秘密と無関係ではなかったのかもしれない。

そうであるなら、 

「清盛自身も出生の秘密を知っていた」  ということになる。

それは清盛にとって、誇り であっただろうか・・・?

あるいは、 と感じただろうか・・・? 

臍の緒よ憶い出せない川がある  古谷恭一

 

拍手[4回]

萌え系のウツボのぼんのくぼの垢  井上一筒

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      若一神社(にゃくいち)

”歴史の記憶”

清盛の居住地といえば、まず六波羅、次に福原が浮かぶが、

もう一つ京の西八条を見落としてはならない。

清盛は都の南西部に位置するその地にも、邸をかまえ晩年を過している。

「平氏盛衰の流れ」

平氏は、源氏とともに、その武力を院に重用されて朝廷に仕えたが、

「保元・平治の乱」で源氏が衰退すると、

平氏の棟梁・平清盛は急速に勢力をのばし、

朝廷での高位高官を独占し、

1179年、後白河法皇を幽閉して、

クーデターを決行、「平氏政権」を樹立した。

平氏が朝廷内で台頭するきっかけになったのは、

清盛祖父・正盛白河上皇に領地を寄進し、

院の近臣に取り立てられたことにあった。 

青空をぎゅっとつかんで立ち上がる  竹内ゆみこ

 

やがて正盛は、「追捕使」として武名をあげ、

その子・忠盛「海賊の征討」で勇名をはせ、

白河上皇の側近として仕えた。

忠盛はその後、鳥羽上皇に寵愛され、

武士としては、異例の昇殿を認められた。 

象がやってくるうらうら昼下がり  山口ろっぱ

 

父祖の遺産を継いだ清盛、「保元・平治の乱」に勝利して、

後白河法皇のもとで「公卿」に就任、

それからわずか数年で

「従一位太政大臣」にまで駆けのぼった。

それにしても、異常な昇進スピードである。 

水を得た魚がパンを焼いている  神野節子

 

これには理由があった。

実は、清盛忠盛の子ではなく、白河上皇「御落胤」というのだ。

忠盛は、上皇から祇園女御の妹を賜るが、

そのとき彼女は、上皇の子をはらんでおり、

それを知りつつ、忠盛は彼女をもらいうけ、

生まれた子(清盛)をわが子としたという・・・?。 

街に男がいましたとさ おしまい  中野六助

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『清盛御落胤説』

元永元年(1118)、平清盛忠盛の長子として生れたとされる。

はたして、清盛は忠盛の実子なのか・・・?、

一方で白河法皇のご落胤という説がある。  

「祇園女御説」

  

『平家物語』の語り本系の諸本は、

白河天皇の寵姫・祇園女御を清盛の母親とする。 

「女御は三千の鍾愛、一人のみなりけり、ただの人にはおわせざるべし」

 

といわれるほど法皇の愛情を一身に受けていた。『今鏡』 

≪女御は、法皇の乳母二位・藤原親子の娘で、

   夫は、源仲宗の子・惟清と推定されている≫

 

女御は不妊であったらしく、

法皇とのあいだに子を儲けることはなかった。

そのため、待賢門院(崇徳・後白河天皇の母)や仁和寺の僧禅覚

清盛を猶子とした。 

湧き水できれいに洗う両目蓋  井上しのぶ

 

「祇園女御の妹説」

滋賀県好胡宮神社の「仏舎利相承系図」によれば、

女御の妹が、法皇に召されて懐妊し、

忠盛が賜って生れたのが清盛で、

女御が清盛を猶子にしたとする。 

≪またその後、「姉」・「妹」が後筆で作為があることがわかり、

    姉妹であることを簡単に肯定できなくなった≫

おもい思いの想いを混ぜて日が昏れる  黒田忠昭

彼女が母なら、清盛は3歳で母と死別したことになる。

清盛の御落胤説は、

こうした白河法皇との関わりのなかから生れた説で、

清盛が平治の乱から10年にも満たない期間に、

武家として初めて、人臣の最高官位である「従一位太政大臣」

昇りつめたことなど、

その立身出世が背景にあったと考えられる。 

出生地いまだにどこか分からない  新家完司

 

「清盛クーデター」

治承3年(1179)11月14日、

清盛は福原から、数千騎の軍兵を率いて上洛し、

クーデターを励行、平氏政権を樹立する。

関白・藤原基房を罷免、配流に処し、院近臣ら39名を解官、

後白河法皇「鳥羽殿」に幽閉、全権を掌握する。 

汗一つかかず獲物をかっさらう  三村一子

 

翌・治承4年2月、高倉天皇が譲位し、

3歳の安徳天皇が皇位を嗣ぎ、「高倉院政」が始まった。

こうして高倉院政を基軸に、安徳天皇の「外祖父」として

摂政・基道を補佐し、一族を議政官に配置し、

全国の半ば近くの国々を手中に収め、

独裁的な政権を作り上げた。 

≪このクーデターが、清盛悪人説となった理由だろう≫

 

沈黙を破って椅子の叫び声  山本芳男

「何故、清盛はクーデターを起こさなければならなかったのだろう?」

清盛は武門の出身である。

祖父・正盛、父・忠盛は院の北面として、

京都の治安維持に活躍し、

一方、「海賊追討」を通して、西国の在地武士との間に私的な

支配関係・主従関係を作り上げた。

平家は西国武士の棟梁として、

その多くを家人にして、武士団の統合を進めていた。

その西国の地盤を引き継ぎ、

「保元・平治の乱」に勝利したのが清盛であった。 

うしろ髪自分で引けば気持ちいい  湊 圭史

 

武家が公卿に列することさえ異例の時代、

清盛は、従一位太政大臣に叙任され、

娘・徳子が高倉天皇の女御として入内、

ついで、「中宮」となっている。

このような栄達は、貴族たち、とくに院近臣たちの平家に

対する反感を高める結果となった。 

≪これは、武家である平家が、古くからの「貴族政権」のなかに入り込み、

  栄達を求めたことに起因する、歴史的必然であったと考えられる≫

 

謎かけのもぐら競わす西日部屋  阪本きりり

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西大路通りに面して聳え立つ若一神社前の大樹

≪中央の楠の大樹は清盛お手植えと伝えられる神木≫

 

「盛衰」

こうして極官についた清盛は、

平氏一門をどんどん高位高官に取り立てた。

結果、公卿16人、殿上人30余人に達し、

平時忠などは、「平氏でなければ人ではない」 と豪語した。

また、平氏一門の知行国は30ヵ所を超え、

所有する荘園は、500ヵ所以上におよんだと伝えられ、 

日本の半分以上が、平氏の持領となり、盤石な経済的基盤が確立された。 

 

* 知行国=朝廷から与えられた国

 

花園を探しに行った春眼鏡  清水すみれ

くわえて、宋(中国)との貿易を積極的に行い、

莫大な富を手中におさめた。

さらに清盛は、摂関家同様、

娘の徳子高倉天皇に輿入れさせ、

念願の皇子(のちの安徳天皇)が誕生すると、すぐに皇太子とし、

1178年に帝位につけて、外戚として権力をふるった。

同時に、摂関家の反感を買わぬよう、

娘の盛子関白・基実の妻にしている。 

目の前の小鳥を掴む前祝い  筒井祥文

 

ただ、平氏は朝廷での栄進に強く執着したため、

武士としての性質が薄れて貴族化し、

地方武士とのつながりが弱まってしまった。

清盛はこの弱点を補うため、

諸国の荘園・国衙領(公領)の地頭の任免権を獲得、

畿内や西日本の武士たちを地頭に任命して、

組織化をはかったが、

鎌倉幕府のように徹底されなかったために、

「治承・寿永の乱」で源氏に敗れ去り、

わずか数年で、平氏政権は崩壊してしまった。 

くしゃくしゃとぐちゃぐちゃ車庫入れの時間  岩根彰子

 

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