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川柳的逍遥 人の世の一家言
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石ころと本気で対話する男  嶋澤喜八郎

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平安遷都を指揮する桓武天皇

"泣くよウグイス"で知られる平安遷都。

桓武天皇、わずか10年で長岡京を廃し、

794年、京都へ遷座した。

実はこの遷都は、早良親王の怨霊から逃れるために、

挙行されたと伝わる。

ウソのような話だが、当時の人々は、

真剣にたたりを信じていたのだ。

≪桓武天皇は晩年、

    早良親王の霊を鎮めるために崇道天皇の称号を贈り、

    その遺骨を大和に改葬して正式な天皇陵に指定した≫

この後、平安時代は、400年の歴史を刻むことになる。 

三寒四温きょうは愉快なほうである  岡田陽一

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「摂関政治」

平安時代に登場した「摂関政治」というのは、

天皇の外戚が、摂政や関白の地位について、

天皇の後見として、一切の政務を代行するシステムである。

とくに「摂政」は、天皇が幼少であったり、

女帝である際にもうけられ、

聖徳太子、中大兄皇子のように、

皇太子があてられるのが通例だった。

だが、貞観8年(866)、

清和天皇の外祖父・藤原良房がはじめて「摂政」につき、

息子・基経に継承されて、

藤原北家による実質的な「摂関政治」が、

11世紀末まで、150年以上にわたって続いた。 

動物園から春の欠伸がもれてくる  山本昌乃

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ところで、「摂政・関白」に就任するには、

天皇の外戚であることが、必要条件だった。

だから、なんとしても、

娘を天皇の妻としなければならなかった。

ゆえに、愛娘には紫式部清少納言のような、

優秀な家庭教師をつけ、最高の教養を身につけさせて、

天皇が気に入るような妻女に育て上げた。 

乾いても一人で飛べぬ濡れ落葉  田中荘介

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摂関政治の全盛は、藤原道長の時代である。

彼は運のいい男だった。

摂関職にあった兼家の四男で、

普通なら実権を握るのは困難なのだが、

兄たちが次々と伝染病で没したうえ、

兄の娘たちに皇子がいなかったため、間際をぬって、

娘の彰子一条天皇の中宮とすることに成功、

幸運にも皇子(後一条天皇)を得て、外戚となったのである。 

ひざまずくたったひとつの林檎のために  小嶋くまひこ

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       道 長

 

続いて道長は、妍子(けんし)後三条天皇へ、

威子(いし)後一条天皇

嬉子(きし)後朱雀天皇へと、

なんと四娘を皇后にすえるという、
前代未聞のことを成しとげ、

約30年もの間、比類なき権力者となった。

"この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思えば"

≪余談だが、紫式部は道長の愛人であったという噂があり、

   道長が光源氏のモデルであったとされる≫

心配をお尻に敷くと気が楽に  桶爪良紀

「院政へ」

摂関時代は、天皇の外戚である「藤原摂関家」が、

次期天皇の決定を左右してきたが、

白河法皇の父・後三条天皇は、母も天皇出身だったため、

自身の手で次期天皇を決め、譲位することができた。

白河法皇はそれに倣い、次期天皇を決めてから譲位し、

幼い天皇を後見する「法皇」として、

国政を司るようになった。

こうして、国政の主導権は、藤原摂関家から、

院に移ることになる。 

葬列はキシリトールを漂わせ  くんじろう
 

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「大饗」とは、藤原忠通邸で氏催された大饗図

≪大饗とは、摂関家が正月2日に

 親王・大臣以下の公卿・殿上人を自邸に招く慣例の儀式≫

 

もっとも、これで藤原摂関家が没落したわけでなく、

政治力をやや低下させたものの、

天皇家に次ぐ「権門」としての地位は、確保していた。

藤原道長から数えて、三代後の師道(もろみち)の没後、

藤原忠実が内覧、氏の長者となる。 

麦の穂病室にまでのびてゆく  湊 圭史

 

忠実は、「院政」という新たな政治形態にあわせ、

摂関家を天皇家の外戚として権力を握る「権門」から、

「摂政・関白」を世襲する最大の公家へと、

再構築していった。

忠実は、鳥羽天皇のときの「摂政」・「関白」。

≪保元元年(1120)、白河上皇の勅勘をうけ内覧を停止された。

    天承元年(1131)勅勘を許され、翌年内覧の宣旨を受けている≫

仏壇へ千秋楽の永久歯  岩根彰子

摂関家の家領・荘園の獲得と、荘園群の編成、

家政機関や家内法(公家法)の整備、

摂関家に仕える武者を、独自に武力編成するばど、

独立した勢力として、動ける「権門」につくりかえていった。 

ウニ丼に付き添ってきたポセイドン  井上一筒

 

河内源氏・源為義は、伊勢平氏の平正盛・忠盛が、

白河、鳥羽院政と結んで、

勢力を拡大していくのに対抗し、

摂関家の武力として、子どもらを地方に派遣し、

諸国で重代の家人を組織していこうとした。 

一本の黒髪たどる水になるまで  増田えんじぇる

 

この動きのなかで、忠実は、

中庸の道をあゆむ嫡子・忠通より、

狷介だが、才能豊かな頼長に目を掛け、

頼長に摂政・関白・氏長者を、譲らせることを考えた。 

遺言に全部きみへと書くからね  高橋謡子

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    藤原忠通

藤原忠実の長子に忠通

母は右大臣・源顕房〔あきふさ)の娘。

摂関家の嗣子として、19歳で内大臣に任ぜられ、

保安元年、父にかわって関白となる。

法性寺(ほうしょうじ)関白と称された。

父の忠実が勅勘を許され、内覧の宣旨を受けると、

父子の不和が目立つようになる。 

右半身の真空パック承る  蟹口和枝

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     藤原頼長

二男・頼長は、宇治の左大臣「悪左府」と称される。

母は、藤原盛実の娘。

父の期待を一身に集め、父・忠実の尽力により、

29歳で従一位に至った。

忠実は頼長のほうを偏愛したため、

もともと不仲だった兄と弟の間に、

入内競争と家督争いが、表面化していく。

久安6年(1150)、

忠実が忠通から家督を剥奪して、

頼長に与え、両者の対立は決定的となる。

甲冑の中に届いている夕日  たむらあきこ

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