心太として手際よくデビュー 山本早苗 道外武者御代の若餅 (歌川芳虎) 「君が代よつきかためたり春はるのもち」 「其絵様中の紋章等にて察すれば、織田信長が明智光秀と共に餅をつき、 其つきたる餅を豊臣秀吉がのしをし、徳川家康は座して其餅を食する図 なり、要するに徳川家康は巧みに立廻りて「天下を併呑するに至りしと いへる寓意なり…」宮武外骨著『筆禍史』 <餅搗の瓜の花の紋所の武者は「信長」。餅をこねる桔梗の紋の武者は 「光秀」。猿柄の陣羽織を着て、餅をのしている猿顔の武者は「秀吉」 餅を喰べている武者は「家康」である> 「麒麟」は、いったいだれなのか。まさしく、天下取りの面々を集めた はんじ物で嘉永2年閏4月8日の配り。
一生に二度は乗れない霊柩車 櫻田秀夫 「麒麟がくる」 変後、光秀の11日間 「各記録が教えてくれる光秀の変後」 本能寺の変の直後、光秀はまず多くの兵卒を洛中の「町屋」へ派遣して 「落人」を厳しく探索した。そのため京都の騒動は甚だしい状態だった という。(『信長公記』) 光秀自身は躊躇なく「大津通り」を下向し、織田権力の拠点・安土城を めざした。これは当初からの計画通りだったようで、未刻(午後2時ご ろ)に、吉田兼和は粟田口において光秀を出迎え「在所」の保全を依頼 している。(『兼見卿記』) 瓢箪を出れば我がもの顔の駒 岸田万彩 間もなく光秀は、瀬田に到着し、山岡美作・対馬兄弟に明智への協力を 求めた。しかし、山岡兄弟は瀬田の唐橋と山岡館を自焼して山中へ退き、 抵抗する意思を示した。ここで光秀は、唐橋の橋詰に「足がかり」を拵 えて、橋の修復を進め、いったん北上して坂本城へ入った。 (『信長公記』) また光秀は、別動隊を宇治に送り、京都ー奈良街道を遮断した。 (蓮成院記録』) 根に持つ性格ですから葉桜は 森田律子 一方、安土城では、2日の巳刻(午前十時)には、早くも光秀の謀反と、 信長・信忠の自害が伝わった。安土の人々は「信長横死」の情報が呑み 込めず「言葉に出して大事と存知、初めの程は目と目を見合わせ、騒ぎ つこと大方ならず」という状態であった。 しかし逃れてきた「御下男衆」らの情報から、信長の死が「必定」だと 認識され、ようやく人びとは、財産や家を棄て、家族を引き連れて美濃 尾張へと避難した。安土城に詰めていた山崎片家は、安土の屋敷を焼き、 居城の山崎へと退却した。 小指から人差し指に降格す 蟹口和枝 「本能寺の変」が起こったとき、混乱する城内で、安土城の留守居役で であった蒲生賢秀は、信長の上臈衆、子女を居城の日野へ非難させた。 上臈衆は退去する際、天守にある金銀、太刀などの宝物を取り出す事、 そして城を焼くべきと主張した。しかし、希代無欲を貫く賢秀は「天下 無双の御屋形」である安土城を焼くことは「冥加なき次第」であり、且 金銀の取り出しは「都鄙の嘲弄(とひのちょうろう)」を受けるとして、 この提案を一蹴した。 菜の花菜の花黄色の絵の具足りません 浅井ゆず のちに光秀が、莫大な恩賞により賢秀を勧誘するも、賢秀は、一貫して これを拒絶した。この光秀の勧誘を拒絶した律儀さにより「日野の頑愚 どの」との異名を受けた。しかし、一方で安土城に火を放たず、財物を そのまま残し退去したので「明智方に日野城まで、攻め込まれるのを恐 れてそのままにした」と臆病者、小心者との評価もある。 味方だと思い込んでいた敵の敵 笹倉良一 4日、瀬田を越えた光秀は、安土城に入城した。(『多聞院日記』) このとき、光秀と接触していた兼見は「蒲生父子が明智軍に反抗せず、 城を譲渡した」と認識。そのため、無血入城に近かったものと考えら れている。(『兼見卿記』) この時光秀は「信長の財宝を部下に分与し、家臣たちの歓心買おうと した」とある。(『日本耶蘇会年報』) 一方光秀の軍勢は、さらに近江北部へ展開し、北上して丹羽長秀の居城 佐和山城を攻めた。このとき、若狭守護家の武田元明が明智方として城 攻めに参加している。その落城後は、やはり明智方へ転じた山崎片家が これを守った。 接戦を制して湧いてきた自信 吉岡 民 さらに羽柴秀吉の「家城」だった長浜へは斉藤利三が入り、地元の有力 土豪・阿閉貞大(あつじさだひろ)が明智方に加担して長浜城を守った。 (『多門院日記』) この5日時点において、光秀の近江制圧が順調に進んだことが強く印象 付けられ、一時、光秀支援の先鋒隊を引き上げさせた大和の筒井順慶も、 ふたたび近江へ進撃して光秀「一味」に加わろうとした。 切れ長の目に翻弄されて現在地 魚住幸子 「蛍大名」ご呼ばれた近江の・京極高次 実際、光秀は山岡氏や蒲生氏の抵抗を受けつつも、かつて守護職の流れ をくむ、近江北部の京極高次、おなじく若狭の武田元明を味方につけて おり、着実に版図(はんと)を広げているようにみえた。 当時、北陸戦線を収拾して、光秀打倒の軍をまとめようとした柴田勝家 も近江一国が、ほぼ光秀に制圧されたと認識していた。 ユニクロを着たカモシカを補色する くんじろう 武田元明の妻・京極竜子 女好きの羽柴秀吉は竜子の美貌にメロメロ。 元明が秀吉に討たれて死後に側室となり兄・京極高次の出世につなげた。 6日になり、吉田兼和は誠仁(さねひと)親王の依頼を受けて、安土城 へ勅使として派遣された。これは朝廷が光秀の政治的立場を認めたこと でもあった。 7日に兼和は、安土城において光秀と対面し「謀反之存分」を雑談して いる。(『兼見卿記』) 「謀反之存分とは」 <「謀反は大罪」であり、光秀が自らの行動を「謀反」と表現すること はありえない。謀反・反逆のことばに変えて、光秀は「討果」「相果」 「誅」等の言葉を書状では使っている。よって「謀反」とは、あくまで も兼見の表現で使っていること。ということは、兼見は、光秀のしたこ とは悪事と決めつけているのである。こうした変の善い悪いを、二人は、 どのような顔で、雑談として会話したのだろうか> ひょっとしてあの冗談は本音かも 荒井加寿 ところで、畿内・近国における信長の子息たちは、どのような状況だっ たのだろう。当時、四国攻め直前で堺に在陣していた三男・織田信孝と その補佐役の丹羽長秀は「本能寺の変」の情報が伝わると、光秀の娘婿 だった津田信澄(信長の甥)を大坂で殺害した。光秀と気脈を通じてい ると認識したのであろう。しかし、こうした疑心暗鬼の雰囲気は、軍勢 にも伝わり、信孝、長秀らの軍勢は、四散してしまい「一向無人之山」 (『蓮成院記録』)「左右に侍スル所、わずかに八十余騎」(『丹羽家 譜伝』)という状態に陥り、単独での行動が取れなくなった。 真っ先に僕が消された消去法 雨森茂樹 一方、伊勢・伊賀を束ねる次男・織田信雄(のぶかつ)は、光秀を討伐 するために土山まで出陣したが、背後の伊賀では「信長ニ所領ヲ奪ワレ シ伊賀ノ浪客」らが蜂起したため(『武徳編年集成』)やはり自軍のみ で行動できず、日野の蒲生氏との合流を模索する、ありさまであった。 片や、光秀方も比較的至近にいる信孝・信雄と安易な衝突を避け、あく までも無理をせず、自軍の温存に努めていた。 9日、光秀は京都に戻り、公家衆の出迎えを受けた。光秀は、自己の正 当化を図るため御所へ銀五百枚、五山に百枚、大徳寺に百枚送っている。 (『兼見卿記』) 現金は綺麗な言葉より強い 新家完司 (拡大してご覧ください) 細川藤孝 筒井順慶 「友達なのに、最期の最期で明智光秀を見捨てた三人の盟友」 その直後、光秀は、羽柴秀吉の東上を察知し、下鳥羽に出陣する。 ちなみに、同日に出された細川藤孝宛の光秀覚書によれば、光秀は「藤 孝忠興父子が味方する」と信じていた。(『細川文書』) 藤孝は剃髪して信長への弔意を示し、光秀との距離をあけ、さらに忠興 は光秀の娘だった妻・お玉と離縁した。(『細川家記』) 光秀は若狭国、摂津国を与える旨を伝え、再度帰順を促した。が、6月 8日以前に藤孝は、丹羽長秀とも連絡を取り「反光秀」を表明していた。 (『松井家譜』) 只、かつて丹後を治めていた守護家・一色氏も不穏な動きをみせており、 藤孝・忠興も明確な態度を示せなかったようである。 とりあえず忠興も三戸野(京丹後)へ幽閉したのみで、実家明智家へは 返しておらず、完全に袂を分けるまでには至っていない。一方、痺れを 切らせた丹波北部の光秀軍は、丹後の区域に入り、一部の藤孝軍の域を 占拠していた。(『細川文書』) 麒麟の目寂しい冬の動物園 藤本鈴菜 大和の筒井順慶も、大和という京都に近い分国であった為、あえて旗幟 を鮮明にしない曖昧な態度を貫いた。 さらに高槻城主の高山右近は、本来中国攻めで光秀軍と合流するはずで あったが、「本能寺の変」によって、光秀方につくことを拒否した。 光秀は、右近がキリシタンであることから、宣教師・オルガンティーノ をして、帰順するよう説得を試みたが、成功しなかった。 なにはともあれ、光秀は畿内近国の制圧に奔走が奏功して、武田・京極 氏などの守護家を味方につけるなど、一定の成果を収めつつあった。 しかし、織田方に服属していた武将や国衆は事態の推移を見極めようと したため、明確な態度は取らなかった。 右脳から雫がポトリ蓮の池 今井弘之
[4回]
臨時ニュースキャベツの芯がえらいこと 雨森茂樹 「大日本名将鑑 織田右大臣平信長」月岡芳年 「臨時ニュースです」 天正10年6月2日未明、本能寺において、天下統一目前の織田信長を 家臣の明智光秀が暗殺するという事件が起こりました。怨恨による個人 的突発的事件か別の動機があるのかと騒がれましたが、このほど「計画 的な反抗」であったことが判明。それは親交もあり、信長の旧来の敵で ある上杉家へ、光秀はあらかじめ使者を送り、本能寺の襲撃計画を伝え ていたというのです。光秀が、信長の敵と同盟してまで、主君を倒そう としたのは何故なのか。その背景に「信長の改革」に対するさまざまな 勢力からの「反感と抵抗」があったものと推察されています。 これはまさに、日本の歴史の流れを断ち切る事件ともいえるものです。 悪事決行白い手袋はめながら 城後朱美 「殿、それはいかがなものでしょうか」などと、いくら正論であれ 上司に諫言してはならない。恵林寺問題で信長に諫言した光秀は、 信長の怒りを買った。 「麒麟が来る」 本能寺の変へ 【明智光秀が謀反を決めた日】 天正10年(1582)春、光秀55歳。光秀は武田家を滅ぼした信長 の甲州征伐に参陣した。諏訪の法華寺で開かれたその論功行賞の席で、 光秀が信長から折檻を受けたという逸話が伝わる。これが「本能寺の変」 の遠因とする説もある。が、これは後世の創作の可能性が高い。むしろ 5月15日からの徳川家康らの饗応をめぐる確執は、それが変の原因か どうかはともかく、信憑性の高いものと考える向きが多い。 光秀は、安土城で家康の接待中に、突然に信長から「中国地方へ出陣せ よ」との命を受けた。その後、準備のために丹波亀山城へ戻った光秀に、 「信長から使者が来た」 何事かと光秀はいぶかしんだ。 真実という劇薬を処方され 都司 豊 光秀・謀叛の理由の1 出雲・石見への国替えに苦悶する光秀 使者は次のように伝えた。 「光秀の丹波・近江の領地は召し上げ、代わりに出雲・石見を宛がう」 (明智軍記) 丹波・近江は、かつて信長のために粉骨砕身した褒美として与えられた 領地であったはず。こここそと自分の土地として今日まで営々と領民と 慈しんできた。それを召し上げ、代わりに、今だ敵の領地である「出雲 石見に行け」という。武士を土地から切り離し、全国どこへでも移動を 命じようとする。信長の政策は、これほどまでに容赦のないものであっ たのか。使者の伝達を受けた光秀の、その後の動向は、不明で筆まめで 知られる吉田兼見の日記でも5月17日から4日間が空白となっている。 その口がいつも火種になっている 河村啓子 光秀謀叛の理由の2 饗応役解任に抵抗をした光秀は、信長の勘気に触れる。 殴打するのは森蘭丸。 省みれば、四国の長曾我部氏も、まもなく同じ運命にあおうとしている。 光秀の胸中には、さまざまな思いがよぎったに違いない。義理や名誉を 重んじる光秀にとって、自分を頼ってきていた長曾我部氏が過酷な処分 を受けるのは耐え難いことであった。 「四国遠征軍の出発日は、6月2日に迫っていた」 奇しくも同じ6月2日、信長は京の都にいるはずだった。中国出陣を前 にして、何事かを朝廷に言上する予定だったからである。 「もはや、信長をこのままにしてはおけない」 光秀の胸中に殺意が固まったのはこの時であったはずである。室町幕府 将軍の追放、武士階級の再編成、天皇の権限への介入…。と、 さまざまな理由が…、光秀の胸中を駆けめぐった。 踏まれてから気づきはじめる自尊心 畑 照代 【上杉景勝への密使】 江戸時代を通じて、上杉家の一部の人にしか閲覧が許されなかった資料 がある。この中に明智光秀の名前が記された書状があった。 それにしても光秀は、この書状をいつ、認めたのだろうか。 当時の交通事情では、使者が上杉氏のもとの到着するまでには、どんな に急いでも3、4日、場合によっては一週間程度の要したと考えられる。 ということは、光秀は、6月1日よりかなり前に「信長打倒」を決意し、 諸大名に呼びかけていたことになる。すなわち「本能寺の変」は決して 突発的な事件ではなく、極めて計画性の高い大がかりなもの、であった ことになる。 消えかけた感情線を引き直す 山本さくら 「密使の内容」 『昨日自明智所魚津迄使者指越』 (いっさくじつあけちのところよりうおづまでししゃさしこし) <一昨日、明智光秀が越中の魚津に使者をよこしてきた> 一昨日とは、6月1日、つまり「本能寺の変」の前日のこと。 魚津城は当時、上杉家の勢力圏であった。光秀は「本能寺の変」の前に、 信長の敵・上杉氏に使者を送っていたのである。使者が伝えた内容とは、 『御当方、無二御馳走申し上げるべき』 <上杉家は、最大限の援助を申し上げるべきである> 言葉遣いからみて、上杉氏が援助すべき相手は、将軍義昭だったと推測 される。つまり光秀は「かつて信長と敵対して都を追放された義昭のた めに上杉氏が働くよう」にと伝えたのである。光秀はこの時すでに信長 に反逆し、諸大名と連携して、義昭を担ぎ上げ、時代をふたたび室町の 世に戻そうと考えていたとみえる。 理想論だったと思う今思う 津田照子 明智軍の進軍ルート 「変、前日」 ひと足先に入洛していた織田信忠は、父・信長が近日中に京にやってく ることを知り、徳川家康・穴山梅雪らと予定していた堺への物見遊山を 取り止め京に残ることにした。5月29日、家康と梅雪は予定通り堺に 向かう。まさに運命の分かれ道である。堺に向かった家康は。いわゆる 「神君伊賀越え」で命拾いし、京に戻った信忠は、光秀の軍門に下るこ とになる。 亀山城入城の翌日、愛宕山に登った光秀は、宿坊に泊まり、翌28日に 「愛宕百韻」に参加、「ときは今…」の句を詠んだ。 謀叛の決意を如実に示した連歌会である。愛宕山から丹波・亀山城に戻 った光秀は、備中出陣の用意を本格化させ、29日には、玉薬(弾薬) 兵糧などを西国に向けて発送している。が、これは偽装工作であった。 企みをひっそり詰めた柿の種 中川隆充 亀岡市曽我部町法貴明智岩(通称・明智戻り岩) 摂津と丹波とを結ぶ峠道にある大岩。 ここで京・本能寺へとコースを変更して逆戻りしたと伝える。 そして6月1日夜、1万3千人を率いて光秀は、同城を出立した。 本来備中へ向かうのであれば、西へ進まないといけないが、明智 方は、丹波・山城国境の老ノ坂を経て、沓掛で三段に分けた将兵 に食事を摂らせた。 この時、光秀は、安田作兵衛らを先発させて本能寺の物見(偵察) を命じると共に、馬廻りに「本能寺に注進するような者がいたら、 容赦なく斬り捨てろ」と命じたという。 沓掛は、京と西国の分岐点にあたる。 そして出陣時に言った通り、「馬揃えをお見せする」という名目で 明智軍は京への道を進んだ。 複雑なシナリオ酢昆布が臭う 山本早苗 同日、信長は公家たちの訪問を受けていた。勧修寺晴豊の「天正十年夏 記」6月1日の日記には、この時、信長は、2月に要求した「暦の変更」 を再び突き付けて強く迫ったとある。このままでは、いずれ信長の言い なりにならねばならぬことは明らかだった。 そして、そのあとは、博多の豪商・島井宗室や先の公家らと、本能寺で 深夜まで茶会を催した。 カレンダーに印ついてる何だっけ 下谷憲子 森蘭丸(左)を退け信長(右)に迫る安田作兵衛(中央) 「変、当日」 6月2日未明、光秀一行は桂川に到達する。光秀はここで新たな触れを 出し、兵たちに臨戦態勢をとらせた。『明智軍記』に書かれている有名 な「敵は本能寺にあり」のセリフは、桂川を渡り切ったあたりで発せら れた。卯の刻(午後6時頃)明智本隊は、ひたひたと本能寺を取り巻き 鬨の声を「どう」と挙げて、弓や鉄砲を撃ち込む。 夜半に寝付いた信長は、ただならぬ喧騒に目を覚まし、矢玉が撃ち込ま れるに及んで、謀叛んを確信する。信長は「これは謀叛か。如何なる者 の企てぞ」と小姓・森蘭丸に問うた。すぐさま蘭丸は、屋外に出て寄せ 手の旗幟を確認し、「明智の者と見え申し候」と言上する。 蘭丸の報告に接した信長は「是非に及ばず」と口にし(『信長公記』) 当初は弓、次いで槍で明智方と戦う。 正面の顔がやっぱり阿修羅像 小林満寿夫 本能寺の激闘 最初、信長は弓で戦ったが、弦が切れてしまったため、槍をとって 押し寄せる明智勢に抗った。 太田平春永(信長・右)保利蘭丸永保(中央)安田宅兵衛(左下) しかし織田方は、信長の他は小姓などが百人少々いただけという多勢に 無勢であったため、やがて肘に傷を負った信長は、本能寺の建物の中へ 入っていく。これを見た安田作兵衛はなおも信長に追い縋ったが、蘭丸 に遮られた。この後、蘭丸は十文字槍、作兵衛は槍で戦い、蘭丸は討死。 その間に信長は御殿に火を放って自刃する。 戦闘は一時間程度で終結した。 カサコソと抱いた骨壷から返事 桑原伸吉 一方、妙覚寺にいた信長嫡男・信忠は、明智の謀反をしり本能寺に駆け 付けようとするが、京都所司代である村井貞勝が来て、本能寺がすでに 焼け落ちたことを告げ、二条御新造に立て籠もるよう進言した。二条御 新造に移った信忠は、みずから陣頭に立ち獅子奮迅の活躍をしたという。 あまりの奮戦に、明智軍の先手組がいったん退き、二陣の寄せ手と入れ 替わった。(と『明智軍記』は記す) やがて京都市中にいた将兵が駆け付けたことから、二条御所の織田方は 500人以上になっていたというが、1万3千人を擁する明智方の敵で はない、信忠の奮闘もここまで。最期は、家臣の鎌田新介に介錯を務め させ、自刃する。26歳だった。 太陽の裏へご一緒致します 井上一筒
チャルがゆれて架空が色づいた 森井克子 都名所之内 愛宕山之図 「麒麟がくる」 光秀愛宕百韻 「応仁の乱」という革命の発端から百数十年続いた乱世で、悉く秩序は 壊れた。その反動として、人々は秩序を求めた。 その一例が「連歌」の流行である。連歌は平安末期、京の宮廷とその周 辺で生まれ発達、一人が和歌の上の句を詠むと他の一人が下の句を詠み、 最後の挙句まで、繋げて楽しむ遊びである。 順序として、先ず「発句」で始まる。「発句」は挨拶の句とされ、通常 はその会の主賓が詠む。傍からみれば、七面倒くさいものだが、座の人 々はその制約をよろこび、一座の秩序に服した。「連歌」とは、4,5 人から10人ほどが一座をなし、第一句(発句)を一人が詠むと、第二 句(脇)、第三句(第三)、最後の「挙句」というふうに、人々が順次 詠みあう形式に発展し、規則として固定化した。 指を折る音色に今日をかけてみる 今井弘之 里 村 紹 巴 明智光秀が連歌会に初めて参加したのは、永禄11年(1568)11 月15日に催された百韻興行で、連歌師の里村紹巴(じょうは)の一門 である昌叱(しょうしつ)心前のほか、細川藤孝ら12名が参加して催 された。紹巴が12句、藤孝が10句を詠む中で、光秀はわずか6句し か詠んでいない。それは光秀が、信長配下となって日が浅く、また連歌 の熟練度が相当レベルまで達していなかったからだろう。 光秀は判っているだけで、生涯で50数回の連歌会を主催あるいは参加 したといわれている。天正5年以降になると、光秀の連歌熱はいっそう 高まることになる。 秋風に晒す薄っぺらい矜持 徳山泰子 「光秀の連歌経歴」 天正5年4月5日から7日の3日間にわたり、光秀は京都の愛宕山千句 の「賦何(ふすなに)連歌」を興行した。参加したのは紹巴やその一門 に加え、藤孝も招かれていた。千句の興行の場合は、百韻を十回繰り返 すハードなものだった。以降、光秀はハードな千句の興行に力を入れて いく。 天正7年7月18日、光秀は居城の丹波亀山城で、千句の賦何連歌を興 行した。天正9年1月6日にも、光秀は居城の近江坂本城で、連歌会を 催しており、かなり嵌っていたようだ。 元亀元年の「比叡山焼き討ち」後の坂本城築城工中にあった次のような エピソードがある。 瓢箪を磨いていると葉書あり 高野末次 「三甫という人物が <浪間より かさねおける 雲のみね> と発句を詠む と、光秀は <いそ山つたへ しげる杉村> と即、脇句を付けた」という。 光秀の脳内は、連歌のこと半分、戦のこと半分だったようだ。 脳回路は真綿色からミモザの黄 山本早苗 天正9年4月12日には、丹後宮津の細川忠興に饗応膳に紹巴とともに 招かれ、そのあと「連歌会」を催している。 また、光秀は戦場に立つ先々で 「ほととぎす いくたひもりの 木の間哉」とか「夏は今朝 嶋かくれ行く なのミ哉」などと発句を口ずさんでいる。 前者は生田の森を、後者は明石から見える淡路島を詠んだものだろうか、 光秀が連歌に大層、ご執心であったことが伺える、記録である。 そして「本能寺の変」まで7日前と迫った天正10年5月28日、 愛宕山の西坊へ紹巴を招き「連歌会」を催した。 参加したのは、当代隋一の連歌師・里村紹巴、昌叱、兼如、心前、行祐 (ぎょうゆう)、宥源(ゆうげん)、光秀子息の十兵衛光慶、家臣の東六 郎衛行澄らであった。 思い出はやさしく口惜しさは強く 中村幸彦 愛 宕 百 韻 この「連歌会」は、「発句から挙句まで百句詠む」という形式のもので 「愛宕百韻」と呼ばれる。この前日、光秀は戦勝祈願をするため、愛宕 山に入った。愛宕山には愛宕神社があり、愛宕勝軍地蔵が祀られている。 光秀が謀叛を決意していた証だろう。光秀は、2度3度と神籤をひいた、 という。 やがて会は「ときは今 あめが下知る 五月哉」と光秀の発句で始まった。 「とき」は土岐氏の一族である光秀自身を指し「あめが下知る」は天下 を治める、という意味が込められている。と解釈されてきた。 満月を君は寂しい月という 宮井いずみ 里 村 紹 巴 「その前に、連歌の基礎的知識として」 連歌師宗匠・紹巴が連歌についてルールを述べている。 「連歌の発句は「切字」というものが入っておりませんと、発句とは言 えません。もし切字が入っておりませんと、それは「平句」ということ になり、まずいのであります。また発句には、必ず「季語」が入ってい なければならず、無季の発句というものはありません。「俳諧」の発句 も、まったく同じです。切字と季語を必須の条件とします」。 即ち、発句はすべての起こりとして、ここから変転、果てしない連歌の 世界が始まるのです。 狙いますあなたのハート鷲摑み 藤内弥年 そして二番手の「脇」は、発句に添えて詠み、座を仕切る亭主が詠む。 「当季、体言止め」とする。体言止めとは、句の最後を体言(名詞)で 終えること。そうすることで、余情・余韻が残るということ。 (「挙句の果て」の「挙句」は、この連歌を起源としている) ふわり雲失くしたものが出てきたは 山本昌乃 「第三句」は、相伴客あるいは、宗匠の次席、にあたる者が詠む。 発句・脇句の次にくる17字の付句。発句と同じ季語を入れること。 「脇句」からの場面を一転させ、多く「て」で止める。 「第三も脇の句程わなくとも、是も発句に遠からぬ時節をするべし。 発句、真名字留の時は、第三まな字留は、かしましき也」(長短抄) 第三句は、転回をしなければならないルールがあり、前句には付け るが、そのもうひとつ前の句からは離れる。 次の「第四句」は「軽み」と「あしらい」を要求される。 これも、ルールである。 では、どのようにあしらうか。あしらうのにもかなりの芸能がいる。 栄養不足の脳へ刻む哲学書 靏田寿子 では光秀が主催した「明智光秀張行百韻」をルールに合わせみてみよう。 時は今雨が下しる五月哉 光秀 水上まさる庭の夏山 行佑 花落る池の流れをせきとめて 紹巴 発句に光秀は、「時は今雨が下しる五月哉」と詠みあげ、 続いて脇が、「水上まさる庭の夏山 と詠む。 第三句は「花落る池の流れをせきとめて」と続いた。 針金で縫いたいほどの心傷 伊藤良一 光秀が美濃の「土岐源氏」であることは、席につく誰もが知っている。 光秀の華麗な「暗喩」に富む句は、土岐の世が来るということを「時」 でほのめかし、その時こそ「五月の雨」の季節であり「雨は天」と掛け、 「しるは統べる」に重ねた。 脇を付けた愛宕西之坊威徳院住職の行佑は、光秀の真意を察し、 「水上まさる庭の夏山」と詠み鮮やかに毒を抜いた。 次の第三句では、脇から句境を一転せしめ「て留め」にする決まりがある。 そこで紹巴は、「花落る池の流れをせきとめて」と光秀の世間に知られる と危険な句を、さらに無毒にする句を詠んだ、と解釈される。 欲望を静かに消してゆく硯 堀川正博 『明智光秀張行百韻・全句』続けてお読みください
天正十年五月廿七日「愛宕百韻」に臨んだ光秀の脳の内は 「信長打倒」のことが、離れない意味の句がつらつら並んだ。 出席者と歌の数。 光秀 15 紹巴 18 昌叱 16 兼如 12 心前 15 仰佑 11 宿源 11 行澄 1 光慶 1
時は今雨が下しる五月哉 光秀 水上まさる庭の夏山 行祐 花落る池の流れをせきとめて 紹巴 (4句目から挙句までを平句と呼ぶ。季語にはこだわらない) かせは霞を吹(き)をくるくれ 宿源 松も猶かねのひひ(び)きや消(え)ぬらん 昌叱 かたしく袖は有明の霜 心前 うら枯に成ぬる草の枕して 兼如 きヽなれにたる野辺の松虫 行燈 秋はたゞ涼しきかたに行きかへり 行佑 替芯も冬の星座も見失う くんじろう 尾上のあさけ夕くれの空 光秀 立つゝく松の木葉や深からん 宿源 浪のまかひの人うみの里 紹巴 漕帰る海士の小舟の跡遠み 心前 隔りぬるも友ちとりなく 兼如 しは(ば)したゞ嵐の音のしつまりて 兼如 たゞよふ雲はいつく成らむ 紹巴 月は秋あきは寂中の夜半の空 光秀 それとは(ば)かりの声ほのか也 宿源 たたく戸の答はとふる柿の露 紹巴 筆圧を変えて吐露する胸の内 上田 仁 我より先にたれ契るらん 心前 いとけなきけはいならぬはねたまれて 昌叱 とひてかくいひ(い)そむくくるしさ 兼如 度々の仇の情は何かせん 行祐 たのみかたきはなを後の親 紹巴 初瀬路や思わぬかたにいさ(ざ)なはれ 心前 ふかくたつぬる山時鳥 光秀 谷のと(戸)に草の庵をしめ置て 宿源 薪も水も絶(え)やらぬかけ 昌叱 松か根の朽(ち)そひにたる岩つたひ 兼如 順番が来て山茶花は散りました 嶋沢喜八郎 あらためてかこふ垣のふる寺 心前 春日野やあたりも廣き道にして 紹巴 うらめ(み)つらしき衣手の月 行佑 葛の葉の乱るヽ露や玉かつら 光秀 たはゝになひ(び)くいと萩の糸 紹巴 秋風もしらぬ夕やぬる小てふ(蝶) 昌叱 みきりもふかき霧そ(ぞ)こめたる 兼如 村竹の淡雪なか(が)ら片敷(い)て 紹巴 岩根をひたす涛のうすらひ 昌叱 鶯鴨やをりゐる羽ねをかはすらん 心前 ひょっとしてあの冗談は本音かも 荒井加寿 みたれふしたるあやめ菅原 光秀 山風の吹(き)そふ音は絶(え)やらて 紹巴 とち果にける住ゐ(い)寂しも 宿源 問(う)人もくれぬるまゝに立帰り 兼如 心のうちにあふやうらなひ 紹巴 はかなきを頼(り)かけたる夢かたり 昌叱 おもひになか(が)き夜は明しかた 光秀 舟はたゞ月にそうかふ浪の上 宿源 ところ〳〵にちる柳かけ 心前 秋の色を花の春迄うつしきて 光秀 アルミ缶踏んづけている解消法 河村啓子 山はみな瀬の霞たつくれ 昌叱 下とくる雪の雫の音す也 心前 なをも折たく柴の屋の内 兼如 しほれしを重ね侘たるきよ衣 昌叱 おもひなれぬる妻そ(ぞ)えたゝる 光秀 浅からぬふみの数々つもるらし 行佑 とけるも法は聞ふるにこそ 昌叱 賢は時を待(ち)つゝ出るよ(う)に 兼如 心ありける釣のいとなみ 光秀 行々も濱辺つたひの霧晴(れ)て 宿源 5ミリほど残る未練とここにいる 桑原すゞ代 一筋しろし月の川水 紹巴 紅葉はや分(け)る立田の峯おろし 昌叱 夕さひ(び)しき小男鹿のこゑ 心前 里とをき庵も哀(し)住(み)馴(れ)て 紹巴 捨てる憂みのたのみこそあれ 行佑 みと(ど)り子の生たつ末を思ひやり 心前 猶なかゝれの命ならす(ず)や 昌叱 契たゝ(懸け)つゝくめる盃に 宿源 別れてこそはあふ坂の闘 紹巴 旅なるを今日は明日はの神もしれ 光秀 蓮開くこの世あの世の境目で 笠嶋恵美子 爰かしこなか(が)るゝ水のひややかに 仰佑 秋の蛍や暮いそく(ぐ)らむ 心前 村雨の跡よりもなほ霧降(っ)て 紹巴 露はらひ(い)つゝ人のかへ(え)るさ 宿源 宿とする木陰も萩の散(り)盡し 昌叱 山より山にうつるうつるうく(ぐ)ひ(い)す 紹巴 朝霞うすきか(が)うへに重りて 光秀 ひき捨けらし横雲の空 昌叱 出なむも浪風かは(わ)る泊舟 兼如 めくるしく(ぐ)れの遠き浦々 昌叱 竹林の庵でひねる妄想句 櫻田秀夫 むら芦の葉かくれ寒き入日陰 心前 立(ち)さはき(騒ぎ)ては鴨の羽かき 光秀 行人もあらぬ田面の秋過(ぎ)て 紹巴 かたふくままのとまふきの露 宿源 月みつゝ打もや明けす(ず)さよ衣 昌叱 ねむ袖の夜半の休(やす)らひ 仰佑 しつ(づ)まらは(ば)更てこんと(ど)の契にて 光秀 あまたの門を中のかよひ路 兼如 埋めつゝ竹のかけ桶の水の音 紹巴 岩まの苔は幾重成らむ 心前 闇に文字描いて明日を吉にする 瀬川端紀 みつ(密)か(書)きは八千代へぬへきと計に 仰佑 翁さひ(し)たる袖のしらゆふ 昌叱 明(け)る迄霜夜のかくらさやかにて 光秀 とり〳〵にしもうたふこゑ添ふ 紹巴 はるは(ば)ると里の前田を植渡し 宿源 縄手の行衛たゝちとはしれ 光秀 いさむれは(ば)いさめるまゝの馬の上 昌叱 うちゑみつゝもつるゝともなひ 仰佑 色もかもゑひをすゝむる花の下 心前 國々は猶長閑なる時 光慶 心音を数えて一日が終わる 合田瑠美子
ハートにも枯れ葉模様が降り積もる 新家完司 「光秀激動の15年」 光秀、謀反の動機 明智光秀 森蘭丸 天正9年、光秀54歳。前年に「天下」(京都周辺の領域)が平定され た後、光秀は、信長の支配領域である「天下」を守備する立場として、 信長の親衛隊長のような役割を担っていた。その一方で光秀は、信長に 従って甲斐の武田氏討伐に出陣し、その終了後の10月15日、近江安 土城へ駿河加増の礼へ来訪した「徳川家康の接待」を任された。 『信長公記』によると、光秀は「京都堺にて珍物を整へ、生便敷(おび ただしき)結構にて、十五日より十七日迄、家康の接待に没頭した」と ある。このように光秀は、準備に奔走して、家康を、至れり尽くせりの もてなしをした。が、この3日のうちに「信長と光秀の間で、何らかの 対立が起こっていた」と、ルイスフロイスが『日本史』に、秀吉が『川 角太閤記』にすっぱ抜いている。 紫の袱紗をかけて出す料理 山本早苗 【光秀は、どんな料理で家康をもてなしたのか』 1の膳 ① 金高立入 蛸(湯引たこ) ② 鯛の焼き物 ③菜汁 ④ 膾(な ます) ⑤ 高立入 香の物(味噌漬大根) ⑥ 鮒の寿司 ⑦ 御 どうにでもしてくださいと鯛のうつろ 寺島洋子 2の膳 ① 絵を書いた金の桶入 うるか(鮎の内臓の塩辛) ② 高立入 宇 治丸(鰻の丸蒲焼き) ③ ほや冷や汁 ④ 太煮(干ナマコに由芋を 入れた味噌煮) ⑤ 貝鮑(絵入り金色の輪にで) ⑥ 高立入 はも (照焼き) ⑦ 鯉の汁 本籍を移した白焼きのうなぎ 森田律子 3の膳 ① 焼き鳥(鶉[雲雀]の姿焼き) ② 山の芋鶴汁(仏産鶴とろ汁 味噌仕立て)③ がざみ(ワタリガニの一種) ④ 辛螺(にしがいの 壷煎) ⑤ 鱸の汁 じゃがいもよお前もほんのりと恋 山口ろっぱ 4の膳 ① 高立入 巻するめ ② 鮒の汁 ③高立入 椎茸 ④ 色絵皿 味付けは薄めであしたから他人 清水すみれ 5の膳 ① 真名鰹さしみ ②生姜酢 ③ 鴨の味噌汁 ④ けずり昆布 ⑤ 土器入りのごぼう 秘伝の出しは利尻昆布と猫のツメ 岡谷 樹 6の膳(足付の縁高御菓子) ① から花(造花) ② 干し柿 ③ 豆飴 ④ 胡桃 ⑤ 花昆布 ⑥ 求肥(はぶたえ)餅 あこがれの大空を行く 鯉として 徳山泰子 【飲み会の締めは、汁かけ飯】 非公式なので式次第には書かないが、宴会の最後は無礼講。当時の武家 の饗応は、箸の取り方から饅頭の食べ方まで、事細かなマナーに縛られ ていたが、会の最後にはそんなことは忘れ、提供されたあらゆる汁もの、 吸物をご飯のうえにかけたようだ。 雉の青かち汁に饅頭のかけ汁、魚介の吸物を姫飯のうえにかけ、ズズッ と景気よく啜ったら…安土桃山時代の飲み会の締めは、ラーメンライス 先祖のような味がする。 泳法を変えて世間を広くする 吉松澄子 「食のエピソード」 「かわらけに盛られた吸い物や酒を飲む時は、事前に唇を舐めて湿らせ ておかないと唇の皮が剥ける」 これはルイスフロイスが痛い目にあった経験から、仲間の宣教師に丁寧 に忠告した言葉。天皇も公卿も武将も茶人も、食前にペロっとやったの であろうか。 唯一の失敗が横で寝ています 中岡千代美 森蘭丸に殴打される光秀 信長の勘気に触れ、家康の饗応役を解任されたうえに森蘭丸に殴打され るという、屈辱を味わった光秀。(『絵本太閤記』ゟ) 【蘭丸の光秀殴打事件の出所は『狂言絵本太平記』か】 狂言絵本太平記は武智(明智)光秀を、暴君・小田春永(織田信長)の イメージに耐える貴公子とした。激怒した春永が、美少年の森の蘭丸に 鉄扇で打擲するよう命じる場面は、定番になり、四世鶴屋南北などでも 踏襲されている。歌舞伎や浄瑠璃の世界では、光秀は、いわれなき虐待 を受ける悲劇のヒーローであり、それが判官贔屓の感情を刺激して、魅 力的な武将の劇に仕立て上げられている。 鴨川を流れる噂みたいなもの 雨森茂樹 斉藤利三(太平記英雄伝) 【光秀、謀反の動機についてー①】 斉藤利三は「無双の英勇」「隠れなき勇士」とうたわれた明智家随一の 勇将であった。その武勇は「丹後攻め」においていかんなく発揮された。 天正7年(1579)に黒井城を攻略し、丹波平定を終えると、利三は 城主に任じられ氷上郡の支配を任された。一方、独自の人脈により光秀 の外交政策も担った。実兄である石谷頼辰の妻の姉妹が四国の長曾我部 元親に嫁いでいた関係から、光秀が信長と元親の同盟の取次役となり、 外交窓口を利三・頼辰兄弟が務めた。長曾我部氏との交渉は、天正6年 ごろに始ったとされ、以後、織田家と友好関係を保ったが、この役目が 利三と光秀の運命を暗転させることになる。 方程式狂って影を切り刻む 上田 仁 天正8年、信長の「四国政策」の転換により、元親の分国の縮小方針が 打ち出されると両家の関係は、一気に冷え込んだ。光秀・利三の面目は 丸潰れとなり、信長に対する不満が高じていった。そこに、利三が信長 に自害を命じられる事件が起きる。 同10年、稲葉一鉄の家臣・那波直治(なわなおはる)が利三の口利き で明智家に仕官した。しかし、怒った一鉄が信長に訴えたため、那波は 稲葉家に帰参、利三には、切腹が命じられ、光秀も激しい譴責を受けた という。 信長の側近のとりなしで、何とか助命されたが、この裁定が伝えられた のが「本能寺の変」の4日前であることから、光秀の謀叛決起に何らか の関係があったのではないかと推測されている。変後、公家の山科言経 は「斉藤利三を今度謀叛随一也」と名指ししているのも、利三の主導的 役割を示唆しているのかもしれない。 しゃないなあ開き直って生きるしか 合田瑠美子 この一件に関し、幕末の吉田東洋の歴史書『日本外史』にも、光秀謀叛 の原因を、次のように説明している。 『信長配下の稲葉一鉄に仕える斉藤利三、那須和泉守が稲葉家を去って 光秀に仕えた。信長は、光秀に「那須を返して斉藤を誅殺せよ」と命じ たが、光秀は応じなかった。そのため信長は光秀を激しく罵倒し、遺恨 を残した』 タイヤ痕残して消えた三輪車 森 茂俊 光秀を折檻する信長 【光秀、謀反の動機についてー②】 織田家中の酒席で、酒を飲んでいない光秀に腹を立てた信長が「酒が飲 めないなら これを飲め」と光秀を組み伏せて刀を突きつけた。さらに 信長は、光秀の頭を抱え「この禿げ頭は鼓の代わりだ」と言って頭を叩 いた。光秀は、信長が自分を殺そうと思っているのではと恐怖を感じた。 (『日本外史』ゟ) 釘抜きは曲がった釘を産み続け くんじろう 【光秀、謀反の動機についてー③】 信長が寵臣の森蘭丸が、光秀が領する近江国志賀郡を欲した。信長は 「3年以内に願いを叶える」と返答。これを密かに聞いていた光秀は、 光秀は3年以内に殺されると思った。(『日本外史』ゟ) あさっても亀は多分を引きずって 山本早苗 【光秀、謀反の動機についてー④】 光秀は徳川家康の接待を命じられた時、もてなしの途中で中国地方への 出征を命じられた。光秀は無駄働きをさせられたことに怒りを感じた。 (『日本外史』ゟ) 一枚のコピーで人を売り渡す 森中惠美子 ※ 日本外史の内容には、間違いも多いと、当時から指摘されていたが、 幕末から明治にかけて最も盛んに読まれた歴史書である。つまり、近代 の日本人が「本能寺の変」をどう見ていたかの標準が、ここに示されて いるのである。 美しい嘘だな永久保存する 山本昌乃 【光秀謀反の動機については、様々な史料で語られてきた】 ① 『川角太閤記』(1620代)では、家康もてなしの接待係を命じ られた光秀が「生魚を腐らせてしまった」「腐っている鯛を出した」と 信長にいいがかりをつけられて、接待係を首になってしまった、ことを 怨んだ、と書いている。 腐っても鯛太っても愛妻 川畑あゆみ ② 『総見記』(1650頃)では、丹波八上城を攻めた光秀が、母を 人質に出して城主・波多野氏を懐柔したところ、信長が「約束を破り波 多野氏を殺害、光秀の母も殺されてしまった」ことが怨恨を生んだとし ている。 収まりは付かず抜き身のままである 石橋芳山 ③ 『明智軍記』(1690頃)では、中国攻めの結果、光秀は毛利領 の出雲・石見を与えられる代わりに、丹波近江を召し上げられるという 話が語られ、これに不満の光秀が謀反に及んだとしている。 花びらをまとって風も狂うとき 居谷真理子 ※ 『川角太閤記』にしても『総見記』にしても「本能寺の変」から、 70~100年も後の書物であるため、史料的な価値は低く、確かな 史実や時代状況との整合性もないため、現在では「俗説」の一つと、 とられている。 反逆の血をたぎらせて緋を纏う 森吉留里惠 【光秀と茶会】 信長から茶の湯の開催を許された光秀は、天正6年正月11日、初め ての「茶会」を催している。光秀にとっては、初めての茶会で十分な 亭主を務めることが出来ず、茶人・天王寺屋宗及が、霜夜天目という 名器を用い、光秀の代わりに濃茶を点てた。おかげで光秀は信長から 「水を得た魚のように接待上手ぶりだった」と褒められた。 宗及への感謝の礼は、光秀が白綾の小袖など、様々な贈り物をしたと 以前にここに書いたが、その後、光秀はその経験を生かし、正月のた びに茶会を催している。その経験豊かな光秀が、家康の饗応膳で何の 失敗を犯すのだろうか。「本能寺の変」まで後6ヵ月と迫っている。 寝返りを考えている涅槃像 河村啓子
政論が大好物の天邪鬼 松浦英夫 「 麒 麟 が く る 」 「天正7‐8年 光秀の動き」 光秀は、丹波・丹後両国の平定を成し遂げ、既に任されていた近江志賀 郡に加えて丹波国を領国として支配する「織田大名」となった。 天正7年10月のことである。翌8年には、光秀は、丹後宮津城の城主 となった細川藤孝、忠興親子や大和郡山の筒井順啓らと縁戚を交わし、 日本の中央にあった京都など、畿内地域(『天下』)の守衛を掌った。 つまり、信長が日本の中央に君臨する「天下人」であるならば、光秀は その活動を裏から支える織田家の重鎮にあった。 まず手始めにとりおこなったのが「馬揃え」(軍事パレード)であった。 政治にはパフォーマンスという虚飾 森井克子 「光秀激動の15年」 天正9-10年 【馬揃え】 天正9年(1581)正月23日、光秀54歳。信長は京都で馬揃えを 敢行することを決め、光秀に「京都の公家や織田軍団の諸将には、光秀 から馬揃えのことを触れるように」という内容の朱印状を与えている。 こうして馬揃えの総責任者に抜擢された光秀は、公家や諸将に馬揃えを 報じると共に、京都御所の東に東西一町(約87㍍)、南北八町(約8 72㍍)の馬塲を構築した。 馬の足さくら吹雪の外にいる 村山浩吉 『信長公記』によれば次のような顔触れ、順番であったという。 一番=丹羽長秀・摂津衆・若狭衆 二番=蜂屋頼隆・河内衆・和泉衆 三番=明智光秀・大和衆・上山城衆 四番=村井貞勝・根来衆・上山城衆 五番=織田信忠・御連枝の御衆 六番=近衛前久・公家衆 七番=細川昭元・旧幕臣衆 八番=馬廻衆・小姓衆 九番=柴田勝家・越前衆 十番=織田信長 羽柴秀吉は遠征中のため不在だが、この馬揃えには、織田軍団の精鋭が 参加しており、近衛前久ら公家衆も顔を出している。当日、特設された 桟敷から見物した正親町天皇(おおぎまち)も馬揃えの素晴らしさを称 賛したという。 マンモスをティッシュで包むプロジェクト 井上一筒 少なくとも、ここまでの光秀の出世と明智家の権勢獲得には、信長との 強い信頼関係があったことはいうまでもない。 「馬揃え」を見事に成功させた光秀は、信長からお褒めの言葉を賜った ろうが、近年、軍事力を見せつけることで「信長には、正親町天皇に譲 位を迫る意図があった」とする説が支持されている。そのような意図が あったとすれば、光秀の心中も複雑だったに違いない。 秋風に晒す薄っぺらい矜持 徳山泰子 (拡大してご覧ください) 明智光秀家中軍法 【光秀の微妙な心の変化】 では、そんな天下人の信長から、強い信頼を得ていた光秀や明智家を、 謀反にかりたててしまった要因とは、なんだったのだろうか。 実は、畿内地域の守衛の役割を基盤に権勢を誇っていた明智家だったが、 その一方で織田家を取り巻く「情勢変化」の中で、その立場や今後の行 く末に、影響のおよぶ事態が起きていた。 その一つが、近年注目される織田家の「四国対策」である。 ブラックホールを時系列で刻む 森田律子 四 国 征 討 問題となったのは「四国の支配」をどう行うかということだった。 戦国時代、四国では、土佐に本拠を置く長曾我部と、阿波に本拠を置く 三好氏とが覇権を争っていた。信長は当初、長曾我部氏と結んで、四国 に勢力を伸ばそうとしていた。その仲立ちをしたのが光秀である。 光秀を頼った長曾我部氏は、信長に忠誠を誓うことで、安心して合戦を 続け、四国全土を征服しかねない勢いを見せた。 ところが、天正9年6月、信長は突如として思いもよらぬ命令を発した。 長曾我部氏の当主・元親の弟。香宗我部親泰(こうそかべちかやす)へ の朱印状には、次のように記されている。 「阿波の支配は三好氏に任せることにするので、長曾我部氏は、三好氏 を援助するように」 大根の髭は他人を騙さない 桑原伸吉 【次に、暦の変更問題】 天正10年2月、光秀55歳。信長はさらに、思い切った要求を朝廷に 突き付けた。「暦の変更」である。 天皇が定めた当時の暦では、天正11年1月に「閏月」があった。 しかし、信長の出身地尾張では、天正10年12月を「閏月」にする暦 が使われるなど、地方によってまちまちだった。 朝廷の暦は「宣明暦」を基礎とした京暦を用いたのに対し、尾張などで 使われていたのは「三島暦」という。その暦を、信長は尾張のものに統 一しようとしたのである。 「暦の制定」は、古来、日本では天皇だけが定める権限を持つ、いわば 神聖にして浸すべからざる事柄であった。その権限を浸そうとする信長 の行為は、多くの人に衝撃を与えた。光秀もまた、その一人であったと 考えられる。 蟷螂の斧が吠えてるお月様 荻野浩子 信長が暦の問題に介入してきたというのは、明らかに天皇に対する権限 侵害を狙ったものだろう。行幸することによって、天下人である信長の 権威の前に、天皇が平伏していくという構図が、可視的にアピールされ ることになる。ましてや国主大名クラスの重臣ですら、転封を余儀なく されていた体制の成立がみえてきていた時だから「伝統的な幕府体制の 復活」にかけていた光秀にすれば、大変なことだ思っただろう。 そして光秀は、公家衆や信長の家臣団の不協和音や反感を、目や耳にし たりして、「反信長は自分一人ではない、将軍義昭を奉じて、朝廷と結 び信長を討てば、きっと自分は広く支持されるのではないか」と確信し ていった。 雨ノニホヒ水瓜ノニホヒ御乱行 酒井かがり 【蛇足】 「暦の制定」という問題は「元号の制定」と同じで、重要な問題であり、 当時の天皇に残された唯一最大の権限であった。信長が暦の問題に介入 してきたというのは、明らかに、天皇に対する権限侵害を狙ったものと 解釈される。 賛同はいたしかねます一括り 山本早苗 (拡大してご覧ください) 石谷家文書 この石谷家文書に収録されている天正10年5月21日付け「斉藤利三 宛 長曾我部元親書状」が公表されたことで、光秀蜂起の動機をめぐる 「四国政策転換説」が再浮上した。 【再び、四国問題】 「暦の問題」が起きてから三ヶ月後の天正10年5月、信長は、光秀を 決定的に追い詰める出来事を起こした。 長曾我部氏に最後通牒を突き付けて、四国への遠征軍編成したのだ。 5月7日、信長は「四国の処分案」を明らかにした。長曾我部氏の勢力 圏とはお構いなしに、讃岐と阿波は、信長の三男・信孝と三好氏に預け、 土佐と伊予の処分は、あとで信長が決めるというのである。そしてその 遠征軍の出発日は、6月2日と決められた。 しゃっくりが止まらぬままに幕上がる 指方宏子 そもそも阿波は、長曾我部氏が自らの努力で領土とした土地である。 それを一方的に「三好氏のものにせよ」という命令は、承服しがたいも のだった。 <信長に忠誠を誓ったのも、領地を保証してもらえると思ったからこそ のこと。なのに、ここに来て、突然取り上げられるとは>長曾我部氏の 当主・元親は反発した。長曾我部氏が従わないとみるや、四国侵攻の準 備を命じた信長。その真の狙いは、四国全土の征服であることは明白で あった。 浮き雲の裏でゲリラを産みおとす 堀口雅乃 長曾我部元親 信長と長曾我部氏の仲立ちをした光秀の面目は、丸つぶれになった。 長曾我部元親は、光秀の重臣・斎藤利三の妹と縁組をしていたうえに、 光秀は長曾我部氏に「信長に尽くせば安泰だ」と説得していたのである。 思わぬ成り行きに驚く光秀、追い打ちをかけるように、光秀は信長から 四国担当を外されてしまう。 <おかしい。信長様はいったい何をやろうとしているのか> 光秀の心には、信長の改革に対する底知れぬ疑念と恐怖が沸き起こって 来たにちがいない。「本能寺の変」その半年前のことであった。 いっぱいの矛盾へコーヒー冷めてゆく 山本昌乃 【刻々とその時へ】 「古い秩序の回復」を目指す光秀は、朝廷の権威をないがしろにする信 長の行動に危機感を強めていったのだろう。そんな光秀と朝廷の一部と が、連携をとりつつあったと推察できる史料がある。 <信長打談合衆>(信長を討つために談合していた衆である)この勧修 寺晴豊の日記『天正10年夏記』6月17日のくだりは、明智光秀の家 臣・斎藤利三が、護送されているのを見て記されたもので、光秀と公家 が、信長暗殺について相談していたともとれるものである。 道程の中程からは土砂降りで 北原照子 「三七殿(織田信孝)、五郎左衛門殿(丹羽長秀)、四国へ6月2日に 渡海あるべし…」(『細川忠興軍功記』) 「このままでは長曾我部氏は滅亡して、光秀の立場も危うくなる」 <長曾我部氏の文書には、光秀の重臣・斎藤利三が、信長の四国攻撃を 憂いて光秀に謀反を促した、という記述が残っている> 「斎藤内蔵助(利三)は四国の儀を気遣いに存ずるによって也、明智殿 謀反の事いよいよ差し急がるる」(『長曾我部元親記』) 光秀は重臣からも「信長討つべし」という突き上げを受けていたのであ った。「本能寺の変」3週間前のことである。 右寄りの風がびしびし吹いている 上山堅坊 【斉藤利三宛長宗我部元親書状】 土佐の戦国大名・長宗我部元親が、明智光秀の腹心に宛てた書状からは、 「本能寺の変」の要因をめぐり、元親と光秀の緊密な関係がクローズア ップされた。 闇に文字描いて明日を吉にする 瀬川端紀
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