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川柳的逍遥 人の世の一家言
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瘡蓋の下は炎が立っている  和田洋子



    横浜異人館の図 (文久元年 二代広重 横浜開港資料館)
 

「横浜焼き討ち計画」 栄一と長七郎


栄一「世を正すために武士になる」という決意が、「討幕」の思い
にまで膨れ上がったのは、従兄であり、友であり、義兄でもある2歳上
長七郎の影響だ。栄一は、19歳の時、学問の師である尾高惇忠の妹・
千代を娶り、通称を栄一郎と改めた。長七郎は、その千代の兄であり、
惇忠の弟である。長七郎は剣術家を志し、数年前から江戸に出て修行に
励んでいる。そのかたわら「尊王攘夷の思想」に染まっていった。


山茶花散華長いバトルの人送る  太田のりこ


そのため、里帰りのたびに江戸から友人を招き、このころ流行りの天下
国家の時勢について論じる。数年前にペリーが来航し、不平等な通商条
約を結ばされ、大老・井伊直弼が暗殺されて以降、世直しについて同志
と語り合う気風が高まっていた。「尊攘志士」と呼ばれる男たちが活発
に活動し始めたのも。このころだ。


わたくしの臍に蠢くものひとつ  大内せつ子


栄一は、長七郎らと共に熱い議論を戦わすうちに、自分も江戸へ出て、
「多くの高名な志士と交わりたい」と、感化された。江戸から来る男た
ちの中に、変わり始めた日本の新しい時代の匂いのようなものを、かぎ
取っていた。だが、農家の跡取りが、家業を放り出すことはできない。
そこで栄一は「農閑期だけ」という約束で父・市郎右衛門を説得し江戸
への留学を果した。文久元年、栄一22歳。出府した栄一は、学問は儒
学者の海保漁村に学び、剣術は、北辰一刀流千葉道場に通った。そこに
多くの志士が集っていることを期待したのだ。


一線を越える越えない橋がある  ふじのひろし



千代田城 坂下門と辰巳橋 (右手前が坂下門)

坂下門


翌年、公武合体派の老中・安藤信正千代田城坂下門の外で水戸浪士ら
に襲撃される事件が起こった。長七郎は、この計画を立案して捕縛され
た宇都宮の儒者・大橋訥庵と懇意だったため、事件に一枚かんでいるの
ではないかと嫌疑がかけられ、いつ捕まってもおかしくない状況となる。
実際には、何の関わりもなかった長七郎は、のんびりと里帰り中で自身
に危険が迫っていようとは思いもよらない。いつものように、再び留学
先へ戻るため、栄一らと別れてひとり江戸へ出立した。


哲学があって飛ぶのだろう鳥も  相田みちる


捕縛の沙汰が「長七郎にも及ぶらしい」ことが郷里にもたらされたのは、
同じ日の夜だ。驚いた栄一は、おろおろと泣く千代に、「義兄さんは俺
が助ける」と約束し、取るものも取り敢えず家を飛び出した。すでに真
夜中に近い時刻だ、道中、必ず合流できる保証などなかったが、栄一
ためらわなかった。やっと追いついたのは、4里先の熊谷宿だ。


突然に前に回った背後霊  井本健治
 
 

安藤信正


 河野顕三らが安藤信正の暗殺に失敗して、殺された。納庵先生も捕らえ
られた。「今、江戸に行くと捕まるぞ。義兄さん、君はこのまま江戸で
はなく京へ向かいたまえ。幕吏の目が光る江戸は、もはや死地に等しい。
比して今の京は、諸藩の有志が集まり、時代の中心と言っていい。その
身を隠せ、人脈を得ることができ、見識も広がる」息を切らせて栄一は、
長七郎に説得の言葉を尽くした。が、長七郎は「それでも、やはり俺は
江戸に行く」と意思を譲らない。
「生き残った俺たちは、河野に代わってやらなければならないことが、
まだあるはずだ」。そこで栄一は、じっと睨むように長七郎の心を打つ
言葉を吐いた。「わかった。そうしよう。栄一郎、今日の恩を返すため
俺はお前の危機に駆けつけるぞ」。
長七郎は栄一の助言に従い、京へ逃れることにした。


右耳は蜻蛉 左耳は蝶  くんじろう





それと時を同じようにして、文久2年の7月6日、孝明天皇から一橋慶
は謹慎を解かれ、将軍後見職に任命され、2日後の8日には、松平春
嶽(慶永)は政事総裁職を任命された。慶喜は、薩摩藩の島津久光の後
押しがあっての人事だ。慶喜は「尊攘の旗振り」に期待の星なのだ。
やがて慶喜は久光らから、「一刻も早く攘夷の決行を」と迫られていた。
久光「一橋様、こん先はわれらで力を合わせて、ご公儀を動かし、一刻
も早く攘夷を行いもんそ」それに答えて慶喜は「攘夷などというものは、
詭弁です。すでに、異国との交流が盛んになった今、兵備が足りない日
本では、異国には勝てませぬ」と、薩英戦争の結果を知っていて、慶喜
は、敢えて異論を述べた。久光は自身が幕閣での覇権をとりたいがため
に自分や春嶽を利用しようと考えているだけなのだ、と慶喜は察知して
いた。


シーソーとブランコ夜の内緒事  森 茂俊


文久3年になって京では、攘夷を唱えた浪士たちが和宮降嫁に関わった
者や、開国論者を次々と斬り捨てるという事件が起きた。
攘夷を望む長州の志士が担ぎ上げたのは、三条実美だ。実美は、慶喜
松平春嶽を訪ね、「いつ攘夷をなさるのか、期限を決めていただきたい。
さもなければ、京の浪士は爆発寸前じゃ」と慶喜に迫っていた。そして
実美から攘夷を迫られる一方で、イギリスからも生麦事件の賠償金を迫
られ、慶喜の悩みは尽きなかった。


時々はジャングルジムになるハート  和田洋子


 
 コロナ流行り病・荼毘室混雑の図
 
 
同年、栄一千代に待望の男の子が生まれ「市太郎」と名付けた。
しかし、この年の夏に流行ったコレラにかかり、市太郎はあっけなく死
んでしまう。渋沢家は重い空気に包まれていた。そんな中、尾高惇忠は、
自らの手で攘夷の口火を切ろうと、横浜の異人居留地の焼き討ちを発案。
惇忠の考えに陶酔した栄一は、道場の面々と共に、計画を実行するため
武器などを集め始める。栄一は後に、この時を、次のように記している。
『外国人を片っ端から斬殺するための刀も用意した。刀なども《ここで
買い》《あちらで買い》と、尾高が五、六十腰、自分が四、五十腰用意
した。それぞれに竹やりも用意し、当日の役割分担も決まった。あとは
決行日を待つのみだ』


包帯をほどいて風を確かめる  森田律子


我が子の市太郎の死の悲しみに暮れていた栄一だったが、その思いの丈
をぶつけるように、「横浜焼き討ち計画」に積極的だった。それという
のも、このころ朝廷は、幕府に攘夷を迫り、いったん開港した横浜を閉
鎖するよう要求していたが、幕府が煮え切らなかったからだ。
栄一の目には、征夷大将軍の職務を軽んじているように見えた。このま
ま幕府に任せていても攘夷などならぬ。「ならば俺が」と栄一は考えた。
「幕府が瓦解するほどの大騒動を起こし、政権の腐敗を洗濯して国力を
挽回したうえで、列強に屈した屈辱の通商条約を翻す」もちろん「こと
を起こせば自身は途上で死ぬだろう。が、きっと後に継ぐ者が出るに違
いない。そのためには生麦事件のように、賠償金を払えば大事を回避で
きる程度のものでは駄目だ。もっと取返しのつかぬことでなければ…」


人間を刻むこんなに灰汁が出る   野口一滴


「横浜焼き討ち」の計画は次の通り。
風も強く乾燥した冬の吉日、冬至に、まずは上野国の高崎城を乗っ取り、
そこから兵を繰り出し、鎌倉街道経由で横浜を襲撃するというものだ。
鉄砲などは手に入らないから、武器は刀、火をかけた横浜で外国人を斬
って斬りまく、ろうと考えた。メンバーは計画を立てた尾高惇忠渋沢
喜作
、そして栄一の3人を中心とし、江戸で培った人脈を活かして数を
増やし、最終的には70人を仲間に引き入れた。決行は11月12日とした。


どう足掻いても今日より若い日は来ない 小林すみえ


準備がすべて終わった時点で、栄一は、京の長七郎に手紙を送り、この
計画を打ち明けた。のみならず、「京から賛同者を募ってこちらに戻り、
加勢してほしい」と依頼した。――幕府がいかに怠慢で、外国がいかに
脅威か――。それを栄一に教えてくれたのが、長七郎だった。計画を知
れば、驚いて、喜び勇んで駆けつけるはずだ。栄一は、得意な気持ちで
長七郎を待った。


消臭シート広げて横たわる  山口ろっぱ



横浜焼討ちの是非について論争する栄一


ところが、手紙を受け取った長七郎は仰天し、急ぎ栄一らの許へと駆け
つけた。そして「無駄死」だと反対した。「攘夷こそが日本を救う唯一
の道だ」と訴え、幕府に逮捕されそうにもなった長七郎だ。まさか計画
に反対するとは、「あれだけ攘夷に積極的だったじゃないか」と、誰も
が思った。だが、それは違う。誰よりも積極的に行動をしたからこそ、
長七郎は、その限界に、誰よりも早く気づいたのだ。この無謀で愚かな
計画を実行しようとする栄一に死んで後世に「大馬鹿者」の名を遺す羽
目になる、と説いた。


言葉にはならずにそっと肩を抱く  山田葉子 


何を言おうと栄一も簡単には引き下がらない。「父親と縁を切ってまで
実行を決意したのだ。栄一は無駄死にでもよい」と考えていた。「自分
は農民だが、この国の民なのだ。今の国情をただ傍観するだけなど、我
慢ならない。ゆえに起つのだ」。自分たちの暴挙が、世の人々を鼓舞し、
後に続くものが幕府を倒して世を改めるなら、その端緒として血祭りに
上げられるのを厭わぬつもりだった。「ことが成功するか、失敗するか
などは、天に任せておけばよい。ここでかれこれ論ずる必要などなく、
ただ死を覚悟して決行するだけだ」。栄一は言い出すと引かない性格を
している。


何を今さらと紙コップを潰す  佐藤后子


だが長七郎は冷静で「いや、こんなことをやっても、後には誰も続かず
百姓一揆の一つくらいに思われるか、あまりの稚拙さに笑われて終わる
かの、どちらかだ」と諭し、「もし、どうしてもやるというなら、俺は
お前を斬る」といわれ、「それなら俺もお前を斬る」と応じた。
あくまでも計画実行にこだわる栄一と、絶対に阻止するという長七郎の
議論は、どこまでも平行線をたどった。


諦めぬ方へと弾む楕円球  原 洋志


「犬死でも仲間数十人の命を散らせるな」と、懸命に止める長七郎を前
に、長時間のやりとりで、少し冷静を取り戻した栄一は、考えてみた。
「最新情報を踏まえた長七郎の意見は、やはりほかの誰よりも説得力が
ある。犬死になるかもしれない。なるほど、長七郎の説が道理にかなっ
ている」。そのように考えを巡らせている時に、勘当を申し入れたとき
の父の吐いた言葉が脳裏をよぎった、と後に語っている。
「お前と儂は道を分かった。栄一よ、道理を踏み外さず、一片の誠意を
貫いて生きよ。さすればお前がどこで倒れようとも、儂は満足だ」
そして栄一は、誠意とは何なのか?と考えた。


明太子置き捨てたまま兵を引く  井上一筒


やがて栄一は、計画の中止を決断。皆もそれに従うことになった。この
議論について、栄一は自著に、こう振り返っている。
「現在から見ると、そのときの長七郎の意見のほうが妥当であって、自
分たちの決心はとんでもなく無謀であった。長七郎が自分たち大勢の命
を救ってくれたといってもよい」


シロナガスクジラを目指し未だ雑魚  新家完司

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