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川柳的逍遥 人の世の一家言
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なんとなく非常階段になっている  河村啓子



御開港横浜之全図 (五雲亭貞秀画)
安政6年6月2日に開港した、浜全域を描いた3枚続きの錦絵。


「渋沢栄一」 横浜焼き討ち計画


安政5年(1858)12月。18歳の栄一は、学問の師匠、尾高惇忠
の妹と結婚した。栄一より一歳下の千代である。尾高家と栄一の関係は、
さらに強固になった。
半年後の安政6年6月、横浜港が正式に開港し、貿易が始まる。以後、
武士たちの間で「尊王討幕運動」が急速に激化した。
開港にともなう輸出の激増で、国内物資が品薄になり物価が高騰、下級
武士の生活を直撃し、その恨みが外国人と開港を許した幕府へ向かった
のだ。


カタカナ語お湯で戻してから喋る  森田律子



海保漁村自画像
上総出身の儒学者。江戸で太田錦城に学び天保元年(1830)に塾を開いた。


栄一は、藍玉の商略や作物の改良に、強いやりがいを感じながらも「木
っ端役人にも軽蔑される農民や商人はつまらぬ」という気持ちも抱いて
いた。つまらなさの源が、幕府が作った世にあるとするなら、栄一も、
また「憂世の情」を抱く当時の若者の一人であった。そんな栄一に江戸
から友人連れで憂世の情を運んできては、さかんに談論を繰り広げる人
物があった。尊王攘夷派の惇忠の弟で、妻・千代の兄、栄一より2歳年
上の尾高長七郎である。体格と撃剣の才に恵まれた長七郎は、以前より
江戸に出て、儒学者・海保漁村の塾と伊庭秀業の道場に在籍。討幕派の
長州や水戸、宇都宮藩の志士とも親交があった。


はにかんだホタルは出番模索する  山口ろっぱ



千葉周作
千葉周作は栄一が通った千葉道場・玄武館の創始者。栄一が通ったころ
は周作の三男・道三郎が道場主だった。
 
 
長七郎から刺激を受けた栄一は、江戸への思いを募らせる。強く反対す
る父を「ならば農閑期の2カ月だけ」と説得し、出郷を果したのは開港
から2年後の文久元年(1861)3月。桜田門外の変の翌年のことだ。
江戸での栄一は、海保の塾に籍を置き、北辰一刀流の千葉道場に通った。
 自伝『雨夜譚』では「書物を十分に読もう、また剣術を上達しようと
いう目的でない。ただ天下の有志に交際して、才能・芸術のあるものを
己れの味方に引き入れようという考えで…中略…抜群の人を撰んで、つ
いに己れの友達にして、ソウシテ何か事ある時にその用にあてるために、
今日から用意して置く」ためだと語っている。


あと一枚めくればきっと喜望峰  宮井元信
 
 
5月に帰郷した栄一は、家業に戻る。が、以前のようには身が入らなか
った。父は気を揉んだが、どうしようもない。文久3年(1863)8月、長
女が誕生。この月、栄一は妻子を郷里に置いたまま、ふたたび江戸に向
かう。2年前に世話になった海保の塾に身を寄せ、千葉道場に再入門し、
今回は郷里と行ったり来たりしながらの、4ヵ月ばかりの在府だった。
 
 
雲はいつもかならず話しかけてくる  田中博造
 
 
その間に栄一は、従兄の惇忠や、同じく従兄の渋沢喜作と密談し、大規
模テロを企てる。幕府には攘夷を行う気も力もないようなので、自分た
ちで幕府が倒れるくらいの大騒動を起こそう。まずは血洗島から遠から
ぬ高崎城を襲い、武器を奪って軍容を整え、高崎からは鎌倉街道を経て
横浜へ入り、市街に火を放ち、外国人を片っ端から斬り殺す。
そんな荒唐無稽な「横浜焼き討ち計画」を書を読み、剣も学び、算盤や
農作の経験もある青年たちは、大真面目に決行しようとした。
 
 
大ぼらを吹いて地球を裏返す  靏田寿子



高崎城古写真



遠からず、腐敗する幕府は滅亡する。農民であっても一個の国民であり、
日本が滅亡するのを座して見ているわけにはいかない。攘夷を断行する
には先ず軍備を整えねばならない。そのためには手近で調達するほかあ
るまい。白羽の矢が立ったのが血洗島からほど近い高崎城であった。
高崎城は烏川に沿って築城された平城、周囲は土塁で囲まれているだけ
だった。攻め落とすのは、さほど難しいとも思えなかった。
 
 
一波乱起きそうな絵手紙のドリアン  笠嶋恵美子
 
 
刀は惇忠が六十腰、栄一が四十腰、あちらこちらで買っては、そこここ
の蔵に隠した。防具や提灯の類いも揃えた。同志は海保の塾や千葉道場、
郷里の一族郎党などから70人ばかり集め、資金は藍玉商売から横領し
た。その額は百五、六十両。今なら6、70万円くらい、呆れた行動力
である。決行は冬至の11月23日と決めた。もとより、命があるとは
思っていない。9月、栄一は郷里の父に「国事に身を委ねたい」と告げ、
言外に勘当を求めた。実家に累が及ぶことを怖れたのである。
 
 
逃げるなら空一枚とすべり台  郷田みや
 
 
10月、かねてより京に行っていた惇忠の弟・長七郎が、栄一の手紙を
読み大慌てで戻ってきた。暴挙を止めるためだ。惇忠の家では、夜を徹
して激論が交わされた。
「烏合の兵などすぐ討滅されるぞ」と、長七郎が言えば、「それを見た
天下の同志が立てば本望」と栄一が返し「なに、百姓一揆と見做されて
仕舞だ」と長七郎が抑える。栄一は、長七郎を刺してでも阻止すると言
って退かない。ならばと栄一が、少し退いてよくよく考えてみたところ、
なるほど長七郎の言い分が道理だと気がついた。少し退けるところが栄
一の栄一たるところである。集めた同志には手当を渡し中止を告げた。
 
 
踏み切りは開かずマスクが捨ててある  桑原伸吉
 
 

欧州視察旅行帰りのスーツが似合っている渋沢喜作35歳。
喜作は25歳のとき、栄一とともに京に出、戊辰戦争では彰義隊の隊長
となり、後に振武軍を組織するも敗北。五稜郭でも敗北。新政府に捕縛
されるが特赦されて大蔵省に入る。海外視察は外国の生糸事情を調べる
ため、イタリア、スイス、フランスを巡歴した。
 
 
だが、この後、話が捕吏の耳に入らぬとも限らない。栄一喜作と共に、
しばらく身を隠すことにした。11月8日、2人は、故郷を後にする。
栄一23歳。目指すは京であった。


季は巡りあの日の正義裏返る  渡辺信也

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蹴り上げた楕円は神の領域へ  斉藤和子
 
 

          楽屋之図
 歌舞伎役者の舞台裏の様子を描いた図。 裃を身に付ける役者やカツラ
をかぶる役者、芝居関係者など、役者絵が得意な歌川国貞は芝居の楽屋
にまで入り込み、舞台の上では見られない、舞台裏を細やかに描いた。

 
 
江戸後期から明治へと長期にわたって、浮世絵画壇の覇者として君臨し
続けたのは「歌川派」であり、その礎を築いたのは、歌川豊国である。
豊国によって平明な作品たちは、より多くのファンを獲得することにな
ると同時に作品の様式化は数多くの門人を生み出すもととなった。ここ
にその豊国門下の俊才たちを紹介しておこう。そして、やはり殿に歌川
派の天才・歌川国貞をとりあげる。


浮世絵に潜んでいるのはゴッホです 木口雅裕


「豊国一門と年齢と夫々の絵師の冠」

万民のスター
歌川豊国 明和6年 (1769ー1825)
師豊国を凌ぐ実力派
歌川国政 安永2年 (1773-1810)
温雅な個性派
歌川豊広 安永3年 (1774-1830)
歌川派の総帥・三代豊国 役者絵の国貞
歌川国貞 天明6年 (1786-1864)
合巻から浮世絵までの正統派
歌川国安 寛政6年  (1794-1832)
「国安」「国丸」とともに豊国門人三羽烏
歌川国直 寛政7年 (1795-1854)
風景画の奇才
歌川国虎 (生年不詳)
風景版画の第一人者 けしきえの広重
歌川広重 寛政9年 (1797-1858)
国貞の向こうを張った武者の国芳
歌川国芳 寛政9年 (1797-1861)
初代豊国の養子・二代豊国
歌川豊重 享和2年 (1802-1835)


前略、娑婆は暑いだけです かしこ  河村啓子


「にがおえの国貞」 歌川国貞



         市村羽左衛門と尾上菊五郎  


歌川国貞は、初代・豊国が築き上げた歌川派を継承し、長期にわたって
活躍した浮世絵師である。
国貞は天明6年(1786)本所渡船場を経営するに生まれた。ちゃき
ちゃきの下町っ子である。絵の勉強は、初めは独学であった。国貞の少
年期はちょうど浮世絵界の最盛期にあたるため、手本となる浮世絵が、
たくさん手に入ったのである。とりわけ役者絵を好んだ国貞少年にとっ
ての憧れの絵師は、初代・歌川豊国であった。そこで思い切って入門を
願い出た。


宿命へ畳鰯の独り言  中村幸彦


このとき豊国が、国貞の実力試しに、手本を見せて写し描きをさせたと
ころ、仕上がりがあまりにも巧みで驚いたという。入門の許しを得て、
師匠の信頼を得た国貞は、すぐに細々とした仕事を任されるようになり、
22歳のときに絵草子の挿絵でデビューを果たす。これが大当たりを取
って、歌川派の次代を担う若手絵師として、その名を世間に轟かせた。
因みに、この年に歌川派に入門をして来たのが国芳である。国貞は、弟
弟子として国芳を「芳、芳」と呼んでかわいがったが、国芳は、この上
から目線が気にくわず、生涯国貞を煙たがったらしい。


陰と陽リバーシブルの帽子です  合田瑠美子



  国貞の描く美女にじゃれる猫


対する国貞はというと、柔和温順で人の気持ちをよく考え、自己主張を
好まない人格者だった。そんな性格を反映するように作風も明るく率直
で安心して見られるのが特徴である。下町に育ったせいか庶民的な親し
みやすさも抜群で、大衆受けする絵が自然に描けた。


花も葉も水に流して現在地  佐藤正昭



「滝夜叉姫 尾上菊次郎 梅花」
最晩年の作。鉱物性顔料を大胆に使い、迫力に満ちた画面を作り出した。


国貞が最も得意としたのは「役者の似顔絵」である。普段は冗談を言わ
ない真面目な性格だったが、役者絵のモデルになる役者と話すときは別。
現代のベテラン・カメラマンのように、冗談を言って相手の気持ちをほ
ぐしながら、いろいろな表情を引き出し、ウイークポイントを捉え、そ
の人の顔の中でいちばん魅力のあるところを似顔絵に反映させた。
役者からの信頼も厚く、家には役者からの付け届けが山のように届き、
なかなか豊かな暮らしぶりであったという。こうした人付き合いの丁寧
さが、国貞の評判をさらに上げていった。


冷やかして景気をつけて盛り上げて  田口和代



 当世美人合 身じまい芸者


「国貞の美人画」
国貞は役者絵だけではなく、「美人画」にも優れていた。むしろ下町の
庶民は絵師としての本領は、こちらの分野に発揮されたといっても過言
ではない。清長美人や歌麿美人のような、理想化された美人像とは違う
親しみやすさがった。



         「国貞の挿絵」
 さらに戯作者・柳亭種彦とタッグを組んで挿絵を描いた合巻本『偽紫田
舎源氏』が大ヒットし、これ以降、錦絵業界で源氏絵がブームになるな
ど後続の絵師たちに多大な影響を与えた。


キャンパスの龍が飛び立つ筆づかい 佐々木満作



天保14年(1843)9月、水野忠邦の失脚後、国貞は忠邦改革の的にな
って低迷する浮世絵界の巻き返しを図り、自身の二代目・歌川豊国襲名
披露の書画会を開催した。しかし、この襲名が大スキャンダルとなる。
実は国貞は正式には三代目なのだ。二代目は初代・豊国の弟子で豊国の
養子に入った豊重といううだつの上がらない絵師で、これには師匠の娘,
もしくは嫁に取り入ったらしいという裏事情があった。真面目な国貞は
これを「よし」とせず、また「人気・実力ともに十分な自分こそが、正
統な後継者だ」という自負もあったのだろう。


二週間前のトマトと高飛車と  宮井いずみ


二代豊国は、文政年間初めに初代豊国の門に入り、やがて養子となった。
初め豊重と名乗り、師風を受け継いだ堅実な作品を描いていた。文政8
年(1825)初代の没後、二代を継いだとされる。天保5年頃までの
作が確認され、「名勝八景」という風景版画の注目すべきシリーズを描
いているものの、全体としては、師の作風を墨守するところから脱しき
れなかった。


出た釘を何度打ったか痩せた槌  西陣五朗



  オレがあ豊国二代目よ


「歌川を疑わしくもなのりゐて二世の豊国にせの豊国」
文政8年に師・豊国が没したのちは、実質的な歌川派の棟梁として君臨
するにいたる。そして弘化元年(1844)には、師の豊国号を継いで
二代を名乗り、名実ともに歌川派の総帥となった。しかし、豊国の没後
間もなく養子の豊重が二代を名乗っており、実質は三代目にあたる。
それでもなお国貞が二代目を名乗ることができた裏には、初代の複雑な
家庭事情と、腕のたつ国貞を、豊国の正当な後継者とみなす勢力の優勢
であったことを示すものであろう。


不条理にさからう渦を巻きながら  笠嶋恵美子


豊国を襲名してからの国貞には、門人も増え、版元からの注文も殺到し、
作画量はこの時期にピークに達するが、さすがに濫作による価格の低下
は隠すことができない。とはいえ、人物が映えるように画面全体を整理
する構成力には相変わらず非凡なものを見せている。


斜めから吹く風斜めから躱す  岸井ふさゑ



星の霜・当世風俗 蚊帳

幕末には「もっとも人気のある絵師」であった国貞だが、現代の知名度
は今一。なぜなら、彼が描いていたのは「当時最新の流行や風俗」であ
って、当時のことを知らなければ何のことだか解らないものが大半であ
ったからである。
 「星の霜当世風俗・蚊帳」では、蚊帳の中で紙縒りを使って害虫を焼く
庶民的美人と、蚊帳の下から覗いている団扇にさりげなく、当時の人気
役者・尾上菊五郎の似顔絵が描かれている。似顔絵は、国貞の最も得意
分野で面目をはたしている。


だとしても諦めきれずにいる思い  川畑まゆみ



  星の霜・当世風俗 行灯


幕末の浮世絵界で庶民から圧倒的な支持を受けた浮世絵師は、前にも述
べるように広重でも国芳でもなく、歌川国貞だった。国貞は初代・歌川
豊国の正当な継承者として、人気流派歌川派を率いて浮世絵界に君臨し、
生涯に一万点の作品を世に送り続けた。というのも、彼の絵はとにかく
よく売れたのだ。「広重が風景画、国芳が武者絵」を得意として売れた
とはいえ、国貞が美人画・役者絵という王道二大ジャンルを制しており、
そこに割って入る隙がなかったからである。22歳のでビューから元治
元年(1864)79歳で永眠するまで、国貞は、半世紀に亘って第一
線の人気を保ち続けた。


口よりも確かなことを目が語る  ふじのひろし



      国貞自画像


順風満帆な国貞の人生にも一時、影がおちる。天保の改革の野忠邦
失脚して間もなく、国貞は、二代目・歌川豊国襲名披露の書画会を開催
した。この襲名披露が、大スキャンダルとなったのである。実は国貞は、
正式には三代目なのだ。二代目は初代・豊国の弟子で豊国の養子に入っ
豊重といううだつの上がらない絵師で、これには師匠の娘,、もしくは
嫁に取り入ったらしいという裏事情があった。世間ではこの騒動を皮肉
った上記の「偽の豊国」のように狂歌が生まれた。しかし、もって生ま
れた運の強さか、その騒動によりさらに注目が集まった。あまりの発注
の多さに版下絵の制作が追いつかず「三代豊国」というだけで売れ続け
たという。


聞えないふりして今日は切り抜けた  山口ろっぱ

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道形に歩く自然体のわたし  荻野浩子


           


「顔」
「一万円札の顔」はどのようにして選ばれるのだろうか。
選考基準を一般人の我々が知るものではないが、なぜ「その人なのか」の
理由はあるはず。当時の世相事情から推測することぐらいはできる。
1958年12月1日、初代の一万円札の「顔」「聖徳太子」だった。
「岩戸景気と呼ばれるものが始まった年」で以降、18年間、日本は高度
経済成長期の波に乗り、五輪、万博などを成功させ、世界の主要国の仲間
入りを果たした。いわば「聖徳太子」推古天皇の摂政として政治・法律
の整備をし、隋など他国との交流と文化導入にも努め、当時の日本文化を
大きく発展させた人であった。


日本の男のかたち田に力  伊藤のぶよし 


1984年11月1日、一万円札の「顔」聖徳太子から「福沢諭吉」
交代する。高度成長を成し遂げたので、次は「文化立国」を目指したのか。
残念ながら福沢時代は「バブル崩壊や数々の大きな災害」に直面し、その
復興にみるように、日本の経済は低迷期に入ってしまった。文化国家を目
指すためには、経済的にも豊かでないとどうにもならない。しかし、低成
長のお蔭で、日本は、世界の成長から取り残されつつあることは否めない。
「このままではいけない。文化国家よりは、やはり経済国家だ」と考えた
政府は、一万円札の顔を福沢諭吉から「日本資本主義の父」と尊称される
渋沢栄一に代える結論をだした。
 
 
軽い財布には動かない自動ドア 高野末次


「渋沢栄一」「近代日本経済」の礎を築いた大実業家で、第一国立銀行、
東京海上日動火災保険、東京電力、東京ガス、J R 東海、日本郵船、キリ
ンビールなど約500社もの企業の設立・育成に携わった。約六百の社会
公共事業に携わったといわれる。また実績だけではなく、経営理念でも高
く評価されている。1916年に書籍化された著書・「論語と算盤」では
一見かけ離れた道徳(論語)と経済(算盤)は、表裏一体だとする「道徳
経済合一説」
を唱え、これは「現代に通じる考え」とされる。こうしたこ
とから2014年を目途に刷新される新一万円札の「顔」に選ばれた。
そして今「青天を衝け」の題もよろしくドラマで日本のあるべき道を指す。


自分史の余白は風の通り道  嶋沢喜八郎


「渋沢山脈」 ①-渋沢家人物相関図


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渋沢栄一
渋沢栄一は21年度の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公。
栄一を吉沢亮が演じる。「亮は ワシによう似とる美男子だからな。
頑張って
ほしい」と、渋沢栄一が言ったかどうかは、知らない。
実際に栄一が言った言葉には、次のようなものがある。
「さあ、クヨクヨしよう。クヨクヨすることをバネにしよう。今、クヨ
クヨすることは将来のためなら大丈夫」(栄一・一言集)。渋沢栄一は
身長150cmと躰は小さいがやることはでっかい人だった。栄一の好物は、
深谷の名物「煮ぼうとう」で栄一が詰まっているような料理である。


鉛筆を倒して聞いた天の声  近藤北舟
  
 
 
  
渋沢市郎右衛門(元助) 厳格な栄一の実父 (小林薫)
武蔵野国榛沢郡地洗島村の豪農・渋沢家の分家「東の家」の出。分家の
一つ「中の家」のゑいと結婚し、婿養子となった。骨身を惜しまず働く
勤勉家で、家業の研究に余念がなく、家業の藍作りや藍玉の製造販売な
どで財を成し、没落気味の同家の再興に尽くした。
世話好きで学問を好み、風流をよく解したという。四角四面で厳格な父
だが、破天荒な栄一の生き方を、誰よりも支援した。
 
 
世渡りのこつをラップの芯に聞く  宮いいずみ
 

 
 
渋沢ゑい 慈悲深い栄一の母。 (和久井映見)
渋沢家の分家「中の家」の娘。慈悲深い女性で数々の逸話が遺されている。
後年、栄一が社会福祉や医療事業に尽くすことになるのも、そんな母の影
響を受けたのだろう。お人よしで、情け深く「みんながうれしいのが一番」
の精神を幼い栄一に教えた。
「ゑいの慈愛のエピソード」
栄一の母・ゑいは、栄一と千代の結婚式に出席していない。近くに眼病を
病むりんという貧しい中年女が居り、そちらへ様子を見に行っていたため
という。恐い伝染病なので誰も近寄らなかったが、ゑいは気にせず、親し
く付き合い、いつもりんを気にかけていたのである。


抜け道は猫が教えてくれました  中岡千代美


 

渋沢なか 栄一の姉。 (村川絵梨)
優しい母・ゑいとは打って変わり、歯に衣着せぬ物言いで、栄一にとっ
てはおっかない姉だ。


 
  
渋沢てい 栄一の妹。 (藤野涼子)
年の離れているだけ栄一ていが可愛くて、かわいがった。天真爛漫に
育ち、栄一の生涯においても気のおけない家族であり、やがて栄一の妻
となる千代の心の友にもなる。

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渋沢千代 栄一の最初の妻。 (橋本愛)
尾高惇忠の妹。18歳で従兄にあたる栄一と結婚。長男の篤二など二男
三女をもうけた。口数は少ないが芯は強い。コレラに罹患し早世する。


チコちゃんを連れて娘が里帰り  岸田万彩

         

 尾高篤二 廃嫡された長男。
  栄一千代の長男。幼少期に母を亡くしたため、姉の歌子夫婦のもとで
養育された。やがて渋沢倉庫社長などを務めるが、趣味人ゆえ実業界に
なじまず、不行跡もあって廃嫡された。もう一人の姉は渋沢琴子


          =====
 
渋沢兼子 鹿鳴館の華と謳われた後妻。 (未定)
貸金業で儲けた江戸の豪商・伊藤八兵衛の次女。美人姉妹と謳われた四
人姉妹の一人で第一銀行頭取・栄一の後妻になる。栄一との間に五男一
女をもうけるが、前妻の産んだ子どもと分け隔てなく育て栄一を支えた。


語尾に付く笑いはきっと護身術  下谷憲子
 
 
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 渋沢喜作 栄一の従兄。若き日の栄一の相棒。 (高良健吾)
父の文左衛門は、栄一の父・市郎右衛門の実兄。従弟の栄一と行動をと
もにし、一橋家に出仕し、以降慶喜のもとで活動したとされる。やがて
彰義隊を結成して頭取となり、戊辰戦争では幕府方として戦った。
維新後は大蔵省入りし、のちに実業家へ転身するも、度々投機に失敗し
て大損害を出し、その都度、栄一の後援を受けた。


幸せにきっとなれると鬼笑う  岡谷 樹




渋沢よし 喜作の妻。 (成海璃子)
情熱的な喜作にひと目惚れし、自らアプローチ。結婚後は、喜作をしっ
かり尻に敷く。栄一と喜作が京へ旅立ってからは、千代のよき相談相手
となって、共に夫の留守を支える。


 
 
渋沢宗助 栄一の伯父。 (平泉成)
「東の家」の当主。血洗島村の名主として、栄一の父・市郎右衛門と共
に村をまとめる顔役のような存在。甥である栄一には、時に口うるさく
小言を言う。


 
 
渋沢まさ 宗助の妻・栄一の伯母。 (朝加真由美)
人はいいが少々おせっかいな性格で、親戚である「中の家」でも何かに
つけて世話を焼きたがる。宗助との遣り取りが絶妙で、おしどり夫婦ぶ
りが、何とも憎めない。


定位置に今日も故郷は居てくれる  加藤ゆみ子


          

渋沢敬三 栄一の嫡孫 
栄一の長男・篤二の子。生物学者を目指していたものの、栄一の懇願を受
けて東京帝国大学卒業後に、栄一関連の会社や団体の役員に就任。栄一の
没後は子爵家を襲名し、名実ともに栄一の後継者となる。


 
 
尾高やへ 栄一の伯母 (手塚里美)
惇忠、長七郎、千代、平九郎の兄妹を育てた。やがて惇忠たちは尊王攘夷
の思想に突き進んでいく。いやおうなく幕末の動乱に巻き込まれていく子
どもたちを心配しつつも温かく見守る。


人間を絞れば白し胡蝶蘭  河村啓子
 
===== === 
 
尾高惇忠 栄一の従兄・学問の師 (田辺誠一)
武蔵国榛沢郡下手計村(ばかむら)の名主・尾高勝五郎の三男。学問を修
めて私塾を開き、隣村・地洗島村に住む従兄の栄一に、漢籍を教えるなど、
大きな影響を与えた。幕末には渋沢喜作とともに、最後まで新政府軍と戦
った。維新後は実業家に転身し、富岡製糸場の初代工場長を務めた。
深谷にある惇忠の墓碑には、栄一の手により「学あり行いあり君子の器。
われまた誰をか頼らん。何ぞわれを捨てて逝けるや」
と記されている。


 

尾高きせ (手塚真生)
惇忠の妻。各地から草もうの志士が訪れるほど、文武に精通した人格者の
夫を寡黙に支える。長男の務めがあるため、家を出ることができない惇忠
の歯がゆさを、言葉にはしないがひそかに感じている。
 
 
剃刀にときどき顎が引っかかる  桑原伸吉


 

尾高長七郎 栄一の従兄 (満島真之介)
惇忠の弟。長身で堂々たる体躯の長七郎は、神道無念流の剣豪として名を
とどろかせるようになり、栄一の憧れの存在になる。兄・惇忠に代わって
江戸や京へ遊学に行き、世情を栄一らに伝える。

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尾高平九郎 栄一の従弟 (岡田健史)
末子である平九郎は、偉大な兄の背中を追いかけ、姉の千代を心から慕い、
文武両道で心優しい青年に育つ。栄一のパリ行きに伴い、見立て養子とな
るが、そのことがきっかけとなり幕府崩壊の動乱に巻き込まれる。


実線も破線も べた凪の内に  山本早苗

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徳川慶喜 一橋斉昭の七男 (草薙剛)
栄一にとって慶喜は、誰よりも特別な存在であった。栄一は24歳の時、
慶喜に仕え一橋領内の産業奨励や財政強化などに力を尽くす。慶喜が徳川
宗家を継いだ後も、幕臣として仕え、フランス行きや、明治新政府に命じ
られ帰国した後に、謹慎中の慶喜がいる静岡に留まった背景には慶喜の配
慮があった。その後、栄一がビジネスで多忙になっても、慶喜の恩を忘れ
ることなく、大坂方面へ出張があるときは、静岡にいる慶喜を訪問し土産
物を持って行ったり、時には落語家を連れて行ったりして、慶喜を慰めた。
こうした付合いから慶喜の真意を後世に伝えるべく、熱い思いをこめ25
年の歳月をかけて、慶喜の伝記を編纂する。


夕暮れは明日のために忙しい  柴本ばっは


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徳信院 慶喜の養祖母 (美村里江)
一橋家当主・徳川慶寿の正室となるも、若くして死別し徳信院と名乗る。
慶寿の後継も亡くなり、慶喜が次いで後継となったため、わずかな年齢
差で養祖母となる。


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美賀子君  慶喜の正室。 (川栄李奈)
病にかかった慶喜の婚約者の代わりとして正室になる。一橋家の未亡人
である徳信院と慶喜の仲を疑い、自殺未遂の騒動を起こす。付かず離れ
ずの夫婦であるが、やがて慶喜のよき理解者となる。


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吉子(登美宮) 慶喜の母。 (原日出子)
水戸藩藩主・徳川斉昭の正妻。夫の斉昭は非常に気性の荒い人で、阿部
正弘
などから誤解を受け、波乱の水戸家を演出するが吉子は、そんな水
戸藩を見守り、内助の功を発揮する。


抽き出しは一つ伏せたい愛二つ  上田 仁


 

平岡円四郎 慶喜の側近。 (堤真一)
栄一の才能を認め、栄一の運命の人となる慶喜に引き合わせたのが円四
である。旗本でご時世、不甲斐ない日々を送っていたが、縁あって
の小姓となる。慶喜からの信頼を厚くし、筆頭クラスの用人にまで昇
進する。攘夷の志士を目指していた栄一は、円四郎と出会ってから人生
が動きだす。


 
 
平岡やす 円四郎の妻。 (木村佳乃)
吉原の売芸者。放蕩生活を送っていた平岡円四郎に見初められ妻となる。
美人だが気はめっぽう強く、粗野で破天荒な円四郎もやすには頭が上がら
ない。


二番線ホームで待っているチャンス  本多洋子   


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徳川斉昭 水戸藩主 (竹中直人)
水戸徳川家第9代藩主。先進的で、実行力に富み、気性の激しさもあっ
て、のちに「烈公」と呼ばれる。それゆえに敵は多い。栄一の主君とな
る慶喜の父でもあり、幼少期から慶喜の才に期待し、暑苦しいほどの愛
情深さで育てた。



   
 
藤田東湖 斉昭の側近 (渡辺いっけい)
水戸藩主就任から支えた斉昭の腹心。斉昭が隠居謹慎処分を受けると、
東湖も蟄居を命じられるが、やがて斉昭と共に復活。「回天詩史」など
数々の著作が尊攘志士に愛読され、信望を集めた。安政の大地震で非業
の死を遂げる。
 
武田耕雲斎 斉昭の側近。 (津田寛治)
藤田東湖と共に藩主・斉昭を支えた、尊攘派の水戸藩士。やがて東湖の
息子・藤田小四郎が起こした「天狗党の乱」をいさめる立場に立つも、
小四郎に懇願されて総大将となり悲惨な最期を遂げる。


頷いただけでひまわり枯れてゆく  森田律子



 
 
井伊直弼 大老。 (岸谷五朗)
彦根藩主の14男として不遇な人生を送るが、兄の病死により藩主に就任。
さらに大老となり、幕府の実権を握ったことで運命は180度転換する。
「安政の大獄」を断行して、慶喜らに非情な制裁を下す。
 
阿部正弘 老中。 (大谷亮平)
弱冠25歳で老中職を務める。ペリー来航後の国難に立ち向かうため、
水戸藩主・徳川斉昭を海防参与に登用するなど手腕を発揮。開国か鎖国
かに揺れる幕府の舵取りに、心労を重ねていく。


権力が時に政論ねじ曲げる  水野黒兎



 

松平慶永(春嶽) 福井藩主。 (要 潤)
「才ある美しいものを好む」という気質からか、慶喜の英邁さをいち早
く見抜いてすっかり心酔。慶喜を次期将軍に押し上げるべく奔走する。
安政の大獄で隠居した後、慶喜と共に京へ上り、政界に復帰する。
 
橋本佐内 福井藩士。小池徹平)
藩主の慶永に才能を見いだされ、藩医の立場から側近へ。将軍継嗣運動
の中心となり、慶喜の側近・平岡円四郎を巻き込んで、慶喜の英邁(えい
まい)さを伝える文書を完成させる。安政の大獄により若き命を散らす。


繭吐いたあとが大きな穴になる  赤松ますみ


 
  
 
高島秋帆 洋式砲術家。 (玉木宏)
国兵制改革の急務を幕府に上申するも、秋帆は、無実の罪で武蔵野国の
岡部藩の獄に投ぜられる。岡部藩では客分扱いとし、藩士に兵学を指導
した。秋帆の門人たちは、幕府に願い赦免に尽力。12年の受牢の後に、
ペリー来航の脅威に幕府は、近代兵学の必要性に迫られたことから急遽
秋帆は赦免される。

永井尚志 海防参与 (中村晴日)
ペリー来航後、海防掛に就任。海防参与となった徳川斉昭の過激な言動
に振り回される。将軍継嗣問題では、一橋派に属していたため、安政の
大獄にて罷免された。やがて慶喜を補佐する立場となる。
 
 
アンコウのような暮らしがまだ続く  指方宏子

 
 
大橋訥庵 儒学者。 (山崎銀之丞)
「思誠塾」を開き尊王攘夷を唱え、多くの塾生に影響を与える。栄一
従兄である尾高長七郎も塾生の一人であり、大橋の思想に傾倒。大橋の
旗振りによって老中・安藤信正の暗殺計画を企てる。 
 
利根吉春 岡部藩代官。 (酒向芳)
栄一が暮らす血洗島村を治めている岡部藩の代官。時折、中の家にやっ
てきては横柄な態度で馳走をむさぼり、宗助市郎右衛門に莫大な御用
金や人足を求める。やがて大人になった栄一も対立することになる。


神様の気まぐれだろうもんじゃ焼き  雨森茂樹

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相棒は下心シーラカンスは二心  山口ろっぱ
 
 

     『源頼光公館土蜘蛛作妖怪図』(歌川国芳画)


武者達の衣装の家紋を読解く、天保の改革を主導した老中・水野忠邦
をはじめ幕閣の見立てになっている。源頼光四天王がくつろいでいる。
闇のなかには、無数の魑魅魍魎が跋扈する。
 右奥で土蜘蛛に憑りつかれているのが源頼光=12代・徳川家慶
頼光の前で、わしゃ知らん顔をしているのが卜部季武=老中・水野忠邦
他人事のように、碁に興じている右方の人物が渡辺綱=老中・真田幸貫
その相手は坂田金時=老中・堀田正睦
左下で茶碗酒を持つ人物が碓井貞光=老中・土井利位と見立てている。
その実は時の「天保の改革」で酷政を断行する為政者たちと、それに怨
嗟の声をあげる庶民たちの姿を描いた風刺画である。
(卜部季武(すえたけ)と水野忠邦の紋は同じ「澤瀉紋(さわがた)」)



意味深なふくみ笑いの片えくぼ  小池正博



     むしゃの国芳を決定付けた一枚・相馬の古内裏



「むしゃの国芳」 (歌川国芳)
 
 
日本橋白銀町の染物屋に生まれた歌川国芳は、子どものころから染物職
人としての修行を積みながらも、人気絵師の絵手本などを頼りに独学で
人物画を練習し、12歳のときに、鍾馗(しょうき)が剣を提げる様子
を描いた。そのあまりの完成度の高さに、周囲の大人は度肝を抜かれた
という。その噂を聞いた初代・歌川豊国は、その才能に惚れこみ入門を
許した。15歳のときである。因みに、同じころ自ら弟子入り志願した
広重は門前払いをくらっている。18歳で合巻の挿絵を手がけ、19歳
で最初の錦絵を出しており、早くからその頭角を現し、十代後半から作
品を発表してゆくのだが、同門の国貞ほどには師の引き立てを得られず、
長く不遇の時を送っていた。
 
 
進みなさい次の景色が見えるから  新川弘子
 


豊国門下には、江戸随一の人気流派とあって、のちに三代目・豊国を継
ぐことになる国貞を筆頭に、実力ある若手絵師がひしめいていた。20
歳を過ぎた頃には「一勇斎」の号を用いはじめ、その名に違わぬ迫力あ
る佳作を残しているが、浮世絵の売れ筋ジャンルであり、歌川派のお家
芸である役者絵と美人画においては兄弟子・国貞の圧倒的な活躍の前に
霞んでしまい、なかなか結果を残せなかった。このころの貧乏暮らしは
はなはだしく、版下絵を持って版元に直接売り込みにいったりもしたが、
画料を得ることはできなかったという。
 
 
笑うこと忘れてただの葱坊主  嶋沢喜八郎
 

途方にくれて両国の盛り場を徘徊し、柳橋を渡ろうとしたところで橋下
から「先生」と呼びかけられたので下をみると、顔見知りの芸妓だった。
何気なく「今日の客は誰なんだ」と訊けば、兄弟子の「国貞さん」だと
いう。国芳国貞の羽振りのよさが羨ましく、仕事もなくふらふらして
いる自分が無性に悔しくなった。「このままでは埋もれる」危機感を抱
いた国芳は、他流派の技法も積極的に取り入れ、葛飾北斎に私淑するな
どして独自路線を模索した。そして「いつか国貞を越えてやる」という
強烈な執念を原動力に、人知れず研鑽を積み続けた。
 
 
剃刀にときどき顎が引っかかる  桑原伸吉




       『羅得島湊紅毛船入津之図』 (歌川国虎画)



「豊国一門」ーどんな人がいる
歌川豊国一門は、江戸一番の人気流派である。のちに三代目・豊国を襲
名する国貞は別格として、その下に豊国門下の三羽烏といわれた、国直、
国丸、国安、が控え浮世絵のオールジャンルで活躍。国芳は下積み時代、
国直のもとで作画のイロハを学んでいる。また奇才と呼ぶにふさわしい
のが国虎。『羅得島湊紅毛船入津之図』(ろこすとうのみなとをらんだ
ふねにゅうしんのず)ではロートス島の港に仁王立ちする巨人像を描き、
そのあまりに大胆かつ唐突な着想が話題を呼んだ。師匠の豊国にはその
才能を称賛されたが、国虎自身はあまり絵を描くことを好まなかったと
いう。
 
 
地獄の中で一番好きな場所  蟹口和枝




「通俗水滸伝豪傑百八人之一人・短冥次郎玩小吾」
 
 
国芳の下積み時代におけるこのような不遇は、本人の性質によるところ
も極めて大きかった。一人称は「ワッチ」で相手のことは「オメェ」と
いう絵に描いたようなベランメェ口調の江戸っ子で、頭の回転は速いが
学がなく、礼儀を知らない。おまけに火事と喧嘩、そしてお祭りが大好
きで、騒ぎとみると、じっとしていられずに渦中に飛び込んでいったと
いう。いわば問題児だった。



アリバイにならぬ滲んでいた時間  山本早苗
 
 
 

「狂歌師・梅屋鶴子(うめのやかくし)」


 しかし、類は友を呼ぶで、生涯の知己となる悪友もあった。
狂歌師・梅屋鶴子である。鶴子は家業の秣屋(まぐさ)はそっちのけで
狂歌に打ち込み、22歳の若さで、判者の一人としての地位を確立した
人である。武張ったことが大好きな棒術の使い手で、全身に龍の刺青を
入れていたという文武両道の不良である。鶴子の全身刺青は中国の伝記
小説『水滸伝』ブームに影響されてのものであった。
 
 
同時通訳ロシア語のべらんめい  井上一筒




「通俗水滸伝豪傑百八人之壱人 浪裡白跳張順」
筋骨隆々の豪傑の全身に描き入れた華麗な刺青
 
 

「世間からつまはじきされた108人の豪傑たちが梁山泊に立て籠もり、
義のために戦う…」というのが「水滸伝」の筋である。
水滸伝の流行とともに、江戸の勇み肌な男たちの間でも、刺青を入れる
ことが流行っていた。はじめは肩や腕などに施す部分的なものが多かっ
たが、だんだん過剰になり、鶴子のように全身に墨を入れる者が増えて
いった。国芳は自分より4歳も年下ながら、一目おいている鶴子の姿に
インスピレーションを得て、31歳のときに、発表した武者絵の連作・
『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』では筋骨隆々の豪傑たちの全身に華麗
な刺青を施し、画面いっぱいに躍動させた。



真っ新な明日になりそう大落暉  荻野浩子



この男臭い世界観は、それまでの美男美女を愛でるものが王道、という
浮世絵界の常識を覆すもので大評判となった。髪結床の暖簾にまで国芳
風の水滸伝が染め抜かれ、国芳の描いた水滸伝のように刺青を施すのが
流行った。これを受け、国芳が一方的にライバル視していた国貞『流
行役者水滸伝百八人之一個』という、国芳の水滸伝人気に便乗した作品
をだしている。国芳が、兄弟子の背中を捕えた瞬間なのかもしれない。



人の名を忘れ魚に戻る夜  月波余生



 
    大石内蔵助           吉良上野介

水野忠邦が失脚して国芳は赤穂浪士を一人一図で描いた武者絵・
『誠忠義士伝』 水滸伝以来の大ヒットとなった。



『通俗水滸伝豪傑百八人之壱人』という錦絵が大ヒットしたことによっ
国芳の名は、その名が市中に広まった。曲亭馬琴『傾城水滸伝』
引き金となって急速に高まりつつあった水滸伝ブームに乗じたものであ
ったが、大好評を博したのは、『水滸伝』に登場する英雄たちを描く作
品の力強い形態と、大胆で躍動感に満ちた構図が、従来の武者絵を大き
く凌駕する魅力を放っていたからにほかならない。
こうして国芳は「武者の国芳」(江戸寿那古細撰記)の異名を得、和漢
の故事や歴史説話に取材した作品を数多く制作するようになる。



座ってるただそれだけでいぶし銀  和田洋子



人気絵師になったとはいえ、国芳の生活は質素なままだった。江戸っ子
らしく宵越しの金は持たない主義。画料が入ればその日のうちに使って
しまい、貯めるということをしなかったし、身なりも縮緬のドテラに三
尺帯を締めて、羽織袴をつけることはまずなかった。
しかし、思いもよらないところから強力なライバルが現れる。



いつまでもいい子ぶってはおれません  井本健治



  「宮本武蔵と巨鯨」
 
 
ライバルとは『東海道五十三次』を大ヒットさせた歌川広重である。
広重の名所絵は地方への江戸土産としてうってつけで、瞬く間に浮世絵
の売れ筋ジャンルとして認知されるようになり「けしき絵の広重」の名
は、江戸中にとどろいた。実はこの時期、国芳も西洋風の画風を取り入
れた独自の風景画を描いていたのだが、広重ほどの人気は得られなかっ
た。歌川派入門の時点であれだけ歴然とした差のあった広重が、気がつ
けば自分のすぐ後ろに、否、下手をすると肩を並べるまでに迫っていた。




       「東都名所・かすみが関」(国芳のけしき絵)
 
 
 
東海道中膝栗毛から紙魚  森田律子
 
 

 
   「人をばかにした人だ」   「みかけはこいがとんだいいひとだ」
 
 
「こいつにだけは絶対負けない」とさらなる躍進を誓った国芳は、自身
の代名詞である武者絵の躍動感を、よりダイナミックに表現するために、
大判三枚ぶち抜きで、横長の画面を作り上げるなど、奇想天外な手法で
大衆の心を掴んでいった。武者絵以外にも、新たな分野を貪欲に開拓し、
特に人を寄せ集めて顔を作ったり、擬人化した動物を描いたり、という
「戯画」で評判を得る。さらに注目すべきは、「判じ絵」を使った風刺
画である。当時、世間では、天災や飢饉によって庶民の生活が脅かされ、
深刻な社会不安が広がっていた。



腐っても腐らなくてもこの世やし  北原照子

 


    「猫の涼み」           「猫のお稽古」
 
 
「国芳の戯画」
最後に忘れてならないのが「戯画」である。彼の戯画は『武功年表』
天保年間の記事に「此の年間浮世絵師国芳が筆の狂画、一立斎広重の山
水錦画行わる」とあるように、広重の風景画と並び称されるほど当時か
ら人気があったものである。ユーモアのセンス、機智を凝らした趣向の
妙、いずれも高水準にある。特に動物を擬人化したものは、動物の可愛
らしさと人間くさい仕草の取り合わせが絶妙である。



法螺を吹きながら溜め息つきながら  平尾正人
 
 

 
        「荷宝蔵壁のむだ書(黄腰壁)」



部類の猫好きだった国芳は、猫を題材にした戯画を数多く描いている他、
金魚や狸、亀なども彼によって擬人化されている。また、当時の出版界
への厳しい規制の網をかいくぐるべく作られた「落書き風・役者似顔絵」
「人をばかにした人だ」のように純粋な形の遊びに類するものもあり、
国芳の発想はこのうえなく、豊かであった。



迷わなくなったら箱に入ります  船木しげ子

拍手[3回]

思い出し笑いをすると追加税  美馬りゅうこ
  
  
  
        
      吉沢亮            渋沢栄一
  NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主役・渋沢栄一を演じる吉沢亮と
パリに滞在する総髪の渋沢栄一

 
栄一の古郷・血洗島村(埼玉県深谷市)は、利根川の南岸に位置する、
寒暖差に富む農村だった。物騒な村名は太古の神々の戦い、もしくは
平安の戦にちなむともいう。血洗いは「地洗い」に通じ利根川の氾濫
に際し、島のように残される村という由来もある。
この村に渋沢栄一は、天保11年(1840)2月13日に生まれた。
そして栄一が産声をあげた翌日・14日から、栄一主役の大河ドラマ
「青天を衝け」が始まる。脚本がどのように展開するか知りませんが、
栄一の為人を学習しておくと、ドラマが分り易く、面白くなるとおも
いますので、ここにざっと渋沢ストーリーを紹介したいと思います。



それは鼻スイッチではありません  河村啓子




          旧渋沢邸「中の家」主屋


「はじめに」
武蔵国血洗島村の農家に生まれた栄一は、人一倍おしゃべりで、幼い頃
から家業の「藍玉づくり」を手伝い、思わぬ商才を発揮する。
青年期には、従兄の喜作(高良健吾)らと「尊王攘夷」に傾倒、外国人
襲撃を計画するも断念する。逃亡先の京で徳川慶喜(草薙剛)の側近・
平岡円四郎(堤真一)に助けられ、思いがけず幕臣となる。
パリ渡航中に幕府が倒れ、その後も慶喜への思いを抱きつつ明治政府の
役人となり、租税や貨幣などの改革に携わる。33歳で明治政府を辞め、
民間人として数多くの事業を手掛けていく。



空が見えないA級の付けまつ毛  井上一筒



「渋沢栄一とはどんな人」 (栄一の少年期)
 
 
 

         「中の家」の正門
現存する東門と同じ、薬医(やくい)門の形式で建てられている・


血洗島村には、十数軒の渋沢家があり「前の家(まえんち)」「遠前の
家(とおまえんち)」「遠西の家(とおにしんち)」といった呼び名に
区別されていた。栄一の家は宗家にあたる「中の家」である。
中の家は、藍の他、麦と養蚕も手掛ける豪農だった。ことに藍葉は他の
農家からも買い付け、発酵・熟成の後、突き固めて愛玉に加工し、信州
や上州に販売する。加えて父の代から荒物(家庭用雑貨類等)も商い、
入った現金は質草をとって村人に貸した。栄一の生家は農工商をかねて
いた。



日に三度銭勘定をして暮らす  中村幸彦




帯刀した侍姿の渋沢栄一 (栄一17歳)
慶応3年(1867)フランス・パリで撮影。


栄一は中の家の三男に生まれた。幼名は市三郎。後に栄次郎、栄一郎、
栄一と改める。兄弟姉妹は十数人あったが、早世を免れたのは姉一人
と妹一人、それに栄一の三人のみ。そのため栄一は、長男として育てら
れた。
父の市郎右衛門は、村一番の富家で同族の東の家(ひがしんち)からの
入り婿だった。方正厳直ながら俳諧も嗜む風流人で、質素倹約を常とし
つつも慈善には熱心。傾いた宗家を村で二番目の富家に立て直した。
村内の信望も篤く、名字帯刀を許され、名主見習役になっている。



合掌の指の先から芽吹くもの  斉藤和子



母のゑいは、湯屋でハンセン病患者の背中を流すような、情の深い人だ
った。満五歳から父の指導で四書を読み『大学』『中庸』をわずか一年
程で読了。翌年、父の姉の息子で17歳の秀才、隣村の尾高惇忠(おだ
かっじゅんちゅう)の私塾に入門する。惇忠は、四書五経の暗記にはこ
だわらず、多読を推奨し、机上に限らず耕作の合間でも歩きながらでも、
気の向いたときに読むよう教えた。



昼は賢者で夜は過敏な幻燈屋  山口ろっぱ



栄一は『史記』『十八史略』『日本外史』を通読。また『南総里見八犬
伝』のような小説も大いに好んだ。年始回りの道すがらも、本から顔を
上げず、晴れ着のまま溝に落ちた年もあったという。
剣術は、満11歳になった嘉永4年(1851)3月、父の兄の息子、
渋沢新三郎に入門。力の剣法として知られた神道無念流を学ぶ。維新三
傑の一人である桂小五郎、新選組の芹沢鴨永倉新八と同流である。
家業の手が空く春、秋、冬には、10日ばかりかけて下野国(栃木)や
上野国(群馬)あたりを剣術修行で廻った。免許皆伝の記録はないが、
25歳の折、備中(岡山)で剣術師範を打ち負かした話は残っている。



時々は心に風を通さねば  靏田寿子
 

 
 
            藍玉通
父の代から藍葉を加工して紺屋に売る商売をしていた。


        藍 玉


満13歳のころからは農商業が生活の中心となる。藍葉の買い付けでは、
名人と呼ばれた父を真似て肥料の甲乙から刈り方の良し悪しまで的確に
寸評。面白い子だと感心され、買い占めに成功するなど商才の片鱗をみ
せた。17歳ころからは、藍玉代の集金やr注文取りで年に4回は信州や
上州、武州(埼玉)秩父の得意先を回った。農閑期に入ると藍葉農家を
招待して宴席を設け、作柄に応じた番付けを発表。番付の順に席次を決
め競争心を煽る。本場、四国は阿波の品質を追い抜くための工夫だった。



鞄からチラリあしたのはかりごと  宮井元伸
 
 
 
  「栄一誕生時の社会情勢」
栄一誕生の天保11年頃の日本は、7年前に始った「天保の大飢饉」
らようやく脱したところ。前年には長州の高杉晋作が、翌年には、伊藤
博文が生れ、同年には、チャイコフスキーや画家のモネ、彫刻家のロダ
が生れている。隣国の清では、2年いおよぶ「アヘン戦争」が始まろ
うとしていた。栄一誕生の4年後にはオランダ軍艦が長崎で開国を迫り、
9年後には英国船が「江戸湾の測量」を断行。ペリーの「黒船来航」
日本が幕末に突入するのは13年後に迫っていた。



信号がずっと黄色のままである  杉山ひさゆき
 
 


      渋沢邸「中の家」の十畳間


栄一が16歳のとき、血洗島村は、武州岡部藩・阿部摂津守信宝(のぶ
たか)の領だった。姫の嫁入りや若殿の元服など物入りの際、領主は有
力村民に融資を命じる。東の家が千両、中の家が五百両といった具合で
ある。その日、栄一が父の名代として、他の有力村民2人と陣屋に出向
いたのも、融資の命令を受けるためだった。父からは「御用の趣を聞い
てこい」とだけ言われていた。



燃やしてみるか才能の残りカス  森田律子



現れた代官は果たして五百両の融資を申し付ける。同行の2人は一家の
当主だったから、すぐに「承知」の返答が出来た。が栄一は名代である。
「御用金の高はかしこまりましたが、一応、父に申し聞かせ改めてお受
けにまかりでます」と答えるしかない。(渋沢自伝『雨夜譚』)



Y字路に来るたびサイコロを投げる  岸田万彩



「貴様は何歳になるか」
「ヘイ私は17歳でござります」(この時代の年齢は数え歳)
「17にもなっておるなら、もう女郎でも買うであろう。してみれば三
百両や五百両は何でもないこと。いったん帰ってまた来るというような
手ぬるいことは承知せぬ。直に承知したとという挨拶をしろ」
それでも栄一は
「父からただ御用を伺って来いと申し付けられたばかりだから」
と即答を避け、代官は
「貴様はつまらぬ男だ」
と栄一を叱り、嘲弄し、そしてついには折れた。



ほんのハナウタ渦を背中であやしつつ  酒井かがり



帰り道、栄一は考えた。
「領主は年貢を取りながら、返しもせぬ融資まで命じ、そのうえ人を軽
蔑嘲弄する。あんな無教養の代官でも、人を軽蔑できるのは、官職を世
襲する徳川政治のせいだ。自分も百姓のままでは、あんな虫けら同様の
人間にまで軽蔑されなければならぬ。さてさて、残念千万のことである」
栄一の怒りがすぐ幕政批判に結びついたのは、黒船に押し切られてしま
うような幕府への不信感が、すでに庶民の間にも広まっていたからだ。
わが身に降りかかった具体例が、それを実感させた。
この後、栄一は、晩年に至るまで官尊民卑の風潮を憎んだ。そして栄一
が抱いた不満は、やがて「尊王攘夷思想」へと育ってゆく。



忘れよう象に踏まれたことなんか  笠嶋恵美子

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