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川柳的逍遥 人の世の一家言
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裾上げもできずこの先どうするの  鍋島さと和
 


川村惠十郎と勇親子
 
 
川村惠十郎渋沢栄一が表舞台に登場するきっかけを作った。
当時、農民だった渋沢の才能を見込み、徳川御三卿のひとつ、
一橋家に引き合わせた、という記録が残る。
維新後、新政府に出仕し大蔵省、内務省、宮内省等に勤めた。
 
 
「青天を衝け」 渋沢栄一と平岡円四郎 





文久3年(1863)11月25日、渋沢栄一渋沢喜一は、伊勢参り
と称して、まず江戸に逃れ、そこから京に向かった。横浜焼き討ち未遂
テロのほとぼりを冷ますのが目的で、当てなどはない。2人は出がけに、
栄一の父が持たせてくれた百両で漫然と過ごしながら、幕府の動静を問
うために一橋慶喜用人・平岡円四郎をしばしば訪ねた。平岡とは、以前、
栄一が江戸遊学中の折に知遇を得たものだ。平岡は栄一たちより18歳
ほど年上だが、資性聡明、才気煥発で気さくな人柄で、栄一のことが気
にいっていたようだ。


君のこと好きです 広い意味ですが  前原正美
  
 
平岡円四郎は、幕府系の立場ながらも、反幕にも理解がある。この頃、
慶喜は将軍後見職として、長く京都に滞在していたが、江戸の老中た
ちとの関係がうまくいかず、平岡は不満を抱いていたのだ。
かつて栄一は、平岡に見込まれ「一橋家に仕えないか」と誘われ断っ
たことがあった。その後、平岡が慶喜に従って京にのぼる際にも「そ
の気になったら、いつでも来い」と言ってくれていた。
今は、その厚意にすがるしかない。栄一たちが江戸に着いた折、平岡
の留守宅を訪ねると、意外にもあっさりと、平岡家家臣という通行手
形を出してもらえた。読みの鋭い平岡が、この日の来るのを見越して、
言い置いてくれたのだ。


奇跡ってがらがらポンにつくおまけ  前中知栄



平岡円四郎(堤真一)


一橋家にも平岡家にも仕える気などなかったが、とにかく手形を携えて、
2人は西に向かった。無事に京都に着き、年末には伊勢参りもすませた。
年が改まってからは、薩摩藩の西郷隆盛や勤王の志士たちと交わった。
交友が広がるのはいいが、栄一たちの懐具合が、厳しくなってきた。
そんな折、江戸から尾高長七郎や高崎城乗っ取りの同志が、関東で別件
捕縛されたという報せが届く。栄一たちにも探索の手が伸びるのは必至
だ。2人は慌てた。京は危ない、だが、江戸方面は京より危なくて帰れ
ない。第一行くにも留まるにも金がない。2人の進退は極まった。そん
なところへ、平岡から呼び出された。恐る恐る出向いてみると、2人が
本当に家臣かどうか、幕府から問い合わせがきたという。


深呼吸すれば咲けるのかも知れぬ  木村徑子


「今度こそ、ふたりとも一橋家に仕えぬか、当家の家来になれば、捕縛
の手は及ばぬぞ」
栄一たちは、いまだ討幕を目指しており、一橋家は、徳川将軍家の近親、
御三卿のひとつだ。また突っぱねようとしたが、口を開く前に、
「近々わが殿は将軍後見職を返上して、江戸とは距離を置くことになる」
と、耳打ちされた。


何か切ない冬の小声に振り返る  山本昌乃


「どうするべきか」、2人は悩み、問答をはじめた。
「討幕派が一橋家に仕官では、とうとう食い詰めたか、と言われるぞ、
何より自分に恥じないか、栄一よ」
と喜作が言えば、
「その通りだが、気高いだけでは褒められはしても、世の利益になら
ないぞ」
と答え、
「世に効なくば意味がない。まごまごしていれば捕まるかもしれないし、
第一すぐ暮らしに困る。困って泥棒になってもしゅがない。今は何と言
われようとも試しに一橋家に奉公してみないか」と、栄一は続けた。


自画像の中を流れてゆく時間  三宅保州


まもなく慶喜は、朝廷から禁裏御守衛総督を命じられ、今まで務めてい
た将軍後見職は辞任するという。つまりは、一大名として、幕府方から
朝廷方へ鞍替えするも同然だった。慶喜の実家である水戸徳川家も、御
三家ながらも尊王方であり、それに倣うのだと、平岡円四郎は説明した。
また慶喜の実母は、有栖川宮家から水戸家に嫁いできた姫であり、慶喜
自身、有栖川宮の外孫であることを何より誇りにしているという、心情
的にも朝廷寄りだった。ただ一橋家は、「他の大名家と違って、自前の
家臣を持っていない、幕臣の出向ばかりで信頼できる者がいない」と、
平岡は嘆く。


どれだけのヒントを出せば気がつくの  前中一晃


「特に算盤を弾ける者がおらぬ、そなたなら適役だ」
栄一は、喜作と顔を見合わせてから、戸惑いを打ち明けた。
「でも、それがしでは身分が…」
農家の出で、一橋家になど召し抱えられない、と言葉に含ませる、
平岡は一笑に付した。
「わが殿は、人物本位で重んじてくださる」
栄一の心が動いた。喜作も乗り気で、直ぐ慶喜のもとに連れていかれた。
身の程知らずにも、栄一が、慶喜直々御目通りを望む、平岡は無理を
通してくれた。それほど高く買ってくれていたのだ。


明日へと血を滾らせる大落暉  大西將文  



一橋慶喜(草薙剛)


御目通りを許された、この時、栄一慶喜の御前で大言壮語をはいた。
「幕府の命脈はすでに尽きているから、一橋家は幕府と敵対すべきだ」
と、訴えたのだ。本来なら、無礼討ちにされて当然のところだが、栄一
としては、命がけで、平岡の言葉の真偽を確かめた、のかもしれない。
慶喜は黙って聞いていた。平岡の人を見る目を信用していたのだろう。
栄一は、拒まれなかったことで気がすんだらしく、喜作ともども一橋
家の末端に連なった。


釣り堀の鮒は戻されまた掛る  佐藤近義
 
 
    
    川村恵十郎       波岡一喜


横浜襲撃を断念した栄一喜作は、一橋用人の平岡円四郎に見いだされ
て、一橋家に出仕し元治元年(1864)以降、一橋慶喜のもと京都で
活動したとされている。慶喜は、尾高新五郎が心酔していた水戸藩主・
水戸斉昭の七男である。攘夷論者にとっては期待の星であった。栄一ら
が横浜焼き討ちの計画を練っていたころ、一橋家では、横浜の鎖港交渉
が決裂し、西洋諸国と戦端が開かれた場合を想定して、草莽有志を登用
する計画を立てていた。その中心に平岡円四郎がおり、平岡に意見具申
したのが、川村恵十郎であった。


傷口を見破ったのはクレヨン画  郷田みや


川村惠十郎は、八王子の小仏関所番見習いながら、江戸と人脈を広げて
平岡と接触、その後、平岡の部下として柔軟に動き、鋭い目つきで情報
収集に努めるとともに、 攘夷派から命を狙われる平岡の傍に付き、護衛
を務めていた。そこで惠十郎は、平岡に在野の有志を一橋家で登用する
必要性を説いた。平岡の賛意を得た惠十郎は、伝手を使って有志募集の
周旋を開始した。その過程で栄一と喜作が見いだされたのである。


ショッツルにしばらく漬けてあるあなた 井上一筒  
 



惠十郎は厳しい目で栄一・喜一の適正を見つめていた。
 

惠十郎の日記に、初めて栄一喜作が登場するのは、文久3年9月9日。
惠十郎が栄一・喜作に目を付けたのは、 江戸の酒場で2人の威勢のよさ
を見たのが、きっかけとなった。そして、惠十郎が2人と対面したのは、
同月18日であった。朝から昼近くまで2人と話し込んだ惠十郎は、両
人を「真之蝦夷家」と評価した。このことを平岡に話すと「殊外(こと
のほか)感激之様子」であったという。当時、栄一と喜作は、横浜襲撃
計画の渦中にあったので、この計画も話題に上がったかもしれない。
そうであるならば、関東草莽決起と一橋家の有志登用と結びつく可能性
もないわけでもなかった。


体重計で人の器は計れまい  笹倉良一


栄一喜作一橋家で取り立てることは、「横浜襲撃計画」と同時に進め
られ、血洗島村の領主・安部信発にも掛け合いがなされた。10月20日
前後には、慶喜の上京に合わせて、両人が登京することも決まり、このこ
とは、彼らから新五郎にも伝わっていた。決起前にも拘わらず、新五郎は
彼らを引き留める様子はなかった。栄一らの一橋家登用とその登京は、横
浜襲撃計画にとってマイナス要因ではなかったのであろう。しかし、結局、
関東草莽と一橋家がむすびつくことはなく、栄一・喜作の登京と一橋家出
仕のみが実現したのである。


失敗を刻んで明日の糧とする  中川隆充

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