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川柳的逍遥 人の世の一家言
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踏んづけていたのは幸せの尻尾  高野末次
  
 
 
葵小僧-①


「火付盗賊改役」 平蔵 VS 葵小僧


「浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ」
この台詞は、秀吉時代の盗人・石川五右衛門の辞世とされるが、五右衛
門は死ぬところまで恰好よく、盗賊としての信条があったようだ。
時代は江戸になってからも、賊たちは、盗賊追討の部隊が編制されると、
真っ向から受けて立ち戦端が開かれたという。生き様、死に様に、見栄
を通した。このとき多くの賊が討ち取られ、捕らえられた賊三百余人の
全てが斬首されている。
(捕り手側のこの武断的な事例が、後の「火附盗賊改」という形になっ
ていく。正式には、天和3年(1683)に火附盗賊改として設立)


首になる時はいっしょだ竹とんぼ  森田律子


当初、「火附盗賊改」は、戦国時代に武勇を馳せた家の子孫が任命され
ていた。が、時代が下るにつれ、家名と現当主との能力の差に乖離が現
れるようになり、低い身分の者で「武勇に優れた人物」が火盗改めの長
官に任命されるようになった。しかし、任命されたものの長官は、長く
続かない。長く続いた人で1年2ヶ月、短い人で1ヶ月余、1年続けば
「よくやった」とされ、平均6ヶ月程でお役御免を願い出るのがほとん
どあった。長官のお努めに支給される給金は、命と隣り合わせで、その
過酷さに比して安いからである。火盗改め200年の歴史で、200人
の長官が入れ替わっている。

(豆情報=火盗改方の与力、同心は、御先手組から派遣される。治安部
隊員だから捜査が荒っぽい。江戸学の祖といわれる三田村鳶魚の「捕物
の話」によると、火盗改方は、制度や法律とは無縁で引継ぎ文書などは
ほとんどなく、「仏に見守られていては、無慈悲に職務追行できない」
と、自宅の仏壇をぶち壊した長官もいた。という)


秒針が秋へ秋へと空回り  中田 尚
 
 

葵小僧ー②


 町を守るべき役人にやる気がなければ、泥棒にとって世はまさに極楽、
町は何でもありの無法が蔓延る。かつては、「殺さず、犯さず、貧しい
人からは奪わず」、という盗人にも、盗人なりの信条があったようだが、
そんなものはどこ吹く風の荒っぽい、泥棒は稼業なのである。さらには
天明の頃からの飢饉つづきで、諸国から江戸へ群れ集まる無宿者たちが
跡を絶たず、江戸の町は彼らの面倒をいちいち見ておられず、凶年うち
つづく間、それらの窮民は乞食となり、あるいは無頼の徒と化し、盗賊
に転落するものも少なくなかった。むしろ転職というのかもしれない。


影の言う通りにしたら気が楽に  木村良三


「人の顔をみたら泥棒(悪党)と思え」ではないが、天明・寛政(17
81-)の頃になると、悪人が増えて町の治安は手もつけられないほど
に乱れた。襲われるのは、商家の大店ばかりではない、武家屋敷ですら
抜刀した押込強盗の被害にあうことも頻発した。そんな悪い流れのまま
の天明7年(1787)、火盗改方長官へ長谷川平蔵宣以の登場となる。
その2年後の寛政元年に平蔵は、関八州を荒らしまわっていた大盗・
稲小僧(しんとうこぞう)こと真刀徳次郎一味を一網打尽にし、その勇
名を天下に響き渡らせると、悪人どもを次々に捕縛していった。平蔵が
長官となって、こうした実績に江戸の治安の評判がガラリと変わった。


黄河へ流すぞとたこ焼きをおどす  森 茂俊  
 


よしの冊子の町


時の老中・松平定信が、側近に命じて旗本らの素行・評判を調査、報告
させた文書「よしの冊子(武士の人事評価)に、
「長谷川平蔵は江戸の人々の間で『今までいなかった素晴らしい長官だ
…』といわれ、すこぶる評判がよい」と記述がある。そして平蔵の仕事
ぶりは、「悪人に対しては、鬼に、善人に対しては、仏の心をもって…
とても慈悲深い方だと、喜ばれている」と、上々の評判を語っている。

※(旗本の役職には、役方(行政担当の文官)と番方(軍事担当の武官)
がある。平蔵は一貫して武官である番方畑。御手洗組の頭は番方の最高
ポストで平蔵は、火盗改方長官を兼任した)


自己採点「百点!」つけて眠りつく  新家完司
 

「武家屋敷ですら抜刀した押込強盗」
平蔵の事件簿の代表的なものに、大松五郎という盗人の怪事件がある。
大松五郎は、江戸時代中期の盗賊。仇名は葵小僧。徳川家の家紋である
葵の御紋(将軍の御落胤を自称)をつけた提灯を掲げて、押込強盗を行
ったことから「葵小僧」と呼ばれた。葵小僧は、浜島庄兵衛と同じく、
押し込んだ先の婦女を必ず強姦したという。ともかくも凶悪な手口で、
江戸中を荒らしまわり、多くの旗本の婦女が被害にあっている。やがて
命運も尽きて大松は、鬼と呼ばれた火付盗賊改の長谷川平蔵に捕縛され、
わずか10日ほどの早さで獄門にかけられた。
本来、これほどの大盗賊ならば、市中引き回しのうえ、獄門となるとこ
ろだが、武家が泥棒に入られることが恥辱であり、また旗本の婦女子が
陵辱されていたために、こっそりと処分された事件である。
(浜島庄兵衛=白波五人男の日本左衛門)


3発も込めてロシアンルーレット  井上一筒



葵小僧ー③


「葵小僧 江戸での暗躍」
葵小僧。本名は桐野谷芳之助という。生まれは尾張。尾張は家康の故郷
であり、ご落胤がそれっぽい。父が役者で、父とともに役者の道を歩ん
でいたが成長すると、子役のころはそれなりに可愛いと持て囃されたが、
次第にその低い鼻が災いして、役どころも人気も落ちてしまい、両親も
亡くなって、女遊びをしても、容貌を馬鹿にされるばかりで女がつかず、
挙句に気に入った茶汲女に金を搾られて捨てられる破目に、そのために
自暴自棄となり、女を殺害して逃亡、その折に盗賊・天野大蔵に拾われ
て盗賊稼業に足を踏み入れることになった。
(天野大藏=尾張・三河一帯を荒し回った浪人くずれの盗人の首領)
 
 
怒られて泣き方さえも怒られる  福尾圭司


その後、芳之助は、天野大蔵に剣の腕を仕込まれ、尚且つ、役者だった
だけに押し込み先の内偵では、武士から商人、乞食にも化けて活躍し、
いつしか、付け鼻を使って人相を変えるようになった。そして芳之助は、
天野から、配下と盗人宿を継ぐ事になったが、次第にかつて女に馬鹿に
されていたのを根に持って、押し込み先で強姦をするようになった。


シュレッダー通したいやつ五六人  岸田万彩


寛政2年(1790)、芳之助は、江戸の池之端仲町の骨董屋に本拠を構え、
表向きは「鶴屋佐兵衛」として活動を始めた。平蔵が、彼の存在を把握
したのは、翌年の8月頃である。平蔵の配下で二足草鞋の密偵が亭主を
勤める船宿「鶴や」に被害にあった文房具屋「竜淵堂」の主人が、実兄
と事件のことで、密談をするために訪れたことがきっかけであった。
事態を憂慮した平蔵は、内密に捜査を進めたが1ヵ月後に主人夫婦は心
中をしてしまい、その直後から芳之助は、1ヶ月程の間隔で4件の押し
込みを行い、婦女を強姦、更に抵抗した3人を殺害した。


何人も殺してしまう無表情  中田 尚


寛政4年(1792)、正月から4月にかけて、芳之助の動きは確認さ
れなかったが、5月から活動を再開、夏までに 4件の犯行を行い、5人
を殺害した。しかもその内2件は、本拠に隣接する小間物屋「日野屋」
を襲い、3度目の押し込みを予告するという大胆極まりないものであり、
また、この頃から芳之助は、「葵紋」付の袴を着用し、「将軍の御落胤・
葵丸」と名乗ったことから「葵小僧」の名で世間を震撼させた。
 
 
簡単に破れますからチンすると  東川和子


しかし押し込みの際に、声色を使って戸を開けさせる役割を担っていた
配下の小四郎の存在が明らかになり、更に2度に渡って押し込みにあっ
「日野屋」の主人が、平蔵と親交のある医師、井上立泉を介して通報
したため、「日野屋」は火盗改の監視下におかれ、その視察にやってき
た平蔵が、芳之助を盗賊と看破し、骨董屋は火盗改の監視下におかれる
ことになった。


油断した訳ではないがつい薄着  雨森茂樹



葵小僧を捕縛する捕り手


そして9月4日の夜、芳之助は、目を付けていた傘問屋を配下17名と
共に襲った。しかし侵入する寸前、出動した平蔵以下火盗改与力・同心
併せて7名の急襲を受け、配下全員を切り捨てられた挙げ句に、自身も
背中に傷を負い、ついに捕縛された。
傷が癒えた後、芳之助は平蔵自らの取調べを受けたが、他の配下や盗人
宿を白状しない代わりに、今まで押し込んだ先での被害者の名を暴露し、
その範囲は平蔵が把握していた以外に、江戸や上方、中国筋に至るまで
30件余りに上った。


捨てても捨てても正直には遠い  山口ろっぱ


この自白は、被害者に更なる苦しみを与えんとする芳之助の卑劣な企み
だったが、平蔵は被害者の感情を考慮し、独断で芳之助を斬首、取調べ
の記録も残さなかった。
なお骨董屋に残っていた天野大蔵は、芳之助が捕縛された翌日には逃亡
し、行方不明となったが、この天野は、平蔵が芳之助の存在を把握する
1ヵ月前に平蔵によって捕縛、火刑に処された「蛇の平十郎」の師匠で
もあり、2人は面識があったものと思われる。
           「鬼平犯科帳『妖盗葵小僧』の中の葵小僧」ゟ


もういいよ そしてだあれも浮いて来ず  嶋沢喜八郎


 
石川島・人足寄場


「平蔵の根っこにあるやさしさ」
長谷川平蔵は、火付け盗賊改方に就任した翌々寛政元年に、老中松平定
「恐れながら申し述べたてまつる」と、「人足寄場設置」の建言を
行っていた。それが、まる一年後の春になって、幕府がこれを採りあげ、
築地の海に浮かぶ佃島北隣りの石川島の中六千余坪の地へ「寄場」を設
けることになった。
寄場には、三棟の建物のほか浴場・病室があり、ここへ収容された無宿
者は約三か年の間、さまざまの職業を習い覚え、「正業につき得る」
なるや、これを釈放して世に出した。


底辺を這って実感するいのち  有田晴子


つまり、この施設は、懲治場(懲らしめの為収監するところ)と授産場
(自立を支援するところ)を兼ねたもので、ここへ罪人を送り込むよう
になったが、新設当時の目的はそうでない。
「人足寄場の取扱いも、長谷川に命ずる」
老中・松平定信の鶴の一声というやつ。平蔵も断るわけにはいかないし、
骨は折れるけれども、盗賊改めと兼務することは何かと都合がよい。


モグラ一匹思考回路を出てこない  山本早苗


老中・松平定信は、苦しい幕府財政のうちから、新設年度に米五百俵・
金五百両の予算を捻出してくれたが、「なれど明年からは、約半分ほど
になろう。その間、浮浪人たちの授産が出費の助けになるようにいたし
くれるよう」松平の自邸へ平蔵を招き、申し渡した。
夏場になると寄場ができあがり、盗賊改めのみか町奉行所扱いの浮浪者
たちが、どしどし入所して来たし、平蔵も取扱として、三日に一度は石
川島へ出向いた。


まっすぐに裏街道を生きてきた  中村幸彦

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