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川柳的逍遥 人の世の一家言
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右の手はずっと男の貌である  居谷真理子



浅間山大噴火

天明3年(1783))、熱泥流による埋没家屋約1800戸、死者約2000人の被
害を出した浅間山の大噴火。江戸でも火山灰が3cmほど積もったという。


天明3年(1783)7月、浅間山が噴火した。熱泥流による埋没家屋
約1800戸、死者約2000人の被害を出した。江戸でも火山灰が3cmほど
積もったという
これが鬼平こと長谷川平蔵が、世に知られるきっかけとなった。噴火後
数年にわたり、続く天候の不順が凶作をもたらし、これが米などの物価
高騰を招き、そして窮民の暴動を引き起こした。先手組頭の平蔵らが動
員された。御先手組とは、戦時には、弓組と鉄砲組に分かれ将軍の先鋒
を務めた。が、幕府が天下泰平となってより170年、暴動が起こると
か異変があったときには、真っ先に警備をつとめる。暇な職場であった。
お手先組は、30余組の編成であるが、平蔵の場合、その一組を率いて
いた。一組は与力十騎、同心三十人の編成になっている。


めんどうなことは纏めてホッチギス  美馬りゅうこ


「火付盗賊改役」長官・長谷川平蔵ー②


長谷川平蔵は、幼名は銕三郎、宜以(のぶため)で、家督相続後に父と
同じ平蔵を通称にした。父の宜雄も、火付盗賊改役だったことがあり、
京都西町奉行になり、この京都在勤中に病死し、平蔵はその遺骨を抱い
て江戸へ帰った。そして、目白に新しい屋敷を賜って、長谷川家の当主
となり、400石の旗本に列した。
仕事はまず、31歳で将軍世子の警護役から、西の丸仮御進物番として
田沼意次へ届けられたいわゆる賄賂の係となり、39歳で西の丸御書院
番御徒頭、41歳で番方最高位である御先手組弓頭に任ぜられ、火付盗
賊改役になったのは、松平定信「寛政の改革」が始まった天明7年9
月9日、42歳の時であった。


豆腐屋のとても豆腐屋らしい顔  くんじろう


「これがきっかけ」
「このほど市中騒擾(そうじょう)により、今日より市中相巡り、無頼
の徒あらば、召し捕らえ、町奉行の庁へ相渡すべし。手にあまりなば、
切り捨て苦しからざるよし達せられる。これ近年、諸国凶作うち続き、
米穀価貴くして、去年は関東洪水にて、江都別して米穀乏しく、諸人困
窮におよび、末々餓死に至らんとす。然るに市井の米商ども、人の苦し
みもかへりみず、をのをの米を買い込みしにより、無頼の輩集まりて、
去ぬる二十日の夜より、市街の米商をうち毀り、家財等を打ち砕きしに
より、かくは仰せ出でされるなるべし」
          (幕府正史『御実黄』天明7年5月23日ゟ)


前略と書いたが闇の中にいる  山本昌乃


== 
          左、松平定信は右、8代将軍-徳川吉宗の孫


翌天明7年6月、松平定信が老中筆頭となり「寛政の改革」を断行する。
定信は、改革の状況や市中の反響をつかむため、腹心の水野為長に情報
の収集を命じた。こうした流れの中で平蔵は、火付盗賊改役に任ぜられ
たのである。記録集『よしの冊子』に平蔵への称賛や批判の記録がある。
「長谷川平蔵がやうなものを、どうしても加役に仰せつけ候やと疑い候
さた。姦物のよし」姦物は奸物とも書き、悪知恵者と評したのは、鎮圧
への目覚ましい活躍したことへの妬みから発したものだろう。


あっち向きあかんべえでもしときます  小林すみえ


一方では、この悪口への反対の声も記されている。
「加役長谷川平蔵は、姦物也と申候さた。しかし、御時節柄をよく呑み
込み候や、諸事物の入らぬ(経費のかからぬように)様に取り計らい候
由に付き、町方にても、ことの外悦び候由。去年も雪の降る夜に、品川
辺にて、一人召捕り候の処、自身番に預け候らえば、一町内の物入りも
多く掛り候事故、直ちに其晩に自分の屋敷へ連れ参り候様、申付け候由」


お醤油とソースは幼なじみです  西澤知子


火付盗賊改方という「特別警察」を設けたのは、町奉行所にはない機動
性を特別に与えたものだ。江戸市中に犯罪が増え、世の中が物騒になっ
てくると「御先手組」の中から、その一組を選んで「盗賊改方」に任命
したわけである。この役目は、いわば、戦時体制における警察の含みが
こめられていて、悪党どもへは、いささかの容赦もなく、その場その場
で適切な処置を、長官の能力にかけた。故に、なみの旗本では務まらぬ
役目なのである。部下と共に命がけで働き、下情に通じ、悪の世界にも、
しっかりと眼が届くような人物でなくては務まらない。


余生には無用な過去を破り捨て  松浦英夫




平蔵の役宅があったとされる清水門

火盗改めの役宅は、江戸城清水門外にあって、この役宅内の中に同心の
詰め所・長屋があり、詮議などを行う部屋がある。ただし、与力同心の
大半は、四谷坂町にある御手先組の組屋敷の長屋に住み暮らしていた。


今までの堀帯刀と交替した新任の長官は、400石の旗本で、これも御
先手弓頭をつとめる長谷川平蔵であった。天明7年9月19日、長谷川
平蔵は目白台の屋敷から、清水門外の役宅へ引き移って来た。
戦々恐々として、配下の同心や与力たちが口々に漏らした。
「今度のお頭はな、お若いころ、本所三つ目に屋敷があってな、そりゃ
もう、遊蕩三昧で箸にも棒にもかからなんだお人らしい」という者もあ
れば「遊ぶことも遊んだが、本所深川へかけての無頼の者どもが、鬼だ
とか、本所の銕だとか言って、大いに恐れていたほど顔が売れていたそ
うな」などと。(本所の銕=平蔵の若い頃の「銕三郎」からの呼び名)


さびついた針図星をついてくる  和田洋子



ゴルゴ13のさいとうたかおが描く仏の平蔵


「平蔵の評判というと」
町人たちには、極力迷惑をかけまいと、平蔵の温情は、まことに評判が
いい。たとえば誤認逮捕の対処に、
「盗賊召捕り違え御ざ候へば、たとへ三日四日牢内に居り候へば、それ
だけ家職(家のこと何一つ)出来申さず、妻子も養ひ兼ね候事に付き、
三四日牢内に居り候分手当、出牢の時に鳥目(金銭)杯遣し候由」
平蔵は、いわゆる弱気を助け、強きを挫き、罪を憎んで人を憎まぬ人物
だったようで、犯罪人でも、病の老人ならば労り、貧民賤民への恵みも
よくしていたらしい。


時々はやさしい人の真似をする   酒井健二


「老人の上、病気にも有之(これあり)候へば、看病かたがた其方さし
添え遣わし候間、溜(ためー囚人の療養施設)にて、看病仕り候様申し
渡され候に付き、扨々、長谷川は奇特な人じゃと申し候由。長谷川、浅
草観音或は外々神社などへ参り候ても、小銭を持たせ参り、非人乞食に
銭を遣り候由。右故、長谷川は仕置筋(犯罪の処罰)には手強いが、又
慈悲も能くする人じゃと、一統(総体)に評判宜しく御座候よし」


鍵のないドアで行き来をしています  郷田みや



野盗と取り手


平蔵のあまりによい評判を妬む一人に、同じく盗賊改役を務めた旗本の
森山孝盛がいた。随筆『蜑の焼藻の記』(あまのたくものき)に、その
思いを書き留めている。
「若し最寄々々に、出火ある時は、其高提灯をともして、速に火事場に
押立置かせたり。されば、愚なるものの目には、はや長谷川の出馬せら
れたると、驚き思わするためなり、又、所々寺院に墓塔を建立して、死
刑の菩提を弔らひ、道橋に菰かぶり居る乞食なんぞに、折々、鳥目(銭)
を与へて、恵みなんどしけるとぞ」


了見が狭くてにをはよくいじる   仁部四郎


火盗改めを任じた老中の松平定信まで、平蔵への評価は、その手腕を認
めながらも、歯切れがあまりよくない。自伝『宇下人言』うげのひと
こと)に
「この人、功利をむさぼるが故に、山師などという姦(よこしま)なる
事もあるよしにて、人々悪しくぞいふ」とある。
尽くしても尽くしても、何も分ってらっしゃらない定信様なのだ。


適当に本音も入れておく祝辞  都 武志


「火盗改メという、この役目に励めば励むほど、長官は金が要るのであ
る」と、ときに平蔵は、この言葉を漏らす。
「幕府から40人分の役扶持が出るけれども、とてもとても足りるもの
ではない。犯罪を取り締まる役目で、しかも、寸分の隙もなく事を運ぶ
機動性が欠くべからざる火盗改メだけに、なんといっても、こころのき
いた密偵をつかい、金を惜しまず、江戸の暗黒面からの情報を絶えず得
ておかねばならぬ。同じ旗本でも、火盗改方の長官を務めるには、よほ
どに裕福な人でないと勤めきれない、といわれるほどであった。平蔵が
この役目に任ずる前は、家計にも、かなりゆとりがあったのだけれども、
家に伝わる刀剣や書画骨董を売り、捜査の費用にあてることも珍しくな
いのである」
平蔵の信頼するべき定信が、この辺りを誤解したと思われる。


ひけ目でもあるのか雨がそっと降る 嶋澤喜八郎  
 
 

 石川島人足寄場


「人足寄場の設立のこと」
老中定信の自伝『宇下人言』の続きには、
「これまた知れど、左計の人にあらざればこの創業は成し難しと、同列
(同輩)とも議して、まづこころみしなり」とある。
(創業とは=無宿人の更生事業として設けられた石川島の人足寄場)
この創業のことを老中定信に上申したのは、平蔵が火盗改めにの頭取に
就任して3年目のことである。


今回はトイレの水になりました  川畑まゆみ


「盗賊改方」町奉行」とはあまり仲がよくなかったし、幕臣たちは
「町奉行所は檜舞台、盗賊改方は乞食芝居じゃ」などと評判したりした。
刑事に働くといっても、長官は、先手組の自分の組下の与力や同心を使
って活動する。とても町奉行所のように、人数も設備も揃っていないし、
予算も少ない。役料についても、長官自らが費用を持ち出さねばならな
い、命がけの役目にしては、あまり割りがよくないのだ。が、人情家の
平蔵は「人足寄場」の設立を老中定信に建言し、犯罪者の厚生施設とも
いうべき寄場の設置を強く要望した。幕閣はこれを採り上げ、佃島の北
隣の石川島の内、6千坪へ寄場を設けた。そして、初代の寄場の責任者
となり、またまた一つ重たい荷物を抱えた。金もない、時間もない鬼の
平蔵が、見せた仏の平蔵の顔である。


裏面に続く貌です悪しからず  柴田比呂志



「鬼平と桜吹雪のモニュメント」
都営新宿線菊川駅近くにある長谷川平蔵・遠山金四郎住居跡の記念モニ
ュメントの銘板の右方に次のように記述ある。


『長谷川家は家禄四百石の旗本でしたが、天明六年(一七八六)かつて父
もその職にあった役高千五百石の御先手弓頭(おてさきてゆみがしら)
に昇進し、火付盗賊改役(ひつけとうぞくあらためやく)も兼務しまし
た。火付盗賊改役のことは、池波正太郎の「鬼平犯科帳」等でも知られ、
通例二、三年のところを、没するまでの八年間もその職にありました。
また、特記されるべきことは、時の老中松平定信に提案し実現した石川
島の「人足寄場)」です。当時の応報の惨刑を、近代的な博愛・人道主
義による職場訓練をもって、社会復帰を目的とする日本刑法史上独自の
制度を創始したといえることです』


ツユクサはそうです青空の欠片  柴田比呂志


『寛政7年(一七九五)病を得てこの地に没し、孫の代で屋敷替となり、
替わって入居したのは遠山左衛門尉景元です。通称は金四郎。時代劇で
おなじみの江戸町奉行です。遠山家も、家禄六千五百三十石の旗本で、
勘定奉行などを歴任し、天保十一年(一八四〇)北町奉行に就任しまし
た。この屋敷は下屋敷として使用されました。
               平成十九年三月 墨田区教育委員会』


山惑へ笑いとばして阿弥陀像  小嶋くまひこ

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