- 2025/12/30
- Category : ポエム&川柳
柳多留と江戸時代の旅をする
参宮街道、坂内川にかかる橋
伊勢神宮方面に向かう人はこの橋を渡って松坂の町に入った。渡る手前が西町。
森壺仙の住んだ町。吉良邸を目指す四十七士が渡った橋である。
森壺仙の住んだ町。吉良邸を目指す四十七士が渡った橋である。
さっぱりと掃除をさせて首をとり 柳6
あくる日は夜討ちも知らず煤をとり 柳6
『世間胸算用』(井原西鶴)にも「毎年煤払いは極月十三日に定めて」とある
ように12月13日は、江戸城内をはじめとして、あらゆる民家にいたるまで
煤払いをした。そこで、翌14日に吉良邸へ討ち入った赤穂浪士を詠んだのが
右の二句だった。現在では、回向院の南、4,5分の距離にあたる東京墨田区
両国3丁目に、旧吉良邸の一部が本所松坂町公園として保存されている。
吉良上野介存命時代には、邸地は旧本所松坂町1,2丁目のうち二千五百余坪
にわたり建坪は八百四十六坪とぃう豪華さであったという。
本所へ隠居をせぬと難しい 柳18
という句もあるように吉良上野介が我が子綱憲(つなのり)の養家先である米
沢十五万石の上杉家に引き取られることなく、鍜治橋御門内から移住してきた
ところでもあった。公園は白のなまこ壁、長屋門造りで、中へ入ると周囲の壁
には当時の吉良邸の図、四十七士が新大橋を渡って上野屋敷へ行く図など、討
ち入りから引き揚げるまでまでを描いた絵巻がある。
左の隅には、もと屋敷の中庭にあったという「吉良首洗い井戸」が復元され、
これももと邸内なあったという松阪稲荷も見られる。
目印は殿が額へ付けて置き (安元・宮)
浅野内匠頭が、松の廊下で刃傷した際につけた額の古傷が、動かぬ証拠となり、
ついに赤穂浪士の討つところとなった。
「四十七士」
四十七人の者ども、敵師直(上野介)尋ぬれ(捜す)ども知れぬ故、みなみな
ここで切腹せんと思い定める。
大高源五すすみ出、
「すこしの心あてがござる。しばし(切腹は)とどまり給え」と言い、やがて
炭部屋へ行き、鑓おっとりのべ、
「もろのう、もろのう」と言えば、隅の方で「どうれ」
他家を訪問した際の「物申う」と「もろのう」をかけた地口で、高師直、すな
わち上野介を表した落ちだが、緊迫した場面だけに馬鹿馬鹿しくおかしい。
柳多留と江戸の旅をするー1
「日本橋」
江戸の盛り場・日本橋エリアは今の中央通り。橋の先には高札場、船着場、
薪を積み上げた荷揚場がある。びっしりと人で埋まった日本橋は全長28間
(約51m)幅4間2尺(約8m)
「日本橋魚市」
「一日千両の金が動く魚市。」左端に算盤を手にした男と客、平目や鯛、鮪
らしい巨魚を運ぶ二人、蛸を掲げた人、競り人、あちこちの棒手振などで
大騒ぎ。
1,五番目は同じ作でも江戸産まれ
柳多留のトップを飾る句。前句(題)は「にぎやかなことにぎやかなこと」
で、まさに謎解きが必要な句。選者(点者)の柄井川柳も最初は句意がが
分からなかったとされている。
「常楽院」
この挿絵には「六阿弥陀五番目なり 春秋二度の彼岸中賑わし」とあります。
石畳の参道の右手に「六地蔵」や「地蔵」が見えます。
阿弥陀堂内右手には閻魔大王が見えます。
江戸の民間では春秋の彼岸に、六阿弥陀詣でが盛んに行われるようになった。
行儀菩薩が刻んだ同木の六体の阿弥陀仏のうち、五体はすべて江戸の郊外に
あるが、五番目の阿弥陀仏だけは盛り場の上野広小路にあった常楽院に奉祀
されていたから、これだけは生粋の江戸産まれでいってよいだろう、という
意。六阿弥陀の一番は、北区豊島の西福寺、二番足立区江北の恵明寺、三番
北区西ヶ原の無量寺、四番北区田畑の与楽寺、五番が常楽院、六番江東区常
光寺で、一巡り七里半(約30㌔)というから老人や女性にはかなりの強行軍
であった。
2,かみなりをまねて腹がけやっとさせ
3,故郷へ廻る六部は気のよわり
「絵本御伽品鏡」 六部巡礼図
鼠色の木綿の衣服に、同色の手甲・脚絆をつけ、鉦をたたきながら門付けを
する。仏像を入れた厨子を背負うのが一般的である。
訳=何らかの事情で一念発起し、諸国の霊場を巡る六十六部が、急にふる里
へ足が向くというのは、体調の悪さもあろうが、それよりも信心の気力が衰
えたことが一番の原因であろう。
4,伴頭は内の羽白をしめたがり
伴頭=番頭。羽白=羽に白斑がある鴨の一種、主人の娘の比喩。
訳=番頭は色と欲を両方かけて、ここの娘を何とかものにしたいものだと思
っている。しめるは鴨の縁語で、せしめる、の意となる。
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