川柳的逍遥 人の世の一家言
星が降っているので浴びに来ませんか みつ木もも花
「因幡堂縁起絵巻」 (東京国立博物館蔵)
因幡国守となり、任国へ下向する橘行平の一行を描いたもの。
「越前への旅立ち」
紫式部の父・藤原為時は、
「寒い夜にも耐えて勉学に励んできたものの、人事異動で希望する官職に就く ことが出来ず、赤い血の涙が袖を濡らすほど絶望しています」……と、自らの 心情を綴った詩を一条天皇に奏上。 苦しい胸の内をつらつら詩に託した。 「苦学の寒夜 紅涙襟をうるおす 除目の後朝 蒼天眼に在り」
苦しい思いが詰まった為時の詩を詠んで、一条天皇は感涙した。
当初、為時の任地は小国の淡路国だったが、適材適所を考えた道長によって、
除目の三日後には、先に越前守に任じられていた源国盛を外し、為時を越前守 に任じ直した。 地方にはないものがある蕗の薹 柴田比呂志 この頃、道長は、唐人来航の騒動に苦慮していた。
一条天皇自身も、道長の進言により、日本海沿岸への人材派遣の重要性には気
が付いていた。ただ問題は、適任者がいないことであった。 そこに奏上されてきたのが、漢詩文に長けたことで知られる為時の一文だった。
「これはまことに渡りに船。実に好都合な人物がいた」と、一条天皇も道長も
為時に飛びついた。 為時なら、漢詩を通じて宋人とコミュニケーションをとることも可能。
その才を交渉に生かしてもらいたいとの思いで、慌ただしく除目の変更となっ たのである。こうして越前守に任ぜられた父・為時は、国司として娘・まひろ とともに、越前の国へと旅立つことになる。 ここにかく日野の杉むら埋む雪小塩の松に今日やまがへる
一言がこんないい日にしてくれた 佐藤 瞳
紫式部資料館 (紫式部公園) 京から越前へと向かう紫式部らの行列を越前和紙で再現したもの 式部ー除目
清少納言の枕草子の「除目」前後を描いた文がある。
『雪が降ったり氷が張ったりしているのに、太政官へ提出する申文を、持っ
て歩く四、五位の者の、まだ若々しいのは前途有望で、はなはだ頼もしげで あるが、年老いて頭も白くなった連中が、その筋の人に何のかのと手づるを 求め、また女房の局に立ち寄って、自分の身のえらいことを自慢して聞かせ るのを、若い女房たちが馬鹿にして、その口真似をするのだが、ご本人は、 いっこうに御存知ない。 <よろしいように主上に奏上してください>などと女房に頼んでも、任官で
きた者はよいが、できなかった者はたいへん可哀そうである』 (除目とは、前任者を「除」き、新任者を「目」録に記す意味で、諸司諸国
の官職を任命する儀式をいう) あの頃はいっぱいあった笑い声 靏田寿子
「申文」は、思い入れたっぷりの名文調が多いのが特徴であるが、哀願型と
高圧型に分れるのには興味を引く。 久しく職を離れて、生活に苦しんでいることを切々と訴えるのが、哀願型。
他人に勝る経歴と実績を誇り、時には、そんな自分を、放置するとは何事で
あるかと迫るのが高圧型である。 実際には、藤原為時の申分は、このどちらにも属さない名文で綴られていた
という。 水仙の強さで寒さ耐えてます 掛川徹明
思召除目の会議では、申文が国毎に束ねられて提出され、逐一審査された。
公正な考課が行われれば問題はないが、実際には、その採否に、時の有力者 との縁故の有無が大きく作用した。 幸いにして任命された受領が、任国に下るや早速「志」を送り届けたり、
任終に土産物を持ち帰ったのも、ゆえなしとしない。 上層貴族への追従は、四年ごとに、再就職を強いられていた受領層の宿命で
あった。 言い訳も嘘も無しでは生きられぬ 菊池政勝
国司の館 (播磨守有忠の邸内) 有忠は刀の目利き、北の方は寝そべって物書きをしている。
女房らは火鉢を囲み雑談をしている様だ。 何とも気楽な
生活をしていたことがが伺える。
「国務条々事」境に入れば風を問へ
「国務条々事」とは、任命された受領が京都を出立する時から、任国へ下って
国務を執るまでの心掛けである。条々には、 「任国へは、前任者の仕事ぶりを知る上で、参考になる書類を役所へ行って
書き写し、それをもって下向せよ」というのに始まり「出立にはいい日を選べ 道中では旅の平安を祈って道祖神へ手向けせよ。 その日の宿所を選ぶには、従者のうち一両人を先発させて、点定(てんじょう)
することとし、決して民の愁いを招いてはいけない」 といったことなど、実に細かなことまで記されている。 これでみると赴任にあたり、必ずしも十分な官馬官船が提供されたとは思えず、
遠隔地への赴任は、一苦労であったろうと思われる。 枯れたひまわり甘栗の紙袋 藤本鈴菜
藤原為時・紫式部父娘と従僕らの越前への旅途中のレリーフ (紫式部公園)
そしてこの受領が、もっとも緊張する一瞬が、俗にいう「坂迎えの儀」である。 坂迎えとは、本来は「境迎え」、すなわち任国へ入境する際、任国の国庁の役 人たちが国境まで出向いて、新任の長官を歓迎する儀式であり、その際、簡単 な宴席が設けられたのである。条々には、 「吉日時でなければ、(国境の)近くで逗留してその日を待つがよい。
しかし在庁官人たちが、慮外にやってくることがあったら、会ってその国での やり方を尋ねるがよい。しかし、無益なことをいってはならない。なぜなら、 外国の者は坂越えの日、必ず、長官の賢愚を推量するからである。」 (外国=在地の人間たちの品定めに用心せよ、与し易しとみくびられないために、
無用な言辞はつつしめ」というのである。 ひっそりと地方に眠る石仏 森 廣子
『今昔物語』に「寸白(スバコ)、信濃守ニ任ジテトケウセタル語(コト)」
という一話がある。 寸白とは、寄生虫、サナダ虫のことで、胡桃を摺り入れた酒を飲むと、溶けて
しまうとされていたようである。その寸白をもった男が、信濃守となり、はじ めて任国に下向したところ、坂迎えの饗が設けられ、守やその郎党たちと国の 者どもが多数集まって饗応した。 みれば前の机に胡桃が山と積まれている。
さっそく守は身を絞られるような症状を呈しはじめた。 これをみた介(すけ)在庁官人で物知りの古老が、一計をめぐらし、ことさら 胡桃を濃く摺りいれた旧酒を、いやがる守に無理矢理飲ませる-------と、 こはいかに、守は水になって流れ失せてしまった。人々の騒ぎを尻目に、介は 国人をつれて引きあげ、守の郎党たちも京へ帰っていった、というものである。 (現実にはありえない話だが、これは一種の寓話、すなわち「条々」にいうよ
うに、その賢愚を弁別された。無能受領の受けた手痛い仕打ちの説話である) 樹氷から耳のかたちで落ちてゆく 小池正博
平安時代の庭園や寝殿造の建物を再現した紫式部公園
藤原為時と紫式部が暮らした越前国府をイメージしている。
坂迎えの後、その日の夜に任地に着く。早速饗応を受けたのち、衣装を束帯に
あらためた上、在庁官人に都から持ってきた太政官符を示し、また鍵を受け取 るなど、「条々」にも記す、受領が行うべき最初の手続きをする。 そして国衙(こくが)に付属する「惣社」に赴く。 (国衙=律令制度の下で、国司が地方の政治を行うために国ごとに置いた地方
の役所) その後、国守の神拝のあといよいよ国政を行う。
そこで「条々」には、さまざまな国務のことが書き上げられているが、それら
を読んで気付くことは「国風」「土風」の語がしきりに出てくることである。 等身大の紫式部と越前旅のお駕籠
風になる前に一本ハイライト 高野末次 坂越えに先立ち、在庁官人から「国風を問うべし」、坂迎えの儀式は「土風に
随うのみ」新司歓迎の饗宴のことは「例によりこれを行わしむ」高年者に諸事 を聞き、「ひろく故事をたずねるようにすれば、善政の聞こえも生まれよう。 そのために「旧風」を改めてはならない」、など。要するに在地の動向を十分
に認識し、軽々に現状を変えてはいけない。 公損のない限り、在地の要求に従うようにせよというものである。 地方に赴任することは、給料も3倍になり、嬉しいこともあるが、難儀なこと もいっぱいあった。 気休めのことばは要らぬ寒桜 荒井加寿
「国を去ること三年 孤館の月 帰程の万里 片帆の風」
(国を去って三年、あなたは一人で鴻臚館において、寂しく月を眺めておられる
のですね。帰路は万里の道のりではありますが、片寄せた帆でも、順風が吹けば 帰国することもできましょう)と、 為時が唐人(宋人の羌世昌とも)に送った文面が、それを物語っているかのよう
である。 地方には味わいきれぬ味がある 井本健治 PR パン買いに云って鰯を買ってきた くんじろう
悠々自適の道長・十六夜の月の夜の舟遊び。
「一家に三后が立つ」
在位中の天皇の正妻を皇后といい、前天皇(上皇)の正妻を皇太后といい、
前々天皇の正妻を太皇太后(たいこうたいごう)と言う。
後一条天皇の在位時の状態がどうだったのかと言うと、
藤原彰子は太皇太后、藤原妍子は皇太后、藤原威子は皇后となった。
三皇后を全て自分の娘とすることに成功した藤原道長は、この時、隆盛の
絶頂期を迎えた。 3人連続で娘を皇后とした実績を残したことで、多くいる藤原氏の中でも
藤原道長の一族が特に抜きんでた地位に立つことに成功したのである。 〔三后〕 第66代天皇:一条天皇→道長の娘の藤原彰子(あきこ)
第67代天皇:三条天皇→道長の娘の藤原妍子(きよこ)
第68代天皇:後一条天皇→道長の娘の藤原威子(たけこ)
土御門第の藤原道長
寛弘5年、一条天皇を土御門殿へ迎えるにあたり、新造の船を検分する道長。
式部ー藤原道長
摂政は、幼少天皇の代わりに政務を代行する役職。
関白は、成人した天皇の政務を補佐する役職。
平安時代の中頃、皇室と外戚関係を深めた藤原北家が摂政と関白の地位を独占
して、国の政治を左右するようになった。 道長は、こうした摂政関白の地位を独占していた藤原北家の4男として生まれ
た。4男として生まれたことで、摂政関白など地位を考えることもなかったが、 兄道隆・道兼が次々と死に、甥の伊周(これちか)・隆家との権力争いでは姉
の詮子に助けられ、ついに実権を握った。 その後、道長が圧倒的な権力を手に入れることができたのは、娘の彰子が一条
天皇に入内させたことにはじまる。 いつまでも沈んでいたら石になる 田中 恵
道長の成功の一つには、妻・倫子の実家のバックアップもあった。
「紫式部日記」には「自分と結婚できて倫子は幸せ」と発言し倫子を怒らせ、
あきれさせて、慌てて追いかける道長の姿が、描かれている。 道長と倫子の関係は対等というより、尻に敷かれていたようだ。
見てくれは悪い顔だが運がよい 原 徳利
寛弘5年9月13日、敦成親王誕生第三夜の産養。
土御門邸東の対の庇に列座する公卿。 「朝廷内の役職」
当時の官僚制度における役職の順位は、大納言→内大臣→右大臣→左大臣とあ
り、天皇を頂点とし官僚たちが政務を行なった。 そして、政務執行権限を持つ官僚の中で一番偉い人物のことを、一上(いちの
かみ)といった。 一の上は、基本的には、左大臣が務め「職務能力」また「政務執行権限を持つ
官僚の中」の中の者と柔軟に決められきた。 官僚トップの左大臣が、政務執行権限を持たない場合は、一上は、右大臣以下
の大臣になる。 官僚トップの地位にあるにもかかわらず、政務執行権限を持たないという場合
とは、大臣が摂政・関白の役職も兼務している状態をいう。 折れ線グラフ折れたあたりから発芽 和田洋子
陣座
公卿審議の場。ここで行われる審議を陣儀・仗儀という。
「道長の権力ー一の上」
一の上は、官僚のリーダー的な存在である。
(一の上=左大臣が関白を兼ねるときは、右大臣をさす)
例えば、官僚たちが作り上げた報告書を、天皇に見てもらう時には、一の上が
代表して、天皇への報告の儀(官奏〈かんそう〉を行った。 ほかにも「陣定」(じんのさだめ)という重要会議のリーダー的役割も一の上
が担った。
「陣定」とは、一定官位以上の人物を集めて行う会議で、人事・外交・税・地
方行政についてなど、多くのことが議題になる。 ただし陣定は、何かを決定するための会議ではなく、あくまで参加者の意見を
とりまとめたもので、最終決議はされない。 出てきた意見は、天皇や摂政・関白へと報告され、陣定の内容も踏まえながら
最終決定は天皇が行った。
だが天皇まで報告の全内容が届くことはなかった。
陣定後のその内容について、天皇などと、個別に相談することもあったので、
報告書をすべて天皇に見せるかどうかは、一の上の権限で判断できたのだから。
蟷螂は緑鮮やか立っている 森光カナエ
「道長の権力ー内覧」
「摂政・関白」の役職は、あくまで天皇の補佐役である。
そのため自らは政務執行の権限は有しない。
代わりに、天皇が目にする文書の「検閲権限」という強大な権限を有した。
例えば、どんな企画書を作っても「内覧」で却下されると、企画書は天皇の目に
すら届くことはない。 道長が、一条天皇の求めた関白という職を拒否したのは「一の上」と「内覧」と
いう職務を仕切ることのできる立場を残すためであった。
この二つは、政治を執り行うには強大な権力となった。
こうなると道長の下に、自分たちの要望を取り計らってもらおうと、多くの人が
馳せ参じるようになる。人が媚びへつらえば金も集まる。 弾よりも速く差し出す袖の下 中村幸彦
几帳のかげに隠れていたところを道長に見つかり、祝いの和歌を詠むように
迫られる紫式部と宰相の君 「文人でもあった道長」
道長は政治ばかりでなく、学問にもかなりの力を注いでいる。当時の書物は、
人から人へ書き写したものだったが、中国から伝えられたもの、日本で書かれ たものなど、多くの書物を集め「これをお読みなさいますように」と、大切な 書物を、天皇に献上したこともある。 道長の豪華な土御門邸での宴では、音楽を奏でさせて酒や料理を楽しむという
よりは、名のある文人たちを招いて、文章を競い合う作文会、詩や和歌を作っ て競い合う曲水宴や花宴などを開いた。 道長の有名な和歌 「この世をばわが世と思ふ望月の かけたることはなしと思へば」
もこうした場面で作られたものである。
さらに、道長の漢詩は「本朝麗藻」(ほんちょうれいそう)に数多く収められ、
和歌は「後拾遺集」などの勅撰集天皇が編纂を命じた和歌集)に33首が選出
されている。 三寒の無口四温の弾む声 原 洋志
蜂須賀家本 彰子サロン
先に述べたように、道長は自分の娘たちを天皇の后にした。
天皇が住い、政治をおこなうところが御所で、その奥には妃や女房たちが住まう
後宮があった。 後宮には、天皇や妃の身の回りを世話するもの、書物を読みこなし文章を書くも
のなど、さまざまな女房がいた。娘の彰子が一条天皇の后になったときには、 女房の数だけで40人いたという。 道長は、こうした女房のなかで、優れた文章を書く紫式部、赤染衛門、和泉式部、
伊勢大輔らをあつめ、彰子のためのサロンを開かせた。
一条天皇のもう一人の后・定子のもとには、清少納言がおり、その名も高いところ
から道長は負けていられないとばかりに、紫式部たちを送り込んだのだった。 そのお蔭で後宮は、すばらしい文学が生れる場となった。 階段はいらん養成所の裏手 酒井かがり どなたにも言わないけれど根性悪 中野六助
紫式部日記絵巻 彰子と紫式部 (藩蜂須賀家伝)
紫式部(手前)は中宮(奥)に『白氏文集』「新楽府」を講じているところ。
蔀戸の背後で語り合う女房たち(左側の絵)
紫式部はびじんだったのか。肖像画と同じ方向を向いた紫式部。 紫式部は性格的に見ても、自分の容姿には自信がなかったようである。 「紫式部とは」 紫式部の性格は、引っ込み思案、自己が浮き彫りに現れる様な明るい人前に出
ることは苦手、多分に「内向的性格」であった、ことが自身の書いた「紫式部 日記」から伺いしることができる。 例えば、公的行事や儀式において紫式部は、どのような態度でいたか?
宮廷の七日間の儀式で…只真っ白な部屋に行き交う人々の、容姿や色合いがは
っきり現われているのを見て、 『 いとどものはしたなくて(どっちつかずで)輝かしき心地すれば(はなやか
すぎて)昼はおさおさ(びびって)さし出でず(しゃしゃり出ず)のどやかに 東の対の局より、まうのぼる人々(有頂天の人々)を見れば…』尚更のこと。 又、 『十一日の暁、御堂へ渡らせ給ふ。お車には殿の上、人々は船に乗りてさし渡
りけり。それには後れて、ようさり参る』 常に人の後ろから、陰からこっそりついていくという目立つことを嫌う式部で
なのである。 相槌を打つのはいつも三番目 銭谷まさひろ
だが反面、登場人物一人一人の服装から、細かく観察しているところを見ると、
相当に紫式部の人事に対する好奇心の、強い女性であったことがわかる。 しぼんだりふくらんだりで生きている 青木敏子
紫式部の肖像画 (大津石山寺) 石山寺は紫式部が「源氏物語」の着想を得た場所として知られる。
式部ー「家を離れ、初めての宮仕え」
そんな付き合い下手な性格の紫式部が、宮中に出仕することになった。
紫式部の手紙----------家を離れ一条天皇の宮廷に、お仕えするようになりました
のは、夫であった藤原宣孝が死去してから、3年程たった後のことでした。 当時、宮廷でも、その権勢並ぶ者なしと謳われていたのは、関白・藤原道長殿
でした。 私のお仕えすることになりましたのが、その娘で、今は一条天皇の中宮であられ
る彰子様でございます。 夫と死別の後は、里住み生活を送っておりました私が、華やかな宮仕えの身とな
りましたのも、そもそもは、目に入れても痛くないほど、かわいい中宮様にお仕 えする女房のひとりとして、「私を召し出そう」という、道長さまの強いご希望 があってのことでした。 ゲートインするなら原液のままで 酒井かがり
夫の死後に、ぼつぼつと書きためました「源氏の物語」が、そのころ世に知られ
はじめておりまして、その作者である私を、「中宮のお話し相手にでも」という 道長殿の親心があったようです。 当初、私は、あまりに派手やかな宮廷暮らしは、自分には馴染まないであろうと
尻込みしそうになっておりましたが、ようよう決心を致しましたのには、道長殿 が私の生家、とりわけ父の恩人でもございましたからであります。 虫の音が心にしみるきのう今日 奥山節子
私が娘のころ、父が10年ばかり官職に付けずにおりましたが、ようやく越
前の国司の職を得ましたのには、道長殿のお力添えがあってのことと、 伝え聞いております。 ともあれ、このようにして30代の初めごろという、すでに若くはない身で、
私は、はじめて家庭を離れ、公の場に出ることとなりました。 そこで目にしました美しく壮麗なお屋敷や、華麗に着飾った貴顕の方々、
そして、そうした方々のお出入りする宮廷の組織や社交の場……、 おかしなことに、自分で書き記した物語の世界を後になって追体験すること
になったのです。 蟹刺しのキレイな花に唾を呑む 津田幸三
初出仕 「出仕」
紫式部は1005年(寛弘2)か翌年の年末には、藤原道長の娘・彰子の女房と
して出仕することになった。 当初、趣味の延長線として、身内や友人だけに読ませるために書き始めた初期の
『源氏物語』が、評判になり道長の目に止まったためである。 道長は、紫式部にとって、又従姉妹である母・倫子に頼み要請したと伝わる。
道長は知的女房によって、彰子後宮を彩り、いまだに懐妊をみない彰子と一条天
皇の仲を促したいと考えていた。 彼は最高権力者であり、父・為時の越前の主補任の際の恩人である。
女房勤めの資質も意欲もない紫式部だったが、拒むことはできなかった。
螺子少し緩めてこころ空っぽに 津田照子
だが紫式部の内心は、居所が後宮に変わろうとも、常に「身の憂さ」に囚われ
ていた。一方で、彰子つき女房たちは、見も知らぬ才女を警戒していた。 自分の殻に閉じこもる紫式部と、偏見によって彼女を毛嫌いする女房たちとは そりが合うはずもなく、すぐに「いじめ」の対象となった。 いじめの理由とは、同僚の左衛門の内侍のいうところ、「紫式部は知識を鼻に
かけている」のが気にいらなかった、とか、源氏物語で注目を浴び、ちやほや される式部への嫉妬などがあったという。 そのため、乗り気でなかった宮廷出仕の人間関係が嫌になり、職場を放棄。
実家に引きこもってしまった。
不出仕は、五ヵ月以上におよんだが、唯一の吐け口である「源氏物語」の執筆
は続けた。 地方には多分いい人ばかり居る 岸井ふさゑ
藤原宣孝 「夫宣孝の面影」
「片つ方に文ども わざと置き重ねし 人も侍らずなりにし後 手触るる人も
ことなし」 この日記の中、たった一カ所だけふと漏らした宣孝への追慕である。
里に帰り、昔夫の触れた漢籍を静かにひもとく。
それは式部の理智がさせる一方、宣孝という一つの郷愁をも思わせ泌々とした
心の安らぎを覚えたのではないか。 親子ほども年令の違う宣孝との結婚ではあったが、学識を認め合い熟慮の末結
ばれたものであった以上、それがわずか二年間であったとはいえ、式部も諦め きれないものがあったに違いない。 その亡き夫への追慕が『源氏物語』を生む動機となったのも事実である。
時々は地方へ酸素吸いにゆく 鈴木栄子
宮中の陰湿な人間関係 「嫌なこともあり 利点もあり」
女房の世界は、主家に住み込み主人への客に応対し、様々な儀式での役をこな
す。「里の女」とは全く異質のものである。 特に紫式部が激しい拒否感を抱いたのは、不特定多数の人に姿をさらすことや、
男性関係が華やかになりがちなことだった。 一方で、紫式部は出仕によって『源氏物語』の舞台である宮廷生活の実際に
触れ、物語を書き続ける上での、経済的支援も受けることが出来るようになっ た。 だが、式部にとって最大の利点は、言葉を交わすことはもおちろん、会ったこ
ともなかった様々な階層の人々に会い、貴賤を問わぬ人間洞察を深めたことだ。 悪縁が結びつけてる君と僕 前中一晃
和泉式部 (女房36歌仙 鳥文斎栄之)
赤染衛門 (女房36歌仙 鳥文斎栄之)
清少納言 (女房36歌仙 鳥文斎栄之)
「宮中における紫式部」
『紫式部日記』は、紫式部が1008年(寛弘5)秋から1010年(寛弘7)
正月までの宮中の様子を、日記と手紙で記した作品である。
『源氏物語』に対する世間の評判や、女房たちの人物評などがつづられ、
後輩の和泉式部には、私生活に苦言を呈しつつも、才能を評価し、先輩の赤染
衛門には、尊敬の思いをつづっている。 ところが対面をしたこともない清少納言には、
「頭が良さそうに振る舞っているけれど、漢字の間違いも多く、大したことは
ない。こんな人の行く末に良いことがあるだろうか」 と、辛辣な悪口をつらつら並べている。
清少納言が枕草子のなかで、「紫式部の亡夫の衣装をけなした」ことが原因と
いわれるが、じつはそればかりではない。 覗き穴に貼られていたテープ 河村啓子
「続いても辛辣な清少納言評」
「あだになりぬる人のはて、いかでかはよく侍らむ」
薄命な定子皇后と共に、この宮廷社会から姿を消した清少納言に対し、
これほど鋭く衝く意図は何だったのだろうか。 実は、紫式部の登場そのものが、道長が十余年前兄・道隆の模倣を思い立つ
に及んでの、嵌め込まれた役であった。 道長の頭の中には、ともすれば、あの明朗闊達な少納言の面影が生きていたと
思う。 少納言を見下ろし得る漢才は持っていても、宮仕えに転身できなかった式部は
常に悩める存在であり、ひいては少納言というかつての存在を呪う、いわば、 まぼろしのライバルとしてみていたようである。
ライバルは起きているぞと稲光 新家完司
敦成親王誕生第五夜の産養の日、紫式部は屏風を押し開け、
隣室に控える夜居の僧に中宮御前の様子を見せる。
「中宮彰子との関係」
なかでも彰子という人との出会いで得たものは大きかった。
彰子は道長という最高権力者の娘、一条天皇の中宮という貴人である。
だが彰子のその生涯は、少なくともこれまでは、ただ家の栄華のためにあった。
12歳で入内させられ、しかし、夫(天皇)にはもとからの最愛の妻・定子が いた。定子が亡くなると、夫はその妹を愛し、彰子を振り向きはしなかった。 彰子は、14歳から定子の遺児敦康の養母となったが、自身が懐妊することは
なかった。 おそらく、道長のデモンストレーションという政治的理由の御蔭で、ようやく
懐妊となったが、今度は男子を産まなくてはならない。 彰子こそが苦を抱え、逃げられぬ世を生きる人であった。
強くなりなさい一人で舞いなさい 竹内ゆみこ
だが彰子は、紫式部に乞うて自ら漢文を学び、天皇の心に寄り添おうとした。
晴れて男子を産み、内裏に戻る際には、天皇のために『源氏物語』の新本を作 って持ち帰った。 自分の力で少しづつ、人生を切り拓く彰子の手伝いができることは、紫式部の 喜びになった。 彰子は寛弘5年と6年に年子で2人の男子を産んだ。 寛弘7年正月15日には二男敦良親王の誕生50日の儀が催された。
「紫式部日記」巻末には、彰子と天皇の並ぶ様が、
「朝日の光をあびて、まばゆきまで恥ずかしげなる御前なり」
と記されている。
さす棹のしずくも花の香して 前中知栄
寛弘8年5月22日、一条天皇は病に倒れ、間もなく崩御した。
32歳の若さだった。後継は彰子が産んだ敦成親王と決まった。
紫式部は、中宮彰子とともに内裏を去った。
“ ありし世は夢に見なして涙さえ 止まらぬ宿ぞ悲しかりける ”
中宮に代わってその心を詠むかのように式部が詠った歌である。
紫式部は、一条天皇が没したあとも、しばらく彰子に仕えていたが、
1014年(長和3)頃に40歳くらいで死去したとされる。
(正確な没年や死因は不明)。
紫式部の宮廷生活は-------初出仕が寛弘二年末として『紫式部日記』
記述の寛弘五年秋までとすると、紫式部の宮仕え生活は、
わずか二年余りというものであった。
馬の名は教えず芸歴も言わず くんじろう
” ふればかく憂さのみまさる世を知らで 荒れたる庭につもる初雪 ”
” いづくとも身をやるかたの知られねば 憂しと見つつも永らふるかな ”
「紫式部集」の巻末歌は、紫式部の心境を窺わせる。
「紫式部日記」にも描かれる「憂さ」は生涯消えることがなかった。
だがそれを抱えつつ、やがて憂さを受け入れ、憂さとともに生きる境地に達し
ていたのである。
ブキッチョはブキッチョのまま終わります 合田瑠美子 ていねいに拭いておく明日へのメガネ 山本昌乃
「官女菅観菊図」 (岩佐又兵衛筆・山種美術館蔵)
牛車の簾をあけて、野の菊を眺める女房たち。
今でいう車でいく郊外への花見物というころか、
宮中で限られた生活をする女房にとって、こうした屋外への遠出は、 さぞかし楽しいものであったにちがいない。 約7年にわたり、藤原定子の教育係を務めた清少納言だったが、藤原定子の父
・藤原道隆と覇権争いをしていた藤原道長が宮中で力を付けてくると、藤原道 長に内通している疑いを掛けられ、中宮の一家と対立し、容赦ない圧迫の手を
加える左大臣藤原道長方に内通している、とのうわさにいたたまれず,中宮の そばを離れて長期の宿下がりに閉じこもった。 そして,たまたま中宮から賜った料紙に,「木草鳥虫の名や歌枕」などを思い
つくままに書き続けることによって気を紛らせた。 木よ花よお前も水がほしかろう 森光カナエ
これが《枕草子》の「日記的章段」のはじまりである。
たまたま生まれたものとされているが,半ばは意識的に右近中将源経房の手を
経て、これが世人の目にとまり,意外な好評を受けて,次々と書きつづけた。 自然をおもいつくままに描いたもの以外に「日記的章段は」、一条天皇と藤原
定子を初めて間近に仰ぎ見た時のときめきや、初宮仕えの、不安を書き留めた <宮に初めて参りたるころ>のことや、定子との穏やかな日々をはじめとして、 宮中の儀式や貴族達との交流が記され、藤原定子賛美をほぼ主題としている。 不可逆な時間のなかの無知無害 斉尾くにこ
式部ー枕草子 ・木の花・草の花 木の花は-------
木の花は梅、濃くも薄くも紅梅が好き。
桜は、花びらが大きくて枝は細いのが好き。
藤の花、花房ながく、色うつくしいのがめでたい。
卯の花は品格がややおとり、どうということはないけれど、咲く時節がおも
しろい。 郭公が花の蔭に隠れているだろうと思うのも面白い。
賀茂祭のかえり、紫野のあたり近いみすぼらしい賤の家垣根などに、
白く咲いているを目にするのも、情緒ある風情である。
ウメもも桜しっかり襷受け渡す 高橋太一郎
郭公 花橘はにほうとも 身を打つ花の垣根忘れな 西行 四月の末、五月はじめの頃の橘もいい。
葉が濃く青く、花はたいへん白く咲いているのなど、雨の早朝みると、
たぐいなくすばらしい。 花の中から黄金の玉のような実がのぞいてくっきりしているのは、
朝霧にぬれる桜のながめにも劣らない。 郭公が守ってくると思うから、よけいすばらしく見えるのかもしれない。
新しい出会い待ってる春四月 津田照子
山紫陽花・楊貴妃 梨の花 梨の花、世間では、色気のないもののたとえのようにいうけれど、
唐土(もろこし)では、この上ないもののようにいう花である。 楊貴妃の泣く顔の描写にも、「梨花一枝、春の雨を帯びたり」とある。
よくみると、やはり梨の花は、花びらの端に、そこはかとなき匂いや
色気もなきにしもあらず、というところである。 どうしても白い涙が描けません 清水すみれ
桐の花
桐の花の紫に咲いたのはいい。 葉のひろがり方はいやだが、なみの木と同じように考えられぬ。
尊い上品な木なのである。唐土では鳳凰がこの木に栖むという。
またこの木から琴ができるのだ。
そこもなみの木とちがう。
推敲の汗を重ねたほんまもん 柴辻踈星
草の花は--------- 草の花は、なでしこ。女郎花。ききょう。菊の所々。色あせているの。
かるかや。りんどう。
枝ぶりはぶこつだが、花やかな色合いで咲いているのがいい。
萩は色濃く、枝もたわわに咲いているのが、朝霧にぬれて、
なよなよと伏しているのがいい。 牡鹿がたちならすというが、かくべつの風趣だ。
八重山吹も好き。 脳ミソをシェイクマンネリを破る 宮原せつ
すすきに一匹のキリギリス
「薄を入れないのはどうかとおもうわ」、という人があるが、 ほんとにそう秋の野をおしなべて、いちばんの面白さは薄にある と思われる。穂先の暗い赤色が、朝霧にぬれて、靡いているさま のいい感じ、これはどんな、花にもない。 すすきの穂光る思い出置き去りに 藤本鈴菜
秋の終わりになると、これは見所がなくなる。
色とりどりに咲いていた花の、あとかたもなく散ったあと、
冬の末まで、 あたまの白く乱れ広がったのも知らず、昔を思い出顔に、
風に靡いてゆれうごいている、何だか人間に似ていること。 人によそえてみる心持のせいで、あわれな、と思うのだろう。
昔のロマン解いて裂いて織りあげる 太田のりこ
マツムシ スズムシ
虫は------- 虫は、鈴虫、松虫、はたおり、きりぎりす。
蝶。藻にすむ虫。かげろう。蛍。
蓑虫はあわれな、しみじみした虫。
鬼が生んだので、親に似て恐ろしい心を持っているだろうと、親は粗末な衣
を着せ、「もうすぐ秋風が吹くようになったら、迎えにくるからね。待って おいで」といって逃げていった。 それともしらず、蓑虫は風の音を聞いて秋になると、「ちちよ、ちちよ」と
心細そうに鳴いている。 そんなあわれな言い伝えがある。 蟋蟀と鈴虫の音で終い風呂 宇都宮かずこ
キリギリス コウロギ
蜩(ひぐらし)。額づき虫。 小さな虫のくせに道心をおこして、拝んでいるなんて、思いがけず、暗い所で
ことことと音をたててのを聞きつけたときは、面白く思われる。
蠅はにくらしいものだ。
いろんなものに止まり、顔などに濡れた足で止まったりして。
夏虫は面白く、かわいい。
灯を近く寄せ、物語などをみているとき、本のうえを飛びあるくのも、ふっ
と楽しくて。 蟻はにくらしいものだけれど、身軽くて水の上まですいすいと
歩いているのが面白い。
秋の蚊の罪を問うてはなりません 前中知栄
類聚的章段---------------
枕草子における「類聚的章段」は、一般的に「ものづくし」と称される
章段のこと。
「心ときめきするもの」や「すさまじきもの」「山は」「歌の題は」といった 特定のテーマを掲げ、それに属する物事を羅列し、さらに清少納言の主観的な 解説が加えられている。 (類聚=同じ種類の事柄を集めること) 河原でお祓いをする安倍晴明 気のはればれするもの------------
満足して気のはればれするもの。
上手にかいてある絵巻物。
見物のかえり、女たちがいっぱい乗った牛車に、男たちが大ぜいつきそい、
牛をよく使う者が、車を心地よく走らせるなど。 白く清らかな、みちのく紙に手紙を書いたの。 川舟のくだるさま。
お歯黒のきれいについたの。
美しい糸をきちんとより合わせてあるもの。
弁のある陰陽師にたのんで河原に出て呪詛の祓いをしたの。
夜、寝起きに飲む水。
ひとりつれづれと物思いのあるとき、特にしたくもないが、かくべつ疎くも
ないというお客が来て、世の中のあれこれ、おもしろいうこと、腹のたつこと、
公私ともども楽しそうに話してくれるのは、心がはれゆく思いがする。 薔薇園の話に付いていないノブ みつ木もも花
雀
当時の雀とは、小鳥一般のことをいった。
『枕草子』の「胸がときめくもの」をはじめ、『源氏物語』にも、若紫の君が
飼っていた雀の子を逃がしてしまう場面がある。
胸がときめくもの-----------
胸がときめくもの、雀を飼うこと。
幼い子を遊ばせているところの前を通るとき。
舶来の鏡の、おもてがすこし曇っているのを見る気持。
身分ある男の、牛車を家の前にとどめて、召し使いに取次を申し入れている
もの。 上等の香をたいて一人横になり、物思いしている私。
あたまを洗い化粧をして、香のしみた衣を着る。
そういうときは、誰も見る人なくても、心のうちははればれと、深いよろこび
がわいてくる。 男を待つ夜。---------雨や風が戸を打つ音にも、はっと、こころときめきする
ものだ…。 百歳に備えて習う三味太鼓 坂上淳司
納戸縮緬地千鳥歌文字模様小袖 (東京国立博物館蔵)
「胸がときめくもの」として頭を洗い化粧して、香のしみた衣を着ることが 挙げられている。 今も昔もおシャレをする気持ちは変わらない。 過ぎた昔が恋しいもの-----------
過ぎた昔が恋しいもの、人形ごっこの道具。
二藍や葡萄染の布の切れはしが、押しつぶされて、綴じ本の中にあったのを
みつけたとき。 しみじみした昔の文を、雨のふるつれづれにさがし出して読んでいるの。
枯れた葵。 去年の扇。 月のあかるい夜。
鴨川の飛び石美男子が手を貸してくれ 武内幸子 一族の顔認証で開く襖 月波余生
暁に帰らむ人は イメージ
枕草子における「随想的章段」は、清少納言が自然や人事を観察して思った ことを自由に書いたパラグラフである。 たとえば「春はあけぼの」は、こちらに分類され、春夏秋冬それぞれに風情
を感じる瞬間について、独特な感性で鋭く表現している。
その他、別れ際における恋人のあるべき姿を描いた「暁に帰らむ人は」や、 他人の噂話や陰口を言う人への、痛快で新しい意見を述べた「人の上言ふを
腹立つ人こそ」のパラグラフなどがある。 とんがった耳はどこでもドア越えて 富山やよい
式部ー枕草子 「にくらしいもの」
火鉢 (滴翠美術館蔵) 「にくらしいもの」では、火鉢の火にあたりながら手のひらを返し、シワを
のばしている人や、話ながら足までのせてこすっている人が挙げられている。 「にくらしいもの」
にくらしいもの。急用のあるときやってきて、長話をする客。
適当にあしらえる人なら、「あとで」といって帰ってもらえるけれど、
さすがみ気がおけて遠慮のある人は、そうも言えないのでにくらしくなる。 硯に髪に毛の入って磨られているのなど。
また、墨の中に石が入っていて、磨るときしきしと鳴るの…。
たいしたこともない平凡な人が、やたらとにこにこして盛んに喋っているの。
火鉢の火や囲炉裏などに、手のひらをひっくり返しひっくり返し、手を押し
のばしたりして、あぶっている者。 いったいいつ若い人などが、そんな見苦しいことをしたのだろうか。
年寄りじみた人に限って、火鉢のふちに足まで持ち上げて、話をしながら足を こすったりなどするようだ。 そういう無作法者は、人の所にやって来て、座ろうとする所を、まず扇であち
こち扇ぎ散らして塵を掃き捨て、座る所も定まらないでふらふらして、狩衣の 前を膝の下に巻き込んで座るようだ。 先生あの娘片肌脱いでますよ 酒井かがり
「にくらしいもの」として
急病人のためにようやく探しあてた験者にお祈りさせようとすると、 すぐに眠り声になることを挙げている。 急に病人が出たので、祈らせようと修験者を探すと、いつもいる所にはいない
ので、別の所を探していると、待ち遠しいほど長い時間が経ち、やっとのこと で待ち迎えて、喜びながら加持をさせると、この頃、物の怪にかかわって疲れ きってしまったのか、座るやいなや読経が眠り声なのは、ひどく憎らしい。 痛点にモーツアルトの子守歌 吉松澄子
彩絵花丸模様舞扇
「にくらしいもの」では、無作法な人が人の家に来て、自分の座る場所を扇で
ばたばたとやって、塵を払うことが評されている。 とりもなおさずお行儀の悪い人は、人の前にやってきて、座る場所をばたばた
と扇で払って塵をはき捨て、しどけない坐りようで、狩衣の前の垂れも、膝の 下へ巻き込んだりする。 こういうことは、とるに足らぬ身分の者がするのかと思っていたが、そうでも
なく、少しはましな身分の、式部太夫とか駿河の前司などという人々がやるん だから、見るに堪えない。 いちびりの成れの果てです蒟蒻は 新川弘子
「 絵 師 草 子 」(宮内庁三の丸丸尚蔵)
酒を飲んでわめく人。 口の中へ指を入れて、歯をほじくったり、髯のある人はそれを撫でたり、
杯を人にやって酒をついだりするようす、まことににくらしい。 口をへの字にしたり、苦しがりながら、「もっと飲め」などと杯をさし、子供
たちが歌を歌う時のように体をゆさぶり、ほんとに酒飲みってにくらしい。 身分の高い人が、こんなことをなさるのを目撃したので、よけい、いとわしく 思うのである。 友が来てギンナン焼いて沁む地酒 川西則子
人のことを羨ましがり、自分の身の上をこぼし、人の噂をあれこれ言い、ちょ
っとしたことも知りたがり聞きたがって、喋らないでいると、恨んだり悪口を 言ったりし、また、ほんの少し聞きかじったことを、自分は前からよく知って いたように、いい気になって人に吹聴する、そんな人もにくらしい。 物を聞こうと思う時に泣く赤ん坊。
烏が集まりやかましく鳴きかわして飛んでいるの。
こっそり忍んでくる男を見知って吠える犬は、打ち殺したいほどである。
蛭は背を百足ゲジゲジ脛を這う 井上一筒
ブーンと唸って顔の周りを飛ぶ蚊
無理な場所に、いたしかたなく隠して寝かせておいた男が、鼾をたてているの。 また忍んできて、長烏帽子がものにつきあたり、ガサッと鳴ったりするの。 また引き戸を荒々しく開けるのもにくらしい。
少し持ち上げるようにして開けたら鳴らないのに…。
眠たいと思って臥しているときに、蚊が細い声でかすかにブーンと唸って顔
のまわりに飛びまわる。その羽風が蚊の体相応にあるのもにくらしい。 襖から野太い声が出られない 石橋芳山
ギシギシザワザワとうるさい牛車 牛車 乗り物として、実用とともに、外観の装飾を華美にすることを競った。
普通は四人乗りで、二人乗りや六人乗りの場合もある。
悪い牛車はぎしぎし音をたて、うるさかったのだろう。(栄花物語)
ぎしぎしという牛車に乗っていく人。自分は聞こえないのかしらとにくらしい。
また世間話をしているとき、さきくぐりして喋る人。
出しゃばりは、大人も子供もにくらしい。
ちょっと遊びに来た子供を、可愛がって相手になり、いろんなものをおもちゃ
にやると、それに慣れて、しじゅうやって来て、家具など散らかしたりするの もにくらしい。 自宅でも宮仕えしている所でも、会わずにおこうと思う人が来た時、しって
狸寝入りなぞしている。それを侍女たちがわざわざお起こしにきて「寝坊な」 と言い、顔にゆすぶったりするのはにくらしい。 背は縮む耳は騒ぐし眼はかすむ 宮井元伸
新参者が、古参をさしおいて、物知り顔に指図するようなことをいうのも、
たいへんにくらしい。 恋人の男が、昔の女のことなどを褒めたりするのも、過去のことだけれど、
やっぱりにくらしい。まして現在のことなら、どんなに嫉妬されることだろう。 しかしまた考えると、現在のことの方が、却ってそれほどでもないかも知れぬ。
くしゃみしてまじないを唱える人もにくらしい。
総じて一家の男あるじでなくては、高らかにくしゃみなどするのはにくらしい。 蚤もたいへんにくらしい。衣の下をはねまわって、もちあげるようにする。
犬が声を合わせ、長々と吠えているのも不吉でにくらしい。
開けて出た戸を、あと、閉めない人も……。
「ねーちょっと! 自分の開けた戸ぐらい閉めていきなさいよ!」
どや顔の犬とポーカーフェイスの猫 森田律子
何か面白いことはないかしらと・清少納言 (谷文晁画) 「人の上言ふを腹立つ人こそ」
清少納言のまことを見るには、「人の上言ふを腹立つ人こそ」の段だろう
これは清少納言が、「人の悪口は楽しくってやめられないわ-」と叫んでいる
パラグラフである。 そして、悪口を言う人に腹を立てている人に対しては、「いい人ぶっててわけ
わかんない」と、ムカついてもいる。 おしまいには、親しい人の場合には、かわいそうだから我慢して悪口言わない
けど、「ほんとは言えたらめっちゃ笑えるのに」と本音もこっそり認めている。 生も死も喜怒哀楽も飲むティッシュ 金瀬達雄
「暁に帰らむ人は」
夜更けの頃に帰ってく人は、服装なんかはそんなにきちっとキレイにしたり、
烏帽子の紐をしっかり結んだりしなくってもいいと思うのよね。 だらしなく、みっともなく、直衣・狩衣などがゆがんでいるとしても、
誰がそれに気付いて、笑ったりけなしたりもするだろうか…。
誰も見ている人なんかいないわよね。やはり男は、暁の様子こそ素敵で、
ゆうゆうぜんとしていなくてはいけない、と認めているパラグラである。 おしりで塞ぐバスタブの底の穴 河村啓子 |
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