川柳的逍遥 人の世の一家言
迷路にはひょいと喜劇の押しボタン 佐藤正昭
『文武二道万石通』(朋誠堂喜三二作/恋川春町画 国立国会図書館)
延喜の御代に補佐の任にあった菅秀才は、武芸を奨励するが、人々が武勇を誇
って洛中で騒動を繰り広げる。 そこで大江匡房を招いて聖賢の道を講じさせて 学問を奨励するが、その内容を勘違いした人々が再び洛中で騒動を引き起こす。 菅秀才は松平定信、大江匡房は柴野栗山をモデルにしており、寛政の改革によ る武家の変節を描いている。 ハンバーガーの具材に挟む江戸幕府 通利一遍
「吉原細見」は、安定した需要が見込めるジャンルとして、複数の版元が競う
ように出していたが、重三郎が出版した細見は、レイアウトやサイズの変更に より、他の細身よりも分かりやすく見やすかった。 読者サイドに立った編集方針を取った上に、吉原に生まれ育ったことで遊郭の
情報には詳しかったため、内容に対する信用度も高かった。 その結果、蔦屋版の細見シェアを拡大させ、天明三年(1783)には『吉原細見』
のマーケットを独占する。 リスクの少ない分野で売り上げを伸ばして、経営基盤を固めると、重三郎は攻 めに転じる。即、市場が拡大していたジャンルに参入していくのである。 天明八年(1788)、田沼意次の進める寛政改革への不満が、社会に広がりはじめ
た頃である。改革の柱である文武奨励の方針を揶揄する二つの作品を出版する。 ひとつは、黄表紙界の人気作家、朋誠堂喜三二の「文武二道万石通」である。
当時、重三郎の店で働いていた曲亭馬琴は「古今未曽有の大流行」と評したが、
それだけ寛政改革に対する不満が広がっており、同書を読んで人々は、溜飲を 下げた。もうひとつは、翌寛政元年(1789)、人気作家・恋川春町の「鸚鵡返し 文武二道」を出版した。これもまた大ヒットする。 不満いっぱい酸素不足になっている 岡田幸子
吉原細見を見る、蔦屋重三郎ー田沼意次
横浜流星 渡辺謙 駿河屋市衛門 田安賢丸 徳川家治 高橋克実 寺田心 眞島秀和 「べらぼう三話 ざっとあらすじ」 重三郎(横浜流星)、は吉原細見の改を行った後も、女郎たちから資金を集め、
新たな本作りに駆け回る。駿河屋(高橋克実)は、そんな蔦重が許せず激怒し、
家から追い出してしまう。 それでも本作りをあきらめない重三郎は、絵師・北尾重政(橋本淳)を訪ねる。 その頃、江戸城内では、田沼意次(渡辺謙)が一度白紙となった白河松平家へ の養子に、再び、田安賢丸(寺田心)を送り込もうと、将軍・家治(眞島秀和) に相談を持ち掛ける…。 斜めからほじくり回すのは誰だ 山本昌乃
蔦屋重三郎ー黄表紙の版元へ
手柄岡持は朋誠堂喜三二・酒上不埒は恋川春町、
蔦重を飛躍に導いた2人の人気戯作者 蔦屋重三郎が江戸で一、二を争う版元に飛躍する転機となったのか、18世紀
半ばに流行した黄表紙(当世風俗を扱った絵入りの娯楽小説)市場への参入で
あった。これを後押ししたのが戯作者・朋誠堂喜三二(1735-1813)と恋川春町 (1744-1789)である。 いずれも当代随一の人気作家であったが、れっきとした武士である。 朋誠堂喜三二は、秋田佐竹藩の江戸留守居役平沢平格の戯名である。
留守居はいわば接待族で、職務の必要上吉原には通じている。おそらくは吉原 の本屋とこの留守居役とは、この地ですでに知り合っていたのだろう。 蔦重版における最初の関りは安永6年(1777)3月刊の『手毎の清水』で、これ
には喜三二の序跋が添えられている。 「一目千本」の改鼠に喜三二も絡んでいるのである。 助動詞の部分に置いた薬瓶 みつ木もも花
黄表紙・さとのばかむら
滑稽・へりくつ・諧謔が堂々まかり通る黄表紙の世界。 一冊まるごと読み解けばナンセンスの裏に潜む江戸の機知に脱帽させられる。 この年には他に『娼妃地理記』を7月に出して吉原本の趣を一変し、蔦重版は 一気に戯作の世界に接近する。翌安永7年からは、蔦重版細見の序文の常連筆 者ともなる。 喜三二は、安永6年正月版のものより、黄表紙に手を染め、旧友恋川春町と強 調して黄表紙というジャンルを確立する才子である。 蔦重が戯作出版に乗り出して行くに際し、喜三二の力添えがあったことの意義
は極めて大きい。 先生と呼ばれるほどのタブレット 蟹口和枝
恋川春町は、本名を倉橋格(いたる)といい、徳川譜代の滝脇発平家が治める
駿河小島藩の重役であった。妖怪画で知られる鳥山石燕に学び、最初は、絵師 として活躍したが、安永4年(1775)、自ら文章と挿絵を手がけた黄表紙『金々 先生栄華夢』のヒットを機に人気作家となる。 もともと2人は江戸の版元・鱗形屋孫兵衛の専属作家に近い立場であった。
しかし安永4年、鱗形屋が幕府の法令に違反して摘発されると、蔦重はその隙
をついて喜三二を取り込み、黄表紙の市場へ参入。 少し遅れて春町とも手を組み、ヒット作を次々と世に送り出した。 黄表紙界の二大巨頭を引き込むことで、蔦重は江戸を代表する「版元」へ成長
していくのである。 血となり肉となり人間ができる 市井美春
寛政元年(1789)喜三二と春町は、堅苦しい世相を吹き飛ばそうと、蔦屋から、
松平定信の文武奨励策を揶揄する黄表紙を相次いで発表し、大当たりとなった。 これが定信の逆鱗に触れる。
喜三二は主家から執筆活動の中止を命じられ、以後、狂歌師・手柄岡持として 活動を続けた。 春町は小島藩を通じて、定信から出頭を命じられた直後に謎の死をとげる。
主家の立場を案じての自殺だったともいわれている。
スマホから指名手配のピーが鳴る 井上恵津子
『金々先生栄花夢』 (恋川春町作 版元鱗形屋孫兵衛 国立国会図書館)
金村屋金兵衛という田舎出の若者が目黒の粟餅屋で休むうちに,富商の養子に 迎えられ,金々先生と呼ばれて、遊里で栄華な生活を送るが,悪手代や女郎に だまされて元の姿で追い出される夢を見て,人生を悟るというストーリー。 『大通人好記』 (朋誠堂喜三二作 大東急記念文庫蔵本) 安永9年正月刊。算術の本『塵却記』のパロディで、吉原での遊びを中心に
遊びの世界をさなざまにこじつけた戯作である。
掲載図は「まま子立て」のパロディ。
『恒例形間違曽我』 (朋誠堂喜三二作 杉浦史料博物館蔵本)
天明2年(1782)正月刊。巻末に喜三二と蔦重が対座する場面を描く。
登場人物であったお廓喜三太の弟が喜三二という黄表紙作者となり同じく
堤判官重三が本屋になり重三郎と名乗って商売繁盛したとこじつける。
『伊達模様・見立蓬莱』
巻末の新版広告には、黄表紙出版に乗り出した蔦重の意気込みが読み取れる。 「黄表紙の版元としての出発」 蔦重の黄表紙出版は、安永9年(1780)より始まる。
芝居の舞台を模した奇抜な趣向の新版目録で、蔦重自身が幕引きとして登場し
ている。外題看板に擬した中に「耕書堂ときこえしは花のお江戸の新吉原大門 口と日本堤の中にまとふや蔦かづらつたや重三が商売の栄」と見える。 新しい分野に乗り込んでいく意気込みの表明と、これからの商売の予祝の表現
である。蔦重は、喜三二という戯作の名手を黄表紙作者に得て、当代もっとも 生きのよい文芸の出版に携わることになる。 流行の黄表紙を出版することは、「版元蔦屋」の名を高らしめる。
単に吉原情報を供給するだけの版元ではなく、江戸市中の老舗の地本問屋に混
じって当代をリードする版元が吉原という場所に生まれるのである。 隅田川の下半身は江戸だろう 徳山泰子 PR |
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