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川柳的逍遥 人の世の一家言
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傘の角度で江戸っ子だとわかる  酒井かがり






浅草庵、葛飾北斎画『画本東都遊』に描かれた耕書堂(蔦屋重三郎)の様子




大河ドラマ令和7がはじまりました。
第一話「ありがた山の寒がらす(ホトトギス)」は当時の流行言葉で「ただで手
に入れること」を意味しており「火事ごときに負けてられるか」という蔦屋重三
の生涯のテーマになったようです。
 明和5年(1768)4月6日の八つ時(午前2時頃)吉原江戸町2丁目から出火、
折からの大風で廓内から入口にあたる五十軒道まで悉く焼け落ちました。
3年後の明和8年4月23日、やはり、夜明け前の4時ごろ今度は、一筋北の
揚屋町から火が出て、やはり廓内全焼。
この2回とも、廓外に仮宅をつくらなければならないほどの被害だったという。
さらに1年もたたない安永元年(1772)2月29日、今度は、はるか西南の目黒
行人坂大円寺から出火した火が強風にのって燃え広がり、ほとんど江戸の中心
部を焼き尽くして、吉原まで焦土化しました。




危機感をいつも抱いてる非常口  通利一遍




幕府は罹災した大名には、参勤交代の延期を認めたり貸与金を出したり、また
火災予防のために火消しの表彰、耐火建築の奨励などの措置をとるなど、人心
の安定に懸命に動いたものですが、この夏は冷夏で、その上、秋には風水害が
続き、全国的な凶作となって11月には、安永に改元したほどであった。
吉原の大火は、この後も天明元年(1781)、4年、7年と数年おきにあったから
珍しいことではなかったのだが、その度に店の持ち主は、店を手放さなければ
ならない厳しい環境になっていました。





きのうの続きで元旦の朝が来る  前田芙巳代






       五十軒道からつづく吉原大門口




店の経営者に移動の出るこうした不幸な出来事をも好機ととらえて、蔦屋本家
の養子だった蔦屋重三郎が、大門口に店をかまえる意欲をもったとしても何の
不思議はありません。吉原の入り口は一つ。その大門口から木戸までを「五十
軒道」と呼ぶが、ゆるや」かな坂道が「く」の字に曲がってつづく左側の、縁つ
づきの、引手茶屋蔦屋次郎兵衛方の店先を借り、版元の1人として「五十軒道
左側蔦屋重三郎」と看板を掲げ、ささやかな細身の委託販売を業とする書店を
開いたのです。いよいよ重三郎の出版社としての活動がはじまります。
ときに蔦屋重三郎23歳であった。




指先から湧いてくる積乱雲  近藤真奈






江戸の貸本屋 (十返舎一九「倡客竅学問」(しょうかくあながくもん)

風呂敷に包んだ本を顧客の遊女に見せる貸本屋





蔦屋重三郎ー版元として出発




家業は飲食業(茶屋)でありながら、異業種の出版事業に参入した重三郎だが
いきなり版元(出版社)として活動を開始したわけだはない。
そのはじまりは貸本屋であった。当時、本は高価で、購買層は経済力のある者
に限られました。幕末の江戸では、本のレンタル料は一冊に6~30文。
(現代の米代に対比して50円~240円というところですか)
レンタルならば左程の出費ではないが、本を購入するとなると、それをはるか
に超える金額が必要だった。よって貸本屋の需要は、相当なもので、貸本屋が
江戸の読書環境を支えていたといえます。
貸本屋は、行商人のように各所に出入りし、本のレンタルに応じました。
江戸の町はもちろん、大名や旗本・御家人の屋敷にも出入りをし。武士・町人
といった身分の別に係わらず貸本屋は得意先に足しげく通うことで、おのずと
読者の好みを知ることが出来ました。それが出版に際してのマーケティングに
直結し、企画に活かせたのは言うまでもありません。
人脈の構築、つまりは販路の確保にも役立ちます。重三郎が話題作やヒット作
を連発できた理由を考える上で、「版元」として出版界に参入する前の貸本屋
という助走時間は外せないものでした。




工夫して使えば倍になる時間  橋倉久美子






    平賀源内に吉原遊郭の序文をかかせた蔦重の発想力




安永2年(1773)の鱗形屋(うろこがたや)版「吉原細見」の春版である『這嬋
観玉盤(このふみづき)』の奥付きには、取次書として、はじめて蔦屋重三郎
の名が出ています。
ついで秋版の細身『嗚呼御江戸』では、鱗形屋版で蔦屋版ではなく、奥付きに
「細見おろし小売・新吉原五十軒道左側蔦屋重三郎」となっていましたが、
巻頭に何と平賀源内の序文を載せている。
この当時、平賀源内は、右に出るものもない文化人のトップの大物です。
蔦重は、吉原のガイドブック「吉原細見」で、吉原に再び人を呼び寄せる案を
思いつき。その序文を江戸の有名人・平賀源内に執筆してもらうため、鱗形屋
孫兵衛に相談にいくと「自ら説得できれば掲載を約束する」と言われ奔走した
成果であったのです。因みに、この離れ業に一枚加わったのは、当時18歳の
太田南畝と言われています。






       蔦屋重三郎最初の出版物『一目千本』

遊女の名前と流行の挿し花の図とを取り合わせた遊女評判記。




冬を脱ぎながら地下街を抜ける  赤松蛍子




細見の売れ行きが予想以上であることに気をよくした重三郎は、つづいて遊女
評判記に目をつけます。細見に続いて、同じ年の7月に刊行した『一目千本花
すまひ』こそは蔦重単独刊行の処女出版だった。
「すまひ」とは相撲のことで、主な遊女を花くらべの相撲見立てで登場させる
評判記といったもの。たった一冊の細身づくりに、最新情報を盛り込むべく、
廓のなかを駆け回った重三郎は、それだけで細見編集のノウハウと売るに必要
な情報のコツを手に入れてしまったのである。




ひらめきの勢い斜面かけ降りる  山本美枝






 

           「青楼美人合姿鏡」 


安永5年正月刊。北尾重政と勝川春章という当時を代表する二大絵師
の競作による。豪華で華麗な絵本は出版印刷史上に残る名品である。
耕書堂主人(蔦屋重三郎)の序文が据えられている。蔦重自身の企画
構成によるもので、巻末には遊女の発句が掲載されている。





「青楼美人合姿鏡」 成立事情
この絵本は格別豪華な造本で仕立てられており、要した出版経費も相当
なものでした。この絵本は贅沢さに突出しています。いまだ資本の潤沢
でないこの版元が、一人ですべての経費を負担したとは考えられません。
経費の回収のあてが、不特定多数への販売によるものだけであったはず
はもい。収録されている遊女の選択が、客観的な評価によるものでない
ことは明らかで、一図に3人ゆったりと描かれているところもあれば、
窮屈に5人描かれている図もある。
また高位の名妓で、ここに描かれていない遊女も少なくない。
これは『一目千本』『急戯花之名寄』にも同様に見られる傾向であった。
おそらく画像として描かれ、発句を掲載した遊女や、妓楼などが経費を
ある程度あらかじめ出資、重三郎の勢いに乗ったのだろう。



ジャンプすれば届く高さの熟し柿  雨森茂樹

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