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川柳的逍遥 人の世の一家言
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吉良ふなよ首納豆の歳暮かな 
                    (吉良の首請取りの落首)





泉岳寺へ永代橋を凱旋する四十七士

泉岳寺の主君に報告をする四十七士




吉良の首
大石以下四十六士、泉岳寺の主君の墓前に上野介の首級を供える。
墓前に供えたのち、庫裡から重箱の外箱を取り寄せ納めて終日、衆寮に置いて
あったが十六日の晩使僧二名が吉良邸へ届けたとある。『白明話録』
-----泉岳寺酬山和尚は、阿部飛騨守吉良の首の処置を相談、飛騨守邸で泉岳寺
と上野介の菩提寺・万松院が話し合い、酬山和尚は、石獅・一呑に吉良の首を
返させる。吉良家の左右田孫兵衛、斉藤宮内の両家老が書いた受取書が現存する。


「なんてことをしてくれる!」




『時は元禄15年極月(12月)14日、所は江戸・本所松坂町』
これは吉良邸討入りの講談の枕コトバである。
しかし、旧暦の赤穂義士が吉良邸へ上野介を討ち取ったった12月14日はー
新暦では、1703年1月30日-------現在の暦とは37日ズレる。
明治6年1月1日に、和暦から西洋暦への改暦の正式な発表は、天保暦の明治
5年11月9日であった。
「天保暦の12月3日を太陽暦の明治6年の1月1日とする」
というものであった。
準備期間も短く、「12月はわずか2日」しかなくなってしまった。
12月3日から大晦日までの誕生日が消えてしまったばかりか、
浅野内匠頭の刃傷があった元禄14年3月14日も4月21日になる。
12月といえば「47士討入り」で親しまれてきた物語りなのだ。
大石以下47士は、主君の命日14日に「仇討ち」を決行するから、
気概も奮起するのであって、筋書きも少し萎んでしまう------ではないか。


あら楽 思は晴るる身は捨つる 浮世の月にかかる雲なし  内蔵助辞世









※ 改暦によって起きた騒動のてんてこ舞い。





・大晦日が消えた
暮れも押し詰まった大晦日。まだお正月の準備が終わらず、もう少し時間が
欲しいという方もいらっしゃるかもしれません。
・正月が消える…
年末年始の行事はどうなるの?  お年玉はどうなるの? 
・カレンダーが間に合わない
カレンダーは通常9月ころに印刷されていました。、改暦が布告されたのは、
11月 作り直しするのには、とても間に合いません。
・12月分の給料や借金の利息計算はどうなった?
当時大蔵省に在籍していた渋沢栄一さんが、一役買って解決したようです。
・年末年始休暇の始まり
日曜日を休日とし、従来の「一六(1と6のつく日を休み)とする休暇制度を
改める案が出されました。この時、12月28日「仕事納め」1月4日「仕事始め」
とする年末年始の休暇は、これに端を発したのです。
・改暦により消えた祝日があり・生まれた祝日があり
人日、上巳、端午、七夕、重陽の「五節句」の五節句は廃止。
1月1日の「朝賀」に代えて、9月22日(天長節として)を祝日とした。




大晦日片づいていて用があり  岸本水府

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