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川柳的逍遥 人の世の一家言
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逆らって生き強靭な顎一つ  佐藤正昭
 
 


「諸国名橋奇覧 飛越の堺つりはし」




地上の森羅万象を捉えようとした葛飾北斎の眼は、大自然の絶景、奇景
を大胆な構図を描き出し、かつてない風景画を生み出した。その超人的
な想像力と描写力の高さが、あり得ない世界をリアルに感じる傑作へ
と昇華させている一枚・『飛越の堺つりはし』である。

「三人の奇人絵師」葛飾北斎・歌川国芳・河鍋暁斎





「富士越龍図」
「九十老人卍筆」 印章「百」
 墨絵の筆致で北斎独特の幾何学的山容の富士。雲を呼び、昇天する龍に
自らをなぞらえる。落款に出生の宝暦10年と共に嘉永二己酉年正月辰
ノ日とあり、北斎90歳のときに描いたものと分かる。北斎はこの作品
を仕上げ3ヵ月後に死去している。
 
 
 
 
葛飾北斎のコトバに「絵に掛けぬものはない」というのがある。
ほとばしる才能を画面に投影し、異次元の世界を探求し続け、森羅万象
この世のすべてを北斎は描き尽した。北斎の代表作『富嶽三十六景』
出版がはじまったのは、天保元年(1830)頃、この時71歳に達し
ていた。このあと『諸国瀧廻り』『諸国名橋奇覧』といった浮世絵の歴
史に残る傑作を発表。さらに80歳を超えてから細密な肉筆画に挑んだ。
飯島虚心『葛飾北斎伝』に次のような北斎のコトバがある。
「70歳までに描いたものは、とるに足らぬものである。73歳でやっ
と生き物の骨格や草木の生まれを知った。80歳になればますます腕は
上達し、90歳で奥義を極め、100歳で神技といわれるであろう」




縁側で鼻を乾かしているじいじ  森田律子






「百物語 こはだ小平二」
こはだ小平二は「木幡小平次」という怪談物の主人公。小平次は大根役
者だったために、もっぱら幽霊の役ばかりやらされていた。その小平次
には妻がいて、これが他の男と密通したうえ、共謀して小平次を殺して
しまった。殺された小平次は、恨みの余り往生できず、今度は、本物の
幽霊となって、自分を殺した者の前に現れる、という話である。




その北斎の言葉通りに、作品の深みを増していったのだから恐れ入る。
といって、遅咲きの絵師であったわけではない。幼いころから絵を描く
ことが好きで、19歳で役者絵や美人画を得意とする浮世絵師・勝川春
に弟子入り、翌年には自作を発表している。ところが、北斎は勝川派
の一絵師にとどまる器ではなかった。35歳頃に同派を離れ、孤高の道
を歩む。以後は、江戸時代の絵画の本流ともいえる、狩野派や装飾的な
琳派の絵師・俵屋宗理に学び、しばらく自身も宗理二代目を名乗った。
時には、喜多川歌麿や三代目堤等琳(つつみとうりん)をライバルとし、
さらには『芥子園画伝』などから「中国絵画」をも習得した。40代以
降は、滝沢馬琴『椿説弓張月』などの物語に挿絵をつけた「読本」の
世界で活躍し、人気絵師となる。
 

目立たないようにさすがが佇っている  山本早苗


「魚濫観世音図」

この絵には落款がない。「傳 北斎筆」と添え書き(鑑定書)にはあり、
北斎晩年の肉筆画だったとみられている。北斎は敬虔な仏教徒だったか
ら、無落款の仏画が多く、誰がの/真筆の立証は、出来ないが北斎という
ことに落ち着いている。



さて北斎にこんなエピソードがある。還暦を3年ほど過ぎた頃のこと。
「当時、北斎という画号は一般の婦女子ですら知っていたが、川柳での
号「卍」というのは誰も知る者はいなかった。ある時、中橋の小川とい
う茶屋で、川柳点の開巻があり、帰りが夜中になってしまった。そこで
道すがら日本橋の傘店で、小田原提灯をひとつ買うこととなった。とこ
ろが生憎、桐油もひいていない白張提灯しかなかったので、仲間の一人
で本所堅川に住んでいる夢介という者が、この提灯をさして『卍さん、
チョット描いて給われ』といった。北斎は『よしよし』といって傍らに
あった硯箱から筆を取り、提灯の下げる方を店の男にもたせ、底の方を
左手で持って、蕨の文様を2,3描いた。これを見ていた男は『お前さ
んはなかなか絵心があります』と言ったので、仲間連中はドッと笑い出
したのだった」。この話は、後年この話を思い出した北斎は『とてもお
かしな事だった』と語ったという。飯島虚心・『葛飾北斎伝』

カニカマは蟹の棚には並ばない  村山浩吉



クロード・ドビュッシー 交響詩「海」

ドビュッシーは北斎の「神奈川沖浪裏」の絵を初版楽譜の表紙に使った。

北斎も50代には、全国に弟子も増え、一つ一つ手をとり教えるのも無
理だし、性格的に面倒くさいということで、彼らの手ほどきとなるよう
に出版したのが、絵手本・「北斎漫画」である。ともかく孫弟子も含め
て230人もの弟子がいたとされる。私淑の弟子を数えると数はさらに
増える。絵画のクロード・モネ、ファン・ゴッホ、ポール・セザンヌ
ガラススタンドのコンフォート・ティファニー、ブロンズ像のカミュ―
クローデル、陶器のクリストファー・ドレッサーらが、海外の私淑弟子
であり、日本では、有名なところで「歌川国芳」「河鍋 暁斎」がいる。
そろって、北斎に負けず劣らず「奇人の絵師」である。
参考に三奇人の生年月日を記しておく。
葛飾北斎 (1760-1849)
歌川国芳 (1797-1861) 北斎37歳の時に生誕。
河鍋 暁斎   (1831ー1889) 北斎71歳の時に生誕。

体験入棺釘付けされて「ん」  上山堅坊


 『みかけハこハゐが とんだいゝ人だ』 寄せ絵
 
(見かけは恐いが飛んだいい人だ)
「大ぜいの人がよつてたかつて とふと いゝ人をこしらへた とかく人の
ことハ 人にしてもらハねバ いゝ人にはならぬ」
(大勢の人が寄ってたかって、とうとう、いい人をこしらえた。兎角、
人の事は人にしてもらわねば、いい人には成らぬ)

「歌川国芳」
12歳の頃に描いた『鍾馗図』が、初代歌川豊国の目に止まり、程なく
豊国門に入る。20代は不遇の時を過ごすが、31歳の頃、『通俗水滸
伝豪傑百八人之一個』を版行。これが人気を呼び、「武者絵の国芳」
称された。役者絵、美人画、風景画と何でもこなしたが、中でも3枚続
のパノラマな構図の武者絵や歴史画、ウィットに富んだ戯画は大衆の心
をつかんだ。親分肌な人柄から、落合芳幾、月岡芳年、河鍋暁斎ら多く
の優秀な門人を集めた。(飯島虚心「浮世絵師歌川列伝」)

武者震いいいえ貧乏揺すりです  合田瑠美子


『源頼光公館土蜘作妖怪図』
源頼光と配下の四天王による土蜘蛛退治に題をとった作品とみせ,
時の老中・水野忠邦の天保の改革を痛烈に風刺した作品といわれている。

天保8年(1837)、国芳41歳の時、22歳の斎藤せゐと結婚する。
公私ともに充実した状態で「一勇斎」から「朝桜楼」に号が変わり、住
まいは向島へと移った。国芳の元には、多くの弟子が集まり、河鍋暁斎
が弟子入りしたのもこの頃であった。順風満帆は生活であったが、45
歳の時、運命は一変する。老中・水野忠邦による天保の改革。質素倹約、
風紀粛清の号令の元、天保13年には、国芳や国貞らも人情本、艶本が
取締りによって絶版処分となっている。また浮世絵も役者絵や美人画が
禁止になるなど大打撃を受ける。江戸幕府の理不尽な弾圧を黙って見て
いられない江戸っ子国芳は、浮世絵で精一杯の皮肉をぶつけた。それが
『源頼光公館土蜘作妖怪図』である。この頃に 国芳は葛飾北斎門人の
大塚道菴の紹介により、私淑の師・葛飾北斎と出会っている。国芳が独
楽廻し竹沢藤治の絵看板を描く際、道菴に補筆を頼んだときである。

荒海を描けば故郷の風の音  相田みちる


   風俗大雑書




北斎国芳がダブル時間は48年。即ち、北斎が90歳で死去するとき、
国芳は、48歳であった。想像力を駆使した絵や奇想天外を描いた絵が
北斎の絵に似たものがあれば、国芳の人生も少し北斎に似ている。若い
頃の国芳も常に金に困っており、歌川派を代表していた兄弟子・歌川国
の家に居候し、彼の仕事を手伝いながら腕を磨いた。この居候時期に
役者絵や合巻の挿絵などを描いていたが、あまり人気が出ず作品も僅か
であった。また勝川春亭にも学んでおり、さらに葛飾北斎の影響も受け、
後に3代堤等琳に学んで、「雪谷」と号した。国芳は晩年『北斎漫画』
のように『風俗大雑書』を描いている。

よろしくと交わし二人は照れている  徳山泰子


寝そべる猫と片足立ちの猫で「はんにゃめん」

明かりを背にして障子の前に座り、手や腕を組み合わせてできた鳥や動
物の形の影を障子に浮かび上がらせる「影絵遊び」、このアイディアを
浮世絵に持ち込んだのが歌川国芳である。

『歌川の門流中、筆力秀勁にして意匠巧妙なるは、蓋し国芳におよぶも
のなかるべし』
奇抜で豪胆、自由闊達。歌川国芳の浮世絵を評す言葉は、そのまま彼の
性格そのものだったといわれる。「ヒ」が「シ」(日が暮れる-しがく
れる
)になる。「ユ」が「イ」(指切りがい-いびっきり)になる。
aiの連母音を「エー」(お侍-おさむれへ・大事ーでへじ)という。
化政文化に成熟した「べらんめえ口調」で、火事と喧嘩が大好きな江戸
っ子気質。幕末屈指の人気絵師でありながら「先生然」とするのが嫌い
だった。気性の荒い町火消たちと親しく交わり、火事と聞けば遠近問わ
ず駆けつけて、消火を手伝う男気のよさ。親分肌の国芳のもとには、7
0人以上の弟子がいた。歌川芳虎、歌川芳艶、落合芳幾、歌川芳藤など
直弟子に「最後の浮世絵師」と呼ばれた月岡芳年や、幕末から明治前期
に活躍した異色の絵師・河鍋暁斎も弟子だった。

やんちゃな男が四角を丸にする  福尾圭司


     国芳ー百色面相
 
 

「こんなとこにも北斎と国芳と暁斎の共通点」
葛飾北斎には葛飾応為(お栄)という浮世絵師がおり。歌川国芳にも2
人の娘(芳鳥、芳女)が浮世絵を描いる。そして河鍋暁斎にも、一人娘
(暁翠)がいる。
そして大きなお世話に、奇想の父の娘として、意味なく比較するのだ。
とりあえず、生年だけは、ひかくしておきましょう。
葛飾応為      寛政12年(1800)
歌川 芳鳥女 天保10年(1839)
歌川 芳女  天保13年(1842)
河鍋 暁翠  慶応3年(1868)
それから、夫々の描いた美人画は、ネットでお知らせしています。





「狂斎百狂 どふけ百万編」
大蛸は力を失った幕府(五本丸→御本丸→江戸幕府→大きいだけで骨なし)
と風刺している。シャチホコは尾張藩、鍾馗は水戸藩を描いている…とも。




「河鍋暁斎」
河鍋暁斎天保2年(1831)4月、下総国古河石町に生まれる。幼名
周三郎、周麿・狂斎・是空道人・惺々斎等と号し、のち暁斎と改める。
暁斎は「ぎょうさい」とは読まず「きょうさい」と読む。それ以前の号
「狂斎」の読みを残したのものとみられる。
親の欲目でもないが、母につれられ館林の親類・田口家へ赴いたとき、
2歳の周三郎が「蛙」の写生をした。これは天才と喜んだ親は、周三郎
が7歳になると歌川国芳の画塾に入れ絵を学ばせた。でも、親は国芳が
信用できず、2年後に狩野派の塾に移した。こうした経緯に流派・画法
にこだわらず独自の世界の中で、自らを「画鬼」と称し、狩野絵と浮世
絵を混淆した画に特色をもたせ、多くの戯画や風刺画を残す画家となる。




支離滅裂な理論解いてる青ガエル  森 廣子 


象を描いたユーモラスな暁斎の漫画




歌川国芳
の教育。国芳は門弟に人を打ち、組み伏せ、投げ飛ばし、また
投げ飛ばされる様々な形態を、注意深く観察すべきだと教えていた。若
年の暁斎は、この師の教えを忠実に実行するため、一日中画帖を片手に
貧乏長屋を徘徊し、喧嘩口論を探して歩いたという。暁斎がみずから挿
絵を描いた談話集『暁斎画談』には「暁斎幼時国芳へ入塾」の項がある。
この項は国芳の画塾の様子を伝える挿絵でよく知られている。ここには
幼時の暁斎と国芳の関係が示されるとともに、国芳が暁斎に語ったとい
うことばが引かれている。次へ。

生き方にあわせて作る力こぶ  吉川幸子


暁斎の鯰

三味線を抱いた天狗が、ナマズの首につけた手綱を操り地震(風刺)を
巻き起こす。富士迄しつらえて北斎を意識した絵になっている。

「暁斎幼時国芳へ入塾」の一説。
『暁斎年甫(はじ)めて七歳周三郎と云いしとき、故一勇斎国芳の門に
遊ぶ 国芳、元来(もとより)活発を好むの性質なる故師を奇童として
愛し、常に教えて云う 我武者を描くことを好めども其の拠り所とする
基礎を得ず、一時、宋人李龍眠の描きし「水滸伝百八人の像」を見て大
いに感ずる処有るにより、是を模して錦絵を描きたるに初めて国芳の名
を人に知らるゝに至りたり…後略』

鎧つけた武者は腹式呼吸する  山本昌乃

    
             
暁斎のカエル
国宝・『鳥獣人物戯画』を模写し、暁斎が自分なりにアレンジして生み

出した作品。鳥獣人物戯画で表現されていたユーモア精神や擬人化され
た動物たちはそのままに。

幼い頃、描いた「蛙」に未来予想でもあったのだろうか、暁斎は、遠く、
平安後期の、鳥羽僧正にも想いを寄せていたようだ。何故なら、鳥獣人
物戯画とそっくりな、ひょうきんな蛙が出てくる作品がいくつもある。
加えて、鳥羽僧正の名作『放屁合戦』を模した作品もある。そして北斎
暁斎、二人の個性の違いがよく表われているのは、動物の表現だろう。
哺乳類、鳥類、魚類、爬虫類、さらには空想上の動物まで、あらゆる種
類のものを描き尽くそうとする北斎。一方、暁斎は、カエルや象、モグ
ラなどに、人間さながらの豊かなポーズや表情をとらせており、平安時
代の絵巻物『鳥獣戯画』を蘇らせてくる。

鳥獣戯画のセリフなだめている深夜  ますみ

  
    暁斎漫画         北斎漫画




「動物 描き尽くす北斎、擬人化する暁斎」
北斎は、暁斎が18歳のときに亡くなっているので、多分出合うことも
なかっただろうが、暁斎は『暁斎漫画』『暁斎酔画』などの絵本で、
踊る骸骨や擬人化された蛙などのユーモラスな画題のみならず、北斎に
匹敵するほどのありとあらゆるテーマを手掛けている。「暁斎漫画」は、
描き方、画題等、いろんな点で「北斎漫画」とよく似ている。
暁斎は北斎を憧憬し、お手本にしていたに違いない。
そういえば、北斎、国芳、暁斎の三人共、「画題は何でもござれ」の、
奇想の絵師、発想のユーモア画家という共通項があり、今も我々を楽し
ませてくれている。

海原を一気呵成にのみ込んで  河村啓子

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