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川柳的逍遥 人の世の一家言
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国宝級の男は梅干が好き  福尾圭司




   
「北斎と娘・お栄(応為)の似顔絵と手紙」



目は小さく、鼻が大きく、もじゃもじゃの白髪――。
お栄の額の点は、ほくろではなくゴミがついている――。
その容姿が様々に描かれている江戸の浮世絵師、葛飾北斎が晩年、
自分と娘お栄の肖像を描き、風貌の特徴までつづっていた手紙を、
東京都内の収集家が所蔵していることがわかった。


心太天声人語ゴビ砂漠  いなだ豆乃助




 北斎が描いていた自分の横顔(記事)


 手紙は当時、亀沢町(東京都墨田区)に住んで三浦屋八右衛門と名乗っ
ていた北斎、「何屋何兵衛」にあてた画料の受取状。
 「一 金何両ト何拾何匁石は画料として慥(たしか)ニ拝納仕候為念 
かくのごとく御座侯以上」と認(したた)めている。
(お金の額や相手の名を特定しないまま出している受取状で、これから
お金を取りに行くという内容などから、北斎は絵を描かずにお金を無心
した可能性もあるとみられている)
 その手紙の最後に、自分の横顛と、娘お栄の正面からの肖像を描き、
「眼の小キ 鼻之大キ成 白髪のモジャ/\と致侯 親父か 腮(あご)の
四角ナ女」と二人の特徴を述べて、どちらかがお金を取りにいく、など
と結んでいる。


曇り空いつまで昨日引っ張るの  みつ木もも花


手紙は、長野小布施で見つかったことが研究者の間で知られていたが、
現物は行方知れずになっていた。業者を通じて数年前に、東京都内の
収集家の手に収まったという。似顔絵は、画料を受け取りに行く人物
が相手にわかるように、と送った手紙で、ちゃめっ気もうかがえる。
北斎研究家の伊藤めぐみさんは「『面長で厳しい顔つき』という従来
のイメージを覆すもので、好々爺然としたイメージで描かれている」
と話している。

まんまるい顔はリスクになりたがる  岩田多佳子



北斎はどんな顔の新聞記事



「北斎の顔」

 北斎の肖像は、これまで、ほお骨が張った長い顔に、切れ長の厳しい目
というイメージが一般的に定着している。これは北斎の死の44年後に、
浮世絵研究家・飯島虚心が出版した日本初の北斎研究書『葛飾北斎伝』
に載ったものがもとになっている。その三年後にフランスで出版された
「北斎」にも転載されたため海外にも広まった。
さらに、この肖像画とそっくりの「北斎像」が浮世絵商の小林文七の手
で、版画にされたことで、広く知られるようになった。


あざ笑うなかれ只の凹凸なんやから 山口ろっぱ


 しかし、この肖像画については、飯島が出版元の意向で使わざるを得な
かったとして「このごとき怪しき肖像を出せるは、これ世人を欺くに似
たり、また北斎翁をあなどるに似たり」と悔やんでいたことも明らかに
なった、という。
 墨田区北斎館開館準備担当でもある伊藤さんは「いわれがはっきりしな
いこれまでの肖像とは違って、最も本人に近い肖像画の一つといえる。
北斎は自ら特徴とした大きな鼻が目立つように横顔を描いたのだろうが、
現存している中では唯一のものだ」と話している 。


鰯雲の解体現場に立ち会った  江口ちかる


「北斎はどんな顔」


 
「葛飾北斎伝」の扉絵になって広まった肖像




江戸後期の浮世絵師葛飾北斎「どんな顔」をしていたのだろう。明治
時代の研究書に載った肖像をもとにした「面長で厳しい顔つき」との通
説に対し、この肖像は北斎ではなかった、という疑いが出てきた。
研究書の著者は、「この肖像を載せれば、本の信用までなくなる」と拒
んだが「版元の意向で載せざるを得なかった」と告白していた……。
こんな資料を東京の墨田区北斎館開設準備担当の伊藤めぐみ学芸員が掘
り起こし、研究誌『北斎研究16号』(東洋書院)に紹介している。


後ろめたい昨日の雑巾が乾く  山本早苗



明治三十三年八月 東京 小林文七蔵版とある北斎




新聞記事転載で内容は多少ダブっています。
一般的に知られている北斎の肖像は、ほほ骨が張った長い顔で、切れ長
の厳しい目が特徴。北斎が死んで44年後の明治26年(1893)浮
世絵研究家の飯島虚心がまとめた日本ではじめての北斎研究所『葛飾北
斎伝』(
蓮枢閣)に載った3年後、フランス人のコンクールが出版した
「北斎」にも転載され、世界に広まった。虚心の『北斎伝』出版から7
年後、この肖像は東京・上野で開かれた北斎展に出品された。
ところが虚心は別人を装って「局外閑人」のペンネームで、読売新聞の
批評欄に次のような批判記事を載せた。


痛いから影を踏んではいけません  宮井元伸





小林文七載版の肖像
(北斎のそっくりさん)

この如き怪しき肖像を出せるは、これ世人を欺くに似たり、また北斎翁
を侮るに似たり」…「斃死してわずかに40余年の今日、その顔を知れる
人々もなお現存すれば、これを掲ぐるははなはだ快からず」さらに虚心は
「事実の精確を主として著せるこの書も、それがためにあるいは信を失う
に至らんとて、強く拒みたれども、聴かず、ついに巻頭に掲ぐることとな
りたるなり、遺憾の至りというべし」と告白している。
出版元の浅草の浮世絵商・小林文七の意向で、肖像を載せざるを得なかっ
たのを悔やんでいた、とみられる。
(この肖像の原画は現存しておらず、由来もはっきりしない。だが文七は
北斎展の年、この肖像と瓜二つ「北斎翁」を刷り物にした。)


双子ですかいいえ従兄妹のつもりです  酒井かがり


虚心の没後「局外閑人」虚心本人だったことが公になった。だが北斎
に関するこれまでの研究で、先の新聞記事についてはほとんど触れられ
ていない。伊藤学芸員はこの記事に基づいて「虚心が『北斎伝』の肖像
の件で悔やんでいる気持ちが痛いほど伝わってくる。文七が虚心を利用
した可能性も高い」
と分析している。


無垢の木に指紋が二つ残っている  河村啓子



『煙管を吸う漁師図』

天保6年(1835)自画讃。自画像との説がある。


この夏、長野県松本市の日本浮世絵博物館・酒井信夫理事長は、北斎
娘・お栄が詠んだと思われる狂句の入った版画を「北斎の自画像の可能
性がある」
と公表した。
丸顔に、ちょっと下がり気味のまゆ毛。釣り竿を抱え、キセルを咥えて
一服する姿。自分で絵を描き画中の詩文を意味する賛(さん)も入れた。
とする「自画讃」の文字がある。酒井理事長は「狂句の内容から、北斎
がお栄の嫁入りを記念して知人らに配った版画で、賛をした北斎かお栄
のどちらかが描いた絵と見るのが自然だ。図柄は、自分を漁師にみたて
たのだろう」
という。



 
水彩画の海でひとでになるつもり  月波余生







だが東京都渋谷区にある太田記念美術館の副館長で、北斎研究家の永田
生慈
氏は「自画讃で自分の姿を描いたとはいえない。北斎は酒も飲まず、
たばこも喫わなかったと『北斎伝』に記されている。この絵を自画像に
結び付ける根拠はなにもない」と否定する。


途中からSの話になっている  森田律子




 八十三歳自画像





ちゃんちゃんこを着て座っている。少し笑い加減で一見優しそうな目だ。
「八十三歳」と書かれている。これは天保13年(1842)北斎41,
2歳ころの作品への質問に対する返信状に描かれたもの。右には直筆で
「みしゆく(未熟)の業、御容捨之上御一笑」とあり、当時の自分の作
品を未熟と評している。が、最も写実的といわれ、晩年の風貌をよく伝
えている。北斎『富嶽百景』初篇の跋文でも「70歳以前に描いた作
品はとるに足らない」
と書いており「80歳でますます上達し、さらに
百歳にもなれば、ようやく一点一格が生きているように描けるだろう」
と信じていた。(北斎の自画像はいくつか残されているが、本図が北斎
の顔に最も近いものではないかと言われている。)


すっかりじいちゃん籐椅子は飴色  下谷憲子



渓斎英泉が描いた北斎の肖像
為一翁」




幕末期の浮世絵師で北斎と親交が深かったとされる渓斎英泉も、北斎の
肖像を描いた
『 戯作者考補遺』(
木村黙老著)の渓斎英泉の描く「為一翁」だ。
羽織姿で上品な雰囲気。目は切れ長だ。北斎を知る絵師の手になるもの
だけに、研究者の間では、最も写実的だとの見方もある。
「北斎伝」には、北斎の容貌についてこんな説明がある。「やせており
日常人と異ならざれといえども、ただ耳は、巨大なり」


ほどほどの悩みもあってみぞれ和え  山本昌乃




北斎が80歳になった自分の姿を描いた自画像


「これが北齋(この時点では爲一)の自画像である」
1991秋田市立先週美術館、岐阜市歴史博物館、松本市日本浮世絵博物館
で展示を行い、図録に解説を書いている。飯島虚心は、葛飾北齋傳巻頭
の妙な杖の老人を北齋ではないと後年に苦情を呈している。版元の小林
文七は、何とか北齋の肖像を巻頭に出したかったので、妙な杖突き老人
の画像を掲載した。しかし無款であり、北齋ではない。


玄関にまずは遠慮を脱ぎ捨てて  吉川幸子



時太郎可候名の自画像




まだ北斎を名乗っていない北斎が、蔦重の奉公人であり、やはり馬琴
名乗っていない馬琴を先生と呼んで、拙作を読んで、教授してほしいと
書いた戯作『竈将軍勘略巻』「舌代」と自画像。竈将軍勘略巻を刊行
したのは、北斎41歳のころで、とてもその年齢には見えず、すっかり
お爺さん顔である。


真ん前に鏡が置いてあるいけず  北原照子


「画中の文章」
「舌代 不調法なる戯作 仕差上申候(げさく つかまつりさしあげもうし
そうろう)。是ニ而(にて)御聞(おあい=お相手)ニ合候はゞ、何卒
御覧の上、御出板可被下(くださるべく)候。初而之儀(はじめてのぎ)
に御座候得は、あしき所ハ、曲亭馬琴先生へ御直し被下候様、此段よ路
(ろ)しく奉願(ねがいたてまつり)候。又々、當年評判すこしもよ路
しく御座候へは、来春より出精仕(しゅっせいつかまつり)、御覧に入
れ可申(もうすべく)候。右申上度(もうしあげたく)、早々不具(急
ぎ書き、気持ちを充分に言い表わせていませんが)
                十月十日 蔦屋重三郎様(二代目) 


木に登ると花を咲かせてみたくなる  神野節子


小林文七のこと
浮世絵の蒐集家で浅草・駒形で画商を営むかたわら、上野で浮世絵の展
覧会を開いたり(日本初の浮世絵展・明治25年11月)蓬枢閣という
出版社を作って美術書を出版したり(飯島虚心著「葛飾北斎伝」「フェ
ロサの大著」
など)、芸術家や作家のパトロンになったり、明治の美術
界をリードした民間の大プロデューサー。浮世絵を含め収集した美術品
を海外に売ったりもした。特にフェノロサには、ギブ・アンド・テイク
で多くの美術品を献呈したという。


身のほどを知れと叫んでいるムンク  井本健治

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